木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

2016年大晦日

2016-12-31 18:41:05 | インポート
 大晦日、早いもので2016年がもう少しで終わる。
 故郷の広島県竹原市に帰省して陽光に輝き沖合に島々が多島美
を魅せる美しい海を眺めて心の洗濯をしながらしばしの時間を過ごす。
 自分自身がどのような状態であっても、良い時も思わしくない時も、
年末年始は必ず帰省して幼少の頃や少年時代の原風景である故郷で
時間を過ごしながら一年を回顧することにしている。
 43歳になるとまた20代や30代の頃とは見える風景や感じ方が変わ
ってくる。

 大晦日の時間は一年間で最もくつろげる素敵な時間の一つだろう。
 年越し蕎麦をすすり、両親と談笑し、除夜の鐘を聞き来年を展望する。
 人生は山あり谷あり、何が幸いし何が災いするか分からない。
 だからこそ日々をしっかりと過ごしていきたいものだ。
 人口が2万8000人程の小さな街の故郷にこの時節だけは大阪ナンバー
や京都ナンバー、また関東のナンバーの車が目につく。
 それぞれが帰省の時間を過ごし、この時ばかりは街が賑わう。
 美しい海に島並、歴史ある街並み、美味しい料理などとまるで保養地
のような美しい故郷にせめて若者を繋ぎとめる産業が多く育っていたならば
私も故郷を離れることなく暮らしていた可能性も高いものをといつも悔やまれ
てならない。
 年末年始に地方の街の宿命の風景を見る度に政治の構想力で人口の大都市
集中と地方の地域の人口減少や流出を食い止める良い策はないものかと思わざ
るを得ない。
 自治体だけの努力と知恵では限度がある。
 いかに政府が本気になって各地方の各地域に若者が定住できる環境や仕組を
設けるかが未来の行方を左右する。
 大晦日の時節にふと胸中を去来する思いである。

 皆様、今年もありがとうございました。
 良いお年をお迎えください。
 来年も宜しくお願い申し上げます。

2016年大晦日
 木村 正治(きむら まさはる) 


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今の20代の7割が恋人がいないとの統計に

2016-12-20 23:52:08 | インポート
 耳を疑う統計として今の20代の7割が恋人がいないとのこと。
 驚いた。本当だろうか。
 男女別では20代男性の8割が、20代女性の6割が恋人がい
ないとのことである。男女で数字が違うのは20代の2割の女性
は20代ではない他の世代の男性と交際もしくは結婚していると
いうことだろう。
 この統計が本当だとしたらその理由や背景は何だろうか。
 20代の頃は多感で体力も瞬発力もあり、まさに恋愛適齢期で
はないか。
 
 男女共に互いに異性に関心が薄くなっているのか、それとも
テレビドラマの影響で互いに白馬の王子やシンデレラを夢想して
いるために現実に触れ合う異性を受け入れられないのか、今の
20代に特有の現象か背景があるのか、どうなのだろうか。
 よく出会いがないという声も聞くがテレビドラマの主人公や映画
のワンシーンのような異性との出会いを求めているのならば永遠に
出会いはないだろう。
 20代の頃は指導者などから恋愛を禁止されても、遮られても好き
な異性にアタックする、振られたら涙と共に忘れてまた素敵な異性に
恋をしてアプローチする多感な年頃ではないか。
 今の20代の男女の皆様、本当に7割もが交際している異性がいな
いのだろうか。
 何か違和感を覚えると同時にもしもこの統計が本当だったなら虚し
さを覚え危機感すら感じる。

 何故、交際相手の異性がいない20代が増えたのだろうか。
 もしかしたらコンビニの存在とSNSやスマートフォン等の存在が原因
の1つかも知れない。
 加えて私が20代だった頃の時代にはほとんど無かった非正規雇用
が激増し生活が安定しない、目の前の仕事と生活に追われる毎日の繰
り返しでとても異性と交際するという方向にエネルギーが向かわないと
いう男女が多くなっているのではないか。
 コンビニやフランチャイズ店舗が当たり前の環境の現在では独りでも
失業さへしていなければまるで街角の冷蔵庫のような存在のコンビニで
いつでも独り用の弁当や飲み物、生活日常品が手に入るので独りでも
不便さを感じないだろう。
 コンビニが無い時代は外食することが珍しい時代だったため独りで暮ら
していれば毎日の食卓に不自由さや不便さを覚えたが今の時代はほとん
どそれはない。
 今の時代は自分で食事を作らなくても作れなくても宅配も当然のように
普及しているために独りでも困らない。
 それら諸々の環境が独り男女を増やしているのではなかろうか。
 またSNSやライン等でいとも簡単に多くの男女が繋がっているために
「腹減ったね。」
「俺も。」
というようなたわいもない断片的な会話をスマートフォンで交わす事が
自然になり、そのことで繋がった安心感があり独りでも孤独を感じない
環境になっている事も若い男女の独り化を激増させているように思えて
ならない。

 今の20代の7割が恋人がいないという統計が事実だったならば今の
20代の7割は現実の異性と交わっていない事を意味しており、これは
深刻な問題である。
 今の20代の皆様、若い季節を無駄にしないよう若い感性を燃やそう。

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体罰は指導者の次元の低さの証

2016-12-10 21:38:15 | インポート
 スポーツの指導で指導者による生徒への体罰、暴力が明るみに
なる度にため息が出る。
 まだそのような前近代的な、閉鎖的な思考回路と指導法がまかり通
っているのかと落胆すると同時に、指導者である担当教師の資質の低
さに驚きと怒りを禁じ得ない。
 先日も大阪市内で中学校の女子バレー部において練習試合での結果
が思わしくないとして監督の30代の教諭が女子生徒を蹴る叩くという体罰
が露見し、2ヶ月の停職処分が下された。

 余程の非常事態や生徒からの暴行に対する正当防衛を除いては、教師
や指導者による生徒への体罰は教師や指導者の指導力の低さやコミュケ
ーション能力の無さの裏返しである。
 言葉できつく叱るのなら構わないが、時に言葉でも人格攻撃や単なる罵声
になっている指導者も散見され、もはや指導ではなくなっている事例もある。
 スポーツの指導はスポーツ理論や人間科学的なアプローチ、メンタル効果
や栄養指導、科学的なトレーニング法や練習メニューの進化等、論理的な
説明能力と指導理論、見本の示し方などで求められる資質も高いものである。
 その求められる資質の高さに至らない指導者の中によく「体罰」という表現
手段に陥る事例が生じる。
 思うような試合結果が出ない生徒を叩く事や自分の指導方法になかなか適応
しない生徒をまるで腹いせのように殴る蹴る、髪の毛を引っ張るというのはもはや
指導という範疇を逸脱して、単なる弱い者いじめでしかない。
 例えばバレーでレシーブが苦手な女子生徒を蹴ったり殴ったりしたとしても
その生徒がそれでレシーブ能力が向上するかと言えば絶対にそれはない。
 それよりもいかにしてレシーブが上達するかという方法を示し、共に考え、練習
を重ねていくしかないのである。
 
 私が少年の頃は野球やその他の多くの種目で体罰は自然に行われていた。
 男女を問わず張り手をされる光景もよく見かけた。
 げんこつで頭を殴られる生徒の事例もよくあった。
 しかしそれらの指導方法は今では時代遅れである。
 体罰で生徒のスポーツ能力は向上しない。
 むしろ体罰を受ける事で心に深い影を刻み、好きな種目にも体罰を受ける事で
指導者に嫌気がさし果ては種目までが嫌になってしまう事例のほうが多い。
 これまでの時代で有望な生徒が体罰で嫌気がさしたり意欲を失い、競技から去る
部活動を辞めてしまう、挫折してしまうという事例のほうが多かったように見える。
 体罰が必要だ、体罰こそが指導者の生徒への愛情表現だという意見を述べる人
もいたが、愛情表現は体罰以外で示せば良い。
 体罰を受けて指導者からの愛情を感じている生徒は限りなく皆無である。
 それどころか体罰を受けた生徒は心の奥底で体罰を行う指導者の人格への疑問
を蓄積していくだろう。そして生徒の心が指導者から離反していく。
 間違った認識や指導方法、愛情表現のはき違えがこれまでの時代で多くの有望
な生徒のスポーツへの芽を摘み取ってきたことだろう。
 体罰は指導者の次元がそれだけ低いという何よりの証である。

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