木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

祈・平和

2005-06-30 21:59:59 | インポート
 ある無所属の議員から連絡を頂いて反核・平和リレー
に参加した。私は幸いにも戦争を知らない世代であるが、
戦争を知らないということは同時に安易に戦争に踏み切
るという危うさをもはらんでいる。

 米国の機密文書や公文書が次第に公開されて、これまで
知られていなかった事実や背景が次第に明らかになりつつ
ある。一定の歳月が経過すれば事実を公開する米国の度量
と懐の深さは感嘆する。
 私は幼い頃より核兵器の悲惨さについて授業や教材など
で触れる機会に恵まれ、人類で初めて核兵器が二度も実際
に使用されて甚大な犠牲者を出した背景について必然的に
考えさせられる環境に育った。

 沖縄戦に向けて出港した戦艦・大和の進水港である呉港
や多くの兵士が出征した宇品港、日清戦争以降しばらく大
本営が置かれた広島城と暫定首都になった広島市、原子爆弾
の痕跡を後世に伝える旧産業奨励館(原爆ドーム)など想像
を広げれば戦争の恐怖と悲惨さが迫ってくる空間に触れる
機会が他の地域圏に比べて多かったことが良い教訓を身体に
刻むことになったと改めて思わされる。
 私の故郷の沖合に風光明媚な島々がある。その中に大久野
島と小久野島という二つの島があるが、ここは戦時中は日本
軍の毒ガス製造工場とその貯蔵洞窟があった軍事機密の島で
当時は地図からも消された。
 蛸マスクと云われたガスマスクを着用した工場労働者は重
い後遺症に悩まされた。小学校の体育館に経験者がマスクや
資料を持って体験談を語り当時の状況を語った事も今では貴
重な思い出の時間である。

 反核・平和のリレーで来賓として挨拶をした。
 幾つもの背景と目的から広島と長崎に原子爆弾が投下され
大日本帝国は無条件降伏した。そういう時空が脳裏をよぎる。
鳥羽伏見から戊辰戦争を経て成立した新政府が西南戦争の試
練を超え、日清・日露戦争を克服し世界大戦と太平洋戦争を
迎えて壊滅し終焉した瞬間であった。
 大久野島も米軍により解体され貯蔵されていた毒ガスは廃
棄処分され島が地図に記された。
 帝国は日本国として再生するために日本国憲法が謳われた。

 昨今、核兵器反対を唱えながら核兵器開発を公然と明言し
巧みに外交に利用する国の指導者を支援する或いはその末端
組織と親睦を図る議員が存在することは、核開発を認める事
になりいかがなものかと思う。
 祈・平和。

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世の中が見落としていた憲法

2005-06-28 20:44:18 | インポート
 公務員とは国や地方公共団体の公務に従事する人のこ
とであり、公務とは国や地方公共団体の事務や職務のこ
とである。
 
 日本国憲法第十五条には以下の要旨が記されている。
 一つ、公務員の選定や罷免は国民の権利である。
 一つ、公務員は全体の奉仕者であり一部の奉仕者ではない。
 一つ、公務員の選挙については成年者による普通選挙を
    保障する。
 一つ、すべて選挙における投票の秘密は侵してはならない。
    その選択に関し公的にも私的にも責任を問われない。

 公務員の選挙は成年による普通選挙である、と憲法に謳われ
ている。果たして公務員が選挙で選ばれているだろうか。最高
裁判官以外に公務員が選挙で選ばれている状況は無い。憲法は
日本国の最高法規であり、これを超える存在は無い。
 ならば現存するほとんど全ての公務員は憲法違反ということ
になる。
 憲法では国会議員については第四十一条から第六十四条まで
に謳われている。地方公共団体の議員については第九十三条に
謳われている。
 そうすると、憲法でいう公務員とは現在の国家公務員と地方
公共団体の公務員という他はないことになる。

 さて、大変である。
 戦後六十年になる。一九四六年十一月三日に制定され、翌年
の五月三日に施行されてから今日まで、世の中が公務員は選挙
で選ばれるという最高法規を見落としていたのだろうか。約六
十年間も憲法違反の状態が放置されていたことになる。
 法律では云々されているということではなく、その法律が憲
法と異なるから大変である。

 世間は錯覚に包まれていたのか。見ているようで見ていない
状況だったのか。護憲、改憲という時代の叫びは何だったのか。
何を以て護憲で何を以て改憲だったのか。全体で百三条ある憲法
の何が護りで何が改正という視界だったのか。
 平和が大切なことは言うまでもない。
 公務員制度自体が憲法から逸れている事をこうして見ると、
今はもう違う時代認識に立たなければならない事を知らされる。

 憲法に忠実に従うならば、戦後ほとんどの公務員の存在が否定
される。しかし現実問題としてそれは理不尽である。世の中が
憲法を見落としていたからである。
 ならば憲法を作り直すか、公務員のあり方を変えるしか無い。

 国家財政、地方財政の危機という問題もある。伊藤博文候は
何を思うか。

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憲法と地方公共団体

2005-06-25 13:18:54 | インポート
 公務や公共に志を持ち、意欲ある人々や若い職員の芽
を摘み取りたくない視点と財源危機の観点から地方公務員法
が将来に廃止され職業のあり方自体が大改変される可能性
は否定できない旨を先日の欄で述べた。
 
 日本国憲法には地方自治に関する事は第九十二条から
第九十五条までの僅かに四条しか記載されていない。
 憲法上では市町村は地方公共団体という呼称であり、
地方自治体という表現はどこにも使われていない。
 地方公共団体については、  
 一つ、運営は法律で定める。
 一つ、議事機関として議会を設ける。
 一つ、長、議員、法律の定める吏員は住民が選挙で選ぶ。
 一つ、地方公共団体は財産を管理し、事務を処理し、行政
    を執行する権能を有する。
    法律の範囲内で条例を作ることができる。
 一つ、特別法は住民の投票で過半数を得れば国会が制定
    できる。
という旨の内容が記されている。

 憲法では法律の定めるその他の吏員(公務員のこと)は
住民が直接選挙で選ぶとされている。ならば現行の公務員の
採用のあり方自体が憲法の定めた内容と異なることになる。
 そもそも全国的に公務員の採用のあり方も実状は複雑多岐
で採用とは言えない事例も少なくない。憲法で定められた採用
方法から逸れた地方公務員法に則って現在は採用などが行われ
ているのだろうが、実状は全国的に地方公務員法すら解釈が
多様で機能すらしていない事例もある。
 ならば将来的には有為な人材を公共や公に活かすために
も地方公務員法自体が廃止され、公務員という呼称すら廃止
して「自治体員」「公共団体員」と定め柔軟で現実的な雇用
に改革した方が、日本国と各地方公共団体の財政危機も考慮
すれば好ましいのではないかと考えるようになった。

 公共の物事を官以外の存在に任せるという本来のNPOの
語意が、公務員を自治体員もしくは公共団体員という信賞必罰
を伴った現実的で機能的な存在に活かされることで蘇生する
可能性もある。
 
 日本国憲法に地方自治に関する事が僅かしかないことが何事
かを物語り、地方自治の本旨に基づき定められた法律(地方
自治法)は国から全国津々浦々に到る一挙一動足を細かく指示
し規定した命令文に等しい存在であることが伺い知れる。

 拝啓 大久保利通 様
 都道府県市町村、これで宜しいですか。敬具

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土器から鉄器に目覚める人達

2005-06-23 01:26:29 | インポート
 縄文式土器と弥生式土器との果てしなき争いがあったと
考えてみる。縄文文化と弥生文化とに価値基軸を置く人
達がそれぞれの利点を主張しては相攻防する。
 縄文時代は約六千年間も続いた。弥生時代も三、四百年
続いた。どちらの土器の幾何学紋様が優れているか、狩猟
生活と農耕生活とどちらが優れているか云々という果てし
ない攻防が繰り返されていく。

 そこへ鉄の文化を持った人々が現れると縄文土器も弥生
土器も瞬時にして存在意義を失ってしまう。きっかけは
突然訪れるが時代が変わる時はおおよそそういう事なのだ
ろう。
 今の行政や政治の世界も後世から見ればこの縄文時代な
のか弥生時代なのかという果てしなき攻防の類と同じような
状況なのかもしれない。何かのきっかけで青銅器文化や鉄
の文化が到来するような事が生じれば、行政や政治の文化
も進展する形で変わらざるを得ない。
 何だそういうことなのか、と後にある人々が感じるよう
なことが起こるだろう。

 今から百年後、例えば地方公務員法が廃止になっている
かもしれない。公務員という意義が問われ公務員という呼称
すら変化している可能性だって否定できない。
 公共とは何か。
 公務とは何か。
 公とは何か。

 公共の物事を官以外の存在に任せてみよう、というのが
そもそものNPOという言葉が世の中で使われ始めた由来
である。これは兵庫県の民主党の国会議員の方が日本で最初
にNPOという言葉を用いた時の意味であるそうだ。
 今日では本来のNPOという語意から逸れて世間に流布
している事を憂いておられた。

 関東圏のある自治体の市長が自らの体験を元に市町村崩壊
の危険性を指摘する本を出版していた。
 今、各自治体で村議会、町議会、市議会が開かれているが
例えばのうのうと「財源が云百億円不足しております」と
回答する場面があるが日本全国の自治体で蔓延している感覚
ではないか。

 かつて士族が廃止されたように、このままでは公務員という
存在或いは職業のあり方が廃止もしくは大改変されることは
避けられない。
 いっそ根本から法律も憲法も考え直した方が良い。

 縄文・弥生文明から鉄器文化へと人々の生活感覚が変わる、
きっとこれからそのような変化が生じるだろう。

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海千山千

2005-06-21 01:41:16 | インポート
 海千山千という表現が使われることがある。
 世慣れてしたたかなことや人のことをいう時に使う。
 今では本来の語意からやや逸れた意味で経験が豊富と
いう趣旨で使われることが多いように思う。
 自分で自分のことを海千山千だ、と言うと私は世慣れ
てしたたかですよと公言していることになる。

 千の海を渡り、千の山を越えても千一回目の海があり
千一回目の山があることを人は忘れる。千の海を渡って
も千一回目の海の渡り方を間違えば沈んでしまうことも
あり、千の山を越えたからと云って千一回目の山で遭難
することもある。
 千回海を越え、千回山を越えれば海と山を制した錯覚
に陥ると海の神や山の神が怒り狂うこともある。

 大切なことは人間性と赤心、志のありようであろう。
人間性に問題があれば千一回目で海の藻屑となり、山の
中で倒れる。逆に海を数回しか渡っていなくとも山を何度
かしか超えていなくても人間性に問題が無ければ次の海を
渡っていけるだろうし、次の山を超えていけるだろう。

 そもそも誰が海千山千などという概念を作ったのか。
千どころか万も億も海は広がり山は連なり、野は広がって
いくそういう世界観は無いのだろうか。
 千、万や億から見ればたかが千かもしれない。
 千で満足し、海を制し山を踏破したかのような傲慢な
錯覚に陥った頃に大自然の制裁が起こる。

 一つの海を、一つの山を正しい人間性を以て歩もうと
する者にのみ次の海や山が現れるのだろう。
 そうしてそれを歩む度に新しい風景が広がっていくの
だろう。

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