木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

事前に周知される極秘会談とは

2014-08-30 19:50:09 | インポート
 福田康夫・元首相が7月下旬に中国の習近平・国家主席と極秘
に会談を行った事を認めたと数日前のニュースで報じられていたが
既に7月下旬の時点で様々な媒体によるニュースで福田康夫・元首
相が習近平・国家主席と極秘会談を行うと事前に報じられていたた
めに少なからぬ人々は既に知っている。
 福田康夫・元首相が極秘会談を行った事を認めたと報じられても
まるで追認するかのような感覚で驚かない。
 この辺りの感覚が面白いと言えば面白い。

 極秘会談だと言いながら極秘会談をこれから行うよ、と予め報道す
る幾つもの媒体。つまり全く極秘会談になっていないのである。
 既に事前に世間に周知されて行う極秘会談とは普通に行う会談と
ほとんど同じであると言える。
 極秘会談というのは会談した事自体が極秘にされたまま会談する
ことだと私は認識している。従って今回の福田康夫・元首相の極秘会
談とは、
「別ルートで会談しましたよ。」
というニュアンスとして解釈するべきであろう。
 元首相が別ルートで他国の指導者と会談するというのは良い事で
はなかろうか。何かの物事が現首相で行き詰っていたり悪化している
場合に幾つものパイプを持つ元首相が別ルートで会談を行い互いの
真意を確認したり意思の疎通を行う事で風通しが良くなったり事態が
打開できるきっかけになる事もある。

 時々、皆の前で
「私は誰それや〇〇議員と非公式に会ってきました。」
と表明している議員がいたが、皆の前で公表した瞬間からそれは非公
式に会ったことにはならず、普通に会ったということになると私は解釈
している。
 私ならもし非公式に誰かと会った時は決して誰にも知らせない。
 何故ならそれが非公式に会うということだからである。
 極秘会談なら尚更だと思うのだが面白いものである。これから極秘に
会談を行うのだよと世間に事前に報じる極秘会談は極秘ではなくなって
いるという皮肉。それとも会談を行う事は事前に公表して会談内容が極秘
という意味だったのだろうか。
 しかし福田康夫・元首相が極秘会談を行った事を認めたという事が改め
てニュースにされて報じられていたという事はやはり会談自体が極秘の
極秘会談だったのだろう。

 それはそれで良いのだろう。
 取り立てて騒ぐことではない。

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大手予備校・代々木ゼミナールの衰退に見る少子化の影響

2014-08-27 22:20:15 | インポート
 大手予備校の代々木ゼミナールが営業規模を大幅に縮小し
多くの都市から撤退、更には模擬試験からも撤退するというニュ
ースに驚いた。
 少子化により生徒数が大幅に激減し、私が高校時代の頃と比
べれば生徒数がほぼ半分に減れば受験構図も大きく激変し受験
産業がまともに影響を受けることが露見した形である。
 私が高校生の時、大学受験に明確な意思や高い目的意識を持
っていた生徒は多くが高校1年生の時から予備校に通うのが当た
り前の時代だった。
 
 代々木ゼミナール、河合塾、駿台予備校が当時は主要3予備校
だった。私も高校1年生の秋から高校での授業を終えた後にJRの
在来線で約1時間をかけて広島市内の代々木ゼミナールに週3日
は通った。
 私の世代は第二次ベビーブームだったために生徒数も多く、大学
受験も倍率が高く、また受験戦争と云われる程に受験競争も激しい
世代でありそのような時代だった。
 今の高校生は私の高校時代のほぼ半数になっているために全入
と云われる程に倍率も下がり受験状況も厳しくなくなって様変わりし
てきた。倍率が下がれば浪人する生徒も激減し予備校の需要も激減
するという当時からすれば信じられないような状況になっている。
 私の高校生時代からすれば代々木ゼミナールが大幅縮小、撤退、
模擬試験も撤退という事態は想像すらできない。

 今思えば受験もスポーツと同じだった。
 受験本番という高校生にとっての大一番の本番に向かって自己訓練
を行い、必要な情報を集め、トレーニングを重ねて努力していく。本番
に向けて頭脳や体調のピ-クを合わせていくという過程はスポーツが
本番に向けて身体を受験が頭脳をという違いがあるだけで本質は同じ
であった。
 そのような視点で見れば今思えば受験も青春の1ページである。
 周囲もピリピリして張り詰めた空気が満ちていた。競争の激しい時代
だったために自ずと高校生の頃の早い時期から多くの生徒が予備校に
通った。高校とのダブルスクール状態が当たり前という空気だった。
 高校の授業だけでは志望校の大学受験には太刀打ちできないという
事実を生徒の皆が知っていたために多くの生徒は最低でも通信教育、
更には塾や予備校に通った。そういう時代だった。

 代々木ゼミナール等の予備校では他の様々な高校から様々な空気を
纏った生徒が来ており、また皆が真剣な眼差しで自分の目標に向かって
集中していた環境が刺激になり楽しくもあった。
 更には予備校の講師は名物講師がいて、授業内容も上手く深く、高校
の授業とは次元が違うものだった。全国的に生徒達の間で著名な名物講
師という存在がいて、その名物講師の講義を受けるためにしばしば申込み
が殺到していた事を思い出す。
 15歳から18歳の年頃に経験した大学受験の激しい時代というのは、今
思えば貴重な体験だった。そして代々木ゼミナールの予備校では高校時代
に本来なら遊びたい年頃に周囲が真剣な眼差しで机に向かっている緊張感
が誘惑を断ち切ってくれたものである。
 孤独に押し潰されそうになったり何故このように机に向かわなくてはならな
いのかと苦しくなった時に思春期の日々の中を周囲に刺激を受けながら志望
校合格という目標に向けて克己の時間を過ごした事が18歳の少年を成長さ
せてくれた。
 受験を終えた時の解放感と合格を得た時の達成感は18年しか生きていない
高校3年生という少年の人生においては大きな響きと節目になった。
 スポーツの試合に臨む事と同じような本質と感覚で受験という舞台に必要な
訓練を重ねて大学に入った後に、今度は試合に臨む練習のような訓練として
の勉強ではなく本当の知性や学ぶ喜び、学問の広さと深さ、様々な知識や知性
との出会いや多種多様な価値観と個性ある学生達との出会いと邂逅という時間
が学生時代に待っていた。
 まさに無味乾燥な受験という苦しい日々を終えた後に触れた知性と学問と個性
と自由の喜びは15歳から18歳の思春期に克己の日々を重ねたからこそ得る事
ができたものである。

 少子化で高校の生徒数が私の高校時代のほぼ半分になり受験構造が激変
したことで受験産業が大きな影響を受けた。当時の記憶からすれば驚きであり
少し寂しいような気持ちである。
 大学入試も一芸入試のような、例えば歌を歌ったり踊りを披露するだけで合格
するような入試も出現していると聞く。
 大学は努力して勉強することで入試に臨み合格を得るという風景が壊れる事
は避けたいものである。
 勿論、社会に出てからのほうが学ばなければならない物事も多く、生涯学び
の連続である。高校生の頃の受験生時代と大学時代、そして社会に出てから
の学びはそれぞれに性質の違うものであり、またそれぞれの時期に必要なもの
だと感じている。
 少子化はその一つの節目の時期でもある受験生の姿や受験そのものの姿形
を大きく変容しているという事実を代々木ゼミナールのような主要予備校の衰退
という事実により痛感している。

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目が覚めるだろうか

2014-08-23 00:11:00 | インポート
 とかく物事を何かの鋳型に当てはめようとして捉えたり
何かの型や枠に入れようとする思考回路に陥りがちである。
また二者択一の思考回路にも陥りやすい。
 物事をあるがままに見てあるがままに捉え語り伝えると
いう感覚、そしてそこに共鳴できる人々を増やしていくと
いう視野を持ちたい。
 よくありがちな定義として保守なのかリベラルなのか、革
新なのかという定義はあまり意味を持たないと感じている。
 保守だからこのように言わなければならない、リベラルだ
からこうあるべきだという固定観念が現実対応能力を低下さ
せていることに気付く。
 
 例えば既存の定義としてのリベラルの見解の中に
「戦争は繰り返してはならない。だから国旗や国歌も否定する。」
というものがあるが、私は戦争は繰り返してはならないという
考えだが同時に国旗や国歌は尊重する。
 私は既存の定義のリベラルと云われる人達の多くにありがちな
国旗や国歌も否定するという考えや視野には賛同できない。
 では私は保守なのだろうか、リベラルなのだろうか。
 この定義は無意味であるという事に気付く。
 私は今を生きる日本国民である。

 また例えば既存の保守と云われる見解の人達に問いたいのは
ではあなたは何を保守しようとしているのか、という事である。
何を以て保守を自認している人達は自らを保守だと定義している
のであろうか。
 左翼や革新が存在することでその対極として何となく保守に見
える人達も少なからず存在する。明確になるほど、あなたが保守
しようとしている保守とはかくなる保守なのかと共鳴できるよう
な保守内容をあまり聞いたことがない。
 徳川幕府の政治家は保守だったのだろうか。
 幕末維新を築いてきた明治の政治家は保守と定義するのだろうか。
むしろ創造、開拓、新進気鋭といった表現のほうが適切ではなかろ
うか。大正時代から昭和初期に世界の大国からの圧力と戦い国家を
支えてきた政治家は保守と定義される存在なのか。
 上記の政治家は保守という表現が何かしっくりとこない感覚になる。
 漠然と使われている保守という表現はいつの時代からの何を指して
いるのだろうか。保守という表現を頻繁に用いている人達もあまり意
識したことがないのではなかろうか。

 つまり枠に囚われない視野と言動こそが大切なのではなかろうか。
 真摯に今を生き、物事のあるがままを本質を見つめ、その本質を
述べていく。ここに保守なのかリベラルなのかという定義は無意味に
感じてしまう。
 定義に囚われない発想と視野の中からこそ、まっとうな政治感覚が
勃興してくるものと感じている。
 またアカデミズムを学説学術と翻訳したことは何かが間違っている。
 アカデミズム(Academizm)は固定観念と翻訳するべきだった。

 さて先日、某落選中の衆議院議員の先生と他の方々と共にシンポジ
ウムを終えた後に一献しながら色々と話を伺った。
 アメリカの日本担当者が、
「2012年の総選挙で日本のリベラル勢力を崩壊させる事に成功
した。」
と述べており、今後は日本の政治を保守二大政党化へと誘導していく
戦略を有している現状を再確認した。
 ここで言うリベラル勢力とは「原発反対」「消費税増税反対」「
TPP反対」を唱えていた政治家のことである。
 またここで言う保守とはいかに忠実にアメリカの言う事を聞くか
という従米保守のことである。
 従米保守とはアメリカの指示・命令を忠実に実行する事で自らの
立場や立ち位置を守る、すなわち保守している権力側にある者や政
治家のことである。更には我が国においてアメリカの利益を実現し
ていく事で立場を与えられている日本の政治家や官僚のことである。
 であるならばつまり、今の保守とはほとんどが従米保守である。
 今後、我が国の政治が従米保守二大政党になってしまえば、どち
らが過半数を獲得してもアメリカの指示・命令を忠実に遂行するだ
けの世の中に堕落してしまう。

 有権者がよほどしっかりと目を覚まして従米保守の政治家や官僚
と、そうではなく日本のために舵取りを行う国民本位の政治家との
違いを認識して、有権者の動きで国民本位の政治家を押し上げてい
こうという流れができない限り、この私達の世の中は搾取と閉塞に
行き詰るアメリカの属国と成り果ててしまうだろう。
 もう既に霞ヶ関も永田町も属国と化しているが、従米保守二大政
党化が定着してしまえばもはや立ち直りすら困難なまでに制度の中
で搾取され、完膚なきまでに属国にされてしまうだろう。
 かつての55年体制では自民党しか過半数を得る政党は存在せず
社会党は全員が当選しても過半数に遠く及ばない万年野党というガ
ス抜きに過ぎず、唯一の過半数政党の自民党の政治家が工作され多く
が従米保守となり国民のために気概を持って臨んだ政治家はことごと
くが駆逐、失脚、抹殺されてきた。
 その姿を見てますます多くの政治家が従米保守となっていった。
 そして2009年の総選挙で民主党が政権与党交代を果たし国民の
手に政治を取り戻す試みを行ったがアメリカの逆鱗に触れ潰され瓦解
した。
 2012年の総選挙では様々なカラクリが用いられ自民党が最大与
党となったが見事なまでの従米保守である。
 その実態に未だ多くの国民が気付いていない。
 気付いていないままに国民が追い詰められている。

 これから我が国は従米保守二大政党化されてしまうのか、それとも
国民がどこかの時点でハッと気付き従米保守の政党を止めるべく国民
本位の政党を支えていく流れができるのか。
 国民の覚醒により従米政党と国民本位政党という対極に自ずとなっ
ていくのか、今は大きな岐路にある。
 今のままでは従米保守二大政党になるか、その従米二大政党が協力
して従米の翼賛政治になってしまう流れにある。
 この現実を受ければ国民本位の政党が興隆して傀儡と化している今
の我が国の政党、官僚の軌道を糺すべくそのような意味での二大政党
に持っていけるかどうかが今後の岐路である。

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然るべき人達は誰でも知っている1985年の真実

2014-08-19 21:23:26 | インポート
 お盆期間にテレビで日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に
墜落した事件から来年で30年目になるという特集が流れて
いた。あの大惨事から早いもので29年の年月が流れた。
 1985年当時は少年だった私は街に飛び交う号外とニュ
ースの大きさから衝撃を受けたものだった。
 改めて当時の犠牲者に謹んでご冥福を祈念したい。

 しかし然るべき人々なら誰でも知っているが、あの日航機
墜落という大惨事は単なる飛行機事故ではない。
 新聞やテレビが流さないだけで、しかし然るべき人達なら
誰でも知っている事実としてあの事故はアメリカによる撃墜
だったのである。
 1985年当時、中曽根内閣であったが、アメリカは中曽
根内閣に対して大幅な円高誘導を求めた。しかし製造業に大
きな痛手を被ることになる大幅な円高誘導に当時の中曽根康
弘首相は抵抗を示した。
 そこでアメリカは日航ジャンボ機を撃墜して、これでも言う
ことを聞かないのかと中曽根内閣に強要した。
 ついに中曽根内閣はアメリカの要求を呑み、大幅な円高誘導
を容認し我が国は大幅な円高になったのである。
 これによりプラザ合意が成立、それまでの1ドル235円か
ら一気に1ドル150円台になった。

 物事は全て連動している。
 私達が知らされないままに置かれている現実、現状、実態を
皆で知る必要がある。
 もしも中曽根内閣があの時点で大幅な円高誘導に抵抗を示し
続けていたならば、更に他の航空機が撃墜されていた危険性が
極めて高い。過去の様々な歴史を見る限り、アメリカはそこま
で手を染めかねない。
 中曽根内閣も国民が事実を知らない中で、苦悩の中にあった
であろう。
 日航ジャンボ機の犠牲者に哀悼の意を捧げ黙祷し、そして事
実は事実として認識していく必要がある。

 中曽根康弘・元首相は100歳になられてもう怖いものは何
もない筈である。是非、日本国のために日本国民のためにあの
日航ジャンボ機墜落事故の真相と背景を語り部として公然と語
って欲しいものである。
 そうすれば何かが変わっていくであろう。
 しかし中曽根康弘・元首相は何も語らないだろう。
 1985年のあの日、アメリカによるミサイルで日航ジャン
ボ機の尾翼が破壊され日航ジャンボ機はバランスを失い制御不
能の状態になった。
 機長やパイロットの懸命の操縦で数時間持ちこたえるも、つ
いに力尽き、奇しくも中曽根康弘・元首相の出身県である群馬
県に墜落した。

 鎮魂の思いを込めて。 

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69年目の終戦の日に鎮魂で思うこと

2014-08-15 19:44:52 | インポート
 69年目の終戦記念日である。
 戦後69年間、我が国は私達は戦争に巻き込まれず、また自衛
隊も軍事行動を対外的に行うことなく今日まで来れた事は尊い事
であり、この平穏な日常が平穏なままいつまでも続いてほしいと
願う。
 戦争は悲惨なものであり実際に戦場に出た人達は悲惨な死を
迎え、また生還した者も生き地獄を体感することで人格や人間性
が破壊され人生全体に暗い影を落とす。
 戦争は決して繰り返してはならないという人間としての風景を踏
まえた上で終戦記念日の日に戦争と戦後と平和という事について
思いを巡らせてみたい。

 今の時代にこれほどに言論が開かれて情報も氾濫している世の
中においてでさへ、なかなか世の中の真相や真実、物事が伝えら
れない。世間には知らされていない事が余りにも多い。メディアが
お茶の間に伝えている国際情勢も実像や等身大の姿とは乖離して
いる場合が少なくない。
 ましてや戦時中や戦前の事は推して知るべしである。
 GHQは我が国の敗戦後、真っ先に自分達欧米に都合の悪い事が
少しでも記述されている書籍を7000冊以上も発禁処分とし焚書を
行った。そしてウオー・ギルト・インフォーメーションにより一方的に
日本が悪かったのだ、日本がいかに残虐であったかという吹き込み
をGHQ統制下のメディアを通じて徹底的に行った。
 また教育を通じて一方的に日本が侵略を犯した、日本が非道な事
を行ったと吹き込まれ、戦後世代の多くの人々がその言説に染めら
れてしまった。
 しかしこれでは当時に身を捨てて我が国の存亡の淵に立って祖国
を守ろうと散っていった先人達の御霊が浮かばれない。
 戦争は悲惨なもので決して繰り返してはならないという認識を踏ま
えた上で、しかし全て日本が悪かったのだ日本が侵略したのだという
戦後にGHQにより吹き込まれた自虐史観を脱して当時の真実を認識
するという普遍的な視野に立つ必要がある。

 1945年に日本が敗戦すると東南アジアでは戦争により日本に追い
出されたかつての宗主国が再びそれ以前の数百年続けた植民地を復
活させようと軍事侵攻を行おうとした。
 ところが敗戦後も東南アジアの各地に残留した日本の人達が現地人
と一緒になって戦い、再び東南アジアを植民地にしようと侵攻してきた
宗主国軍を撃退し独立を勝ち取った。
 ここに大東亜戦争の本質が滲んでいる。
 従って東南アジアの国々は親日なのである。
 インドも同様であった。
 日本の敗戦後、再びインドを植民地にしようと侵攻したイギリス軍を
現地に残留していた日本人がインド人と一緒になって撃退しやがて
インドを独立の道に導いた。インドの独立運動家チャンドラ・ボースも
敗戦後の日本が戦時中から継続して支援した。
 従ってインドも親日である。
 このような真実は戦後のGHQの占領教育、占領政策もあって一切
教科書には載せられていない。メディアもジャーナリズムも一切封印さ
れて多くの国民には知らされていない。

 時間軸を巻き戻して考えてみる。
 日露戦争で我が国がロシアに負けなかった事は全世界の有色人種
を欣喜させ勇気付けた。しかし同時にアメリカを中心に白人社会には
有色人種でありながら世界の列強国の仲間入りを果たそうとした当時
の日本を警戒、敵視するようになった。
 第一次世界大戦で我が国が戦勝国の仲間として名を連ねるといよい
よアメリカの我が国に対する締め付けは激化した。オレンジ計画という
日本を仮想敵国としたあらゆるシミュレーションが開始され、我が国に
対する政治圧力、経済圧力が激化していった。
 1917年頃から当時の中国大陸では台頭する日本を警戒、敵視した
欧米により日本製品不買運動が仕掛けられ、一部の中国人エリートが
これに呼応するようになり反日の機運が仕掛けられていった。
 辛亥革命によって成立した中華民国であったが、実情は混沌として
おり未だ統一国家ではなく、あたかも日本の戦国時代に各地に戦国大
名が割拠し各々が覇を唱えたように、当時の中国大陸は各地に軍閥が
割拠し各々が正当性を唱えている状態であった。
 そこでアメリカは蒋介石を支援し、また当時はゲリラ部隊に過ぎなかっ
た毛沢東と中国共産党が山野に出没しては撹乱し、また日本は汪兆銘
を支援して三つ巴のような混沌とした状態になった。

 蒋介石との軍事衝突は盧溝橋事件という、1937年7月7日に夜陰に
紛れて潜んでいたゲリラ部隊に過ぎなかった当時の中国共産党の画策
により日本軍と蒋介石軍との双方に中国共産党が銃撃を加え相互不信
に陥らせることで銃撃戦へと至らせる事で発した。
 こうしていわゆる日中戦争という軍事衝突が始まったが、蒋介石軍との
軍事衝突を日中戦争と呼ぶこと自体に疑問を禁じ得ない。これは既に事
実上の当時の中国大陸における日米戦争の代理戦争でもあった。
 蒋介石軍は敗戦を重ね、ついに蒋介石政権の首都・南京が陥落した。
 蒋介石軍が南京から敗走する際にやがて南京に入城する日本軍への
食糧供給や情報提供をさせないために蒋介石軍や中国共産党が多数の
南京の人々を処刑、虐殺、強姦を行った。これが日本の敗戦後に日本人
がしたことにされて南京大虐殺として喧伝された。
 南京大虐殺も政治宣伝だったのである。
 当時の南京に入城した日本軍は南京の人々に食糧の炊き出しを行った
り食糧供給を行っている。また当時の写真を見れば入城して間もない日本
軍に人懐っこい表情で群がる南京の人々の様子が写し出されている。
 本当に日本軍が南京の人々を虐殺していたならば入城して滞在している
日本軍に南京の人々が人懐っこく群がることは決してない。
 南京の人々は日本軍が入城してから
「蒋介石よりは遥かにましだ。」
と言っている。

 真珠湾攻撃で日本が騙し討ちしたと戦後長らく吹き込まれてきた。
 しかし長年に渡るアメリカによる日本への締め付けは激化し、中国大陸
では事実上の日米代理戦争といえる蒋介石軍との軍事衝突が生じていよ
いよアメリカの日本に対する政治圧力、経済圧力、軍事行動は激化してい
った。そしてついにルーズベルト大統領はスチムソン国務長官に対し、
「日本の船舶を見つけ次第、これを撃沈せよ。」
と指示を出している。
 1941年11月下旬にはルーズベルト大統領の指示を受けたスチムソン
国務長官の現場への指示で日本の船舶、艦船が撃沈された。
 つまり先に手を出していたのはアメリカのほうなのである。
 これを受けて日本の連合艦隊は太平洋におけるアメリカの艦隊の拠点
であるハワイの真珠湾基地を攻撃したのであった。
 ところが当時、日本との戦争反対の世論を開戦支持へと変えさせたい
ルーズベルト大統領は通信傍受により日本が真珠湾基地を攻撃すると
いう事を事前に知りながら、敢えて真珠湾基地には伝えず傍観した。
 そしていかにも日本が不意打ちを行ったかのような印象を与えてアメリカ
国内の激怒を誘うことに成功し、一気にアメリカ国内世論を対日開戦へと
転換させることに成功したのであった。
 このような一連の事実を教えていくことこそが真の平和教育である。

 1945年、我が国は人類史上初の原子爆弾を広島と長崎に落とされて
降伏し敗戦した。
 日本が敗戦したことを受けて中国大陸では蒋介石軍とゲリラ部隊の毛
沢東率いる中国共産党との内戦になった。コミンテルンの意向を受けてい
た毛沢東を支援するべくソビエト軍が侵攻してきて蒋介石軍は敗走した。
 そして1949年、中国大陸は中国共産党の支配下になった。
 蒋介石は台湾に逃走した。
 それまで台湾は日本の統治下であったが、1945年の日本敗戦で政治
的空白が生じていた。そこで台湾に逃げ込んだ蒋介石軍は何をしたか。
 台湾の住民を虐殺したのである。
 蒋介石軍により虐殺された台湾人は3万人を超えたと云われている。
 そこで自然に台湾の人々の間から
「日本の統治時代のほうが遥かに良かった。」
と言われるようになったのである。
 従って台湾は親日なのである。
 このような史実は戦後長らく決して教えられることもメディアで報じられる
ことも無かった。

 先の戦争に出陣して生還して今は平穏な暮らしをされているお方が以下
のように述べていた。
「白人も俺達アジア人も皆、肌の色に関係なく対等になれる世の中を夢見て
きたんだ。今、その夢がほぼ実現している。」
 この言葉に戦争当時はいかなる世の中だったのか、いかなる価値観の空
気が支配していたのかを窺い知ることができる。
 戦争はそこに身を置いた者にしか理解できない悲惨さに満ちている。
 戦争はもう繰り返してはならない。
 しかし私達が刻んだあの悲惨な戦争という体験は当時を生きた先人達が
押し寄せるとてつもない大きな圧力と波とを知りながらそれに抗いながらも
巻き込まれていった悲惨な体験だったのであるという史実の光景を私達は
知らなければならない。
 史実を知りそして当時の我が国を滅亡の淵にあって身を捨てて少しでも
守ろうと、1日でも長く滅亡から免れさせようと犠牲になって逝った先人達
の鎮魂を祈ることがせめて先人たちの御霊を慰霊することになるのである。

 69年目の終戦記念日に思うのは今、一歩間違えれば第三次世界大戦
が勃発してしまいかねない状況にある中で、かつて先人達が押し寄せる
荒波を知りながらそれに抗いながらも巻き込まれていった戦争という状態に
いかにして巻き込まれないようにするのかという英知を備える知性の必要
性である。
 戦争という悲惨さを決して繰り返してはならない。

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