木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

アームストロング砲

2007-06-30 11:08:17 | インポート
 東大阪市議会の六月議会も終盤にさしかかっている。
文教委員会は物事を小出しにし閉鎖的な教育委員会の体
質と、抽象的で縷々はぐらかす答弁が特徴の市長との見
事なミスマッチで遅々として進まない。
 さて、そんな中、国会では次々と法案が強行採決され
ていく。確かに数の論理で決まるのが多数決だが、単な
る足し算で世の中の大切な事が決められていくのならば
いつか物事は大きな間違いを犯してしまう。

 年金の問題である。社会保険庁が事実上、解体されて
日本年金機構という組織に改められるようだが、問題の
本質は何一つ解決に向けられていない。丁度、不祥事が
世に晒されて存続の危機に直面した企業が看板名を付け
替えて人々の視線を逸らせるかのような加工である。
 例えば支払った筈の年金の記録自体が例えば十年分も
消失して証拠すら存在しなくなっている人々の存在はど
うなるのか。問題はそこである。

 戊辰戦争で会津若松鶴ヶ城に向けてアームストロング
砲を打ち込み続けた官軍のような気持ちにさせられる。
物事の本質に大砲をぶち込んでみたくなる。 逃げるな
社会保険庁。
 二十代半ばの頃、會津に旅した。會津の街をさすらっ
ている中で西軍と東軍のそれぞれの心に触れた。当時の
青年も人々も大義に生き、それぞれに純粋に大切なもの
を守るために戦った。故郷を遙か遠く離れて東北の地に
散った人々の凛とした気概は今日の小手先に走る役人の
歪んだ性根とは比較にならない。夜明けを信じて戦った
当時の人々の思いを何と心得ているのか。

 小田山という山が會津の城南にある。
当時、私は道行く會津の女性に小田山に入る道を教えて
欲しいと尋ねたら、知らないと言われて、業をにやした
私は城南の山を指さし「あれが小田山ではないのですか」
と聞き確かあの山に大砲が据えられた筈ですと聞くが知
らないと言って去っていった。
 山の麓の寺に辿り着き、この山にアームストロング砲
が据えられた筈ですがと住職に尋ねると、ああ山の中腹
辺りに官軍がこの辺りの道を当時、大砲をゴロゴロ曳い
て山を登って行ったと伝えられていますと、当時この辺
りは焼け野原になったという様子を交えて住職は語った。

 山の中腹に少し拓けた場所があった。眼下に鶴ヶ城が
身を晒すように白く輝いていた。ここに据えたのだろう。
今はどこかそういう気持ちである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未開な司法

2007-06-29 09:29:58 | インポート
 おかしい。どう考えてもおかしい。
 山口県光市で起きた、幼子と妻が殺された事件の裁判
である。
 検針員を装い、他人の自宅に上がり込み、女性を絞め
殺し、幼子を床にたたきつけて惨殺し、未だに殺意があ
るとかないだとか、小説の中にある記述を信じて云々だ
とか法定で述べているが、ふざけるな。

 そもそも日本の司法も、屁理屈に頷き、物事の物や事
の判断もできないのか。司法そのものも日本人自らが生
み出したものではなく、明治初期に主にドイツの司法を
輸入して取り入れたとはいえ、あまりにも歪んでいる。
 他人の家に侵入し、人を殺しておいて、殺意があると
か無いとか論じるのは論外である。司法の理屈ではいか
なる被告であっても弁護しなければならない事になるの
だろうが、人間の感覚にもとる。日本国憲法もそこは作
り直さなければならない。
 もはや憲法制定当時とは人々の認識も鍋の底が抜けた
かのように異次元のものになっているからである。

 この事件で殺意の有無を論じるのは人間の感覚を外れ
ている。故意に殺害を行ったのだから、そこを罰すべき
である。人間には更正できる人と、一生、更正できない
人が事実として存在する。
 この事件の被告の見解を聞いていると、多数の弁護団
が入れ知恵をしたとしか思えないような理屈の述べ方で
ある。この弁護団の人達は、良心の呵責にさいなまれな
いのだろうか。或いは、恥ずかしいという感覚すら湧か
ないのだろうか。
 この事件の裁判を国際社会に晒すのは、日本の司法が
未開で稚拙だという野蛮な姿を晒しているようで私は恥
ずかしい。

 今のままだと、「人を殺したい、そうだ日本という場
所がある。」「日本ならいかようにも殺意を調整できる。」
「あいつを殺したい。よし日本で殺そう。」という状況に
なりかねない。それほど、日本の司法は稚拙である。
 人間には肉体年齢と精神年齢があるように国や社会にも
公共年齢や司法年齢というものがあると私は思う。
 残念ながら日本の公共年齢と司法年齢はまだ人間に例え
ると幼児の域を脱していない。もっとも、知識だけは多い
幼児である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死角

2007-06-27 02:00:19 | インポート
 どんなにおとなしい犬でも、嫌がる事をし続けたり、
ずっとつつき回していると、そのうちに鼻筋あたりに皺
が寄ってきてやがては唸ったり、牙をむく。
 その牙をむいたその瞬間を抑えて「こいつは反抗した」
と言いふらし、例えば犬を檻に入れる。

 こういう事は人の世でもよくある。

 執拗に執拗に謀をする。やることなすこと、なすこと
やること全てに否定的な言いがかりをつけ、ああいえば
こう、こういえばああの屁理屈で作り話をまき散らす。
 人が善いならその人が善いところにつけ込み、真面目
な者にはその真面目なところにつけこむ。
 そういう実態は人々の目にはなかなか映らない、それ
を死角という。
 今日も多くの人が死角に倒れていく。

 人間のそういう行動本質は、一生改まることはない。 

 少し話が飛ぶ。
 政治の世界にて多少の事を経験していくうちに、私は
明智光秀が謀反人には見えなくなってきた。つまり光秀
は「はめられた」のだと確信を持って感じるようになった。
信長もはめられたのだと思う。
 今の時代にこれほど情報が伝達する環境においても、こ
れほど死角があるのだ。昔の時代の記録に残っている記録
など、記録であって記録ではない。それを額面通りに受け
止めて解釈するから、真実は闇に埋もれたままになってい
いくのだと私は思う。
 人の世の絡みと、人間の行動本質は太古の時代から今日
まで何一つ変わってはいない。

 歴史学者は現存する記録を基に論証するから、光秀は謀
反人ではなく「はめられた」のだというこの視界に反発す
るだろう。それはそれでいいと思う。
 しかし今の時代でも考えて欲しい。残される記録という
ものがどういうものかということを。
 記録の裏にある、記録には表れない、記録を抹殺された
そういう諸々の時間軸の中にある人々の息遣いというもの
に着目すれば、別の視界が見えてくることがある。

 これはいつか個人的に論証したいと思う課題でもある。
 また同時に、政治が人々の喜怒哀楽に乗ったものという
気質を思えば、政治的課題としても追ってみたい。
 そういう課題も余白の課題としてとっておこう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金崩壊(三)

2007-06-25 09:13:19 | インポート
 複雑な仕組み、そして支払った本人は未来の世代の支
払いを老後に受け取るという即時性のない流れにつけ込
み、年金が蝕まれている。
 少子高齢化による財源の悪化が従来叫ばれて、年金が
もたないのではという論調は以前からあったが、それは
建前社会・日本の表向きの理由であることが炙り出され
てきた。

 そもそも社会保険庁自体が、年金を年金として運用し
ようという意思ではなく、よからぬ事を画策していた事
実は回顧録により世間の知るところとなった。
 年金を受給できる年齢を老後へ老後へと引き上げ、更
にじわじわと支給する年金額そのものが減らされていく。
人々の窮迫感は強い。
 社会保険庁の末端の職員は職員で、社会保険庁幹部の
画策や厚生省(当時)の腹づもり等知る由もなく、しか
し末端は末端で、少なからぬ人達が記録を入力するとい
う立場を悪用して支払った年金を、どうやら自らの懐に
入れて記録を改ざんしてきたようだ。データーの入力ミス
というような子供じみた表向きの言い訳はもうやめろ。
「ど素人集団」でも5,000万件或いはそれ以上の入力の
間違いはしない。

 人々が信用して窓口で支払った年金を、窓口の人間が
横領する。適当に例えば「平野」という人を「ヘイヤ」
と入力して架空の記録にして隠滅を図る。そういう事例
が全国各地で積もり積もって、年金の記録が消えている。
そういうことだ。
 幹部は幹部で、当時の厚生省の職員が多数、再就職で
きる財源の確保を画策し、更に年金という巨大資金に目
を輝かせて群がる「年金利権軍団」のこれまた懐を満た
す為に「快適な環境のため」という子供じみた屁理屈を
看板にして全国各地に娯楽施設を作り、年金を流用して
きた。年金を使い果たしても将来は貨幣価値が変わるか
ら構わないと豪語した当時の官僚の感覚はもはや犯罪で
ある。

 更に人々は証言する。市町村も怪しい、と。例えば
お年寄り夫婦が区役所に国民年金の照合に行っても証拠
がないから分からないと門前払いをされる。夫婦は確か
に当時はこの窓口で払った筈だが当時の受領書を紛失し
て物的な証拠がない。しかも記録がない。
 つまり、窓口で幾つもの手品が行われたという事は社
会保険庁の社会保険事務所の窓口でのそれを見ればよく
分かる。ちなみに市区町村では平成14年度まで国民年金
の徴収を行っていた。
 年金崩壊す。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2007-06-23 22:32:01 | インポート
渓流に蛍のほのかな光を見つめながら、ぼんやりと考え
ている。星の光と月の光との響きも良い。
自然環境が著しく乏しい街に四六時中、身を置いている
と煮詰まるので、時間の合間を見て自然の多い場所にし
ばし身を置く。
彼女と昔、蛍の光を追いかけて掴んだ日の事もふと思い
出した。丁度、そういう年頃の男女が涼の中に蛍を見つ
めている。

蛍・・・。
そういえば蛍にはゲンジボタルとヘイケボタルとがある。
誰が名付けたのか、いにしえの人々が名付けた蛍のよう
に、人の世にも源氏と平家があった。
二大政党制を考える時、そういえば日本にも遠い、いに
しえの時代に、政党というものが世の中にできる遥かな
昔に、本質としては二大政党のような存在として日本に
は源氏と平家があったなと、ほのかな蛍の光に私は思い
を巡らせた。

時代は違えど、姿形は違えど、人の世の営みの本質は同
じである。
当時は戦乱の世であり今の時代のように言論が開かれて
いる、当時からすれば恵まれ過ぎているこの時代に、二
大政党制が定着しないとすれば不思議である。

長い長い時代の履歴の中に、人々は知らされない事を前
提にして統治されてきた。それがこれからの時代との違
いである。これからの時代は、人々に知らせた上で公共
を統治する、公共の在りようを考える、そういう時代に
なる。

未開な支配者は物事を隠そうとする。自らを神秘に包み
人々が知らないという前提の上に自らの自己保身を図る。
今の北朝鮮の体制がそうである。
先進的な指導者は物事を公開する。人々に物事を知って
もらった上で、更なる先を考える。今日でいえばどこの
世界に当てはまるだろうか。
渓流に耳を澄ますと、遠い届かない時空に乾杯と声をか
けてみたくなる。また、遥かな昔の時代からの脈音に頷
いてみたくなる。

言葉は噛み砕いて伝えなければならないと感じる時もあ
る。例えば「政権交代」と口にした時、すわっ国家転覆
かと受け止める人がどうしても存在する。今の時代の政
権交代とは例えば国会における議席の過半数を取る政党
が交代するということである。
政党とは則ち公器であり世の中の受け皿であるから、過
半数を超える政党が交代する状況が定着することは世の
中の間口が広がるということでもある。

そういう蒙が開けなければ逆に国際社会の覇権の波に飲
み込まれてしまうだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする