木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

江ノ島にて

2021-09-29 12:17:07 | 随想
 9月21日(火)は鎌倉市内を散策した後で
江ノ島電鉄に乗り移動、江ノ島を訪れた。
 江ノ島は24歳の時に訪れて以来、24年ぶり
であった。
 歳月の経過は早いものである。
 女神三神と龍神の場である。

 島の岩場が礒の香りと波の音で癒され一日中
のんびりしたいと思わせる。
 24年前には行かなかった岩屋に入ってその
荘厳な空間に圧倒された。
 富士山にまでつながると言われる洞穴や江ノ島神社
発祥の場所とされている洞窟奥の祠は神秘的であった。

 帰路につく渡し船が運航していなかったので来た道
をそのまま引き返して歩いていたが、そのおかげで
江ノ島にいる最中に見事な中秋の名月が東の空にかかり
海面に浮かぶ月光の道を江ノ島から堪能できた。
 見事なロケーションであった。

 渡し船で市街地に戻っていたならば、せっかくの
中秋の名月がビルや雑踏に紛れたり隠れたりして魅力
を失っていただろう。
 月が出てまだ高く昇っていない頃の月の大きさや月光
が絶妙で、まさにその絶妙な姿を江ノ島から眺める事が
できて素晴らしい江ノ島の締めとなった。

 余談だが、江ノ島の神社は男女で行くと別れてしまう
という説があると教えて頂いた。
 私は逆に24歳の当時、江ノ島神社に一緒にお参りした
男女は結ばれると聞いていたのだがどちらが正しいのだろうか。
 そう言えば確かに、24歳当時に一緒に江ノ島神社にお参り
した女性とはその後、結ばれなかった。
 それならばこの日も多数の男女が一緒に江ノ島神社に
お参りしていたが、皆、別れるのだろうか。
 可哀そうに・・・・・。
 出雲大社や厳島神社もそう言えば同じような言い伝えを
聞いた事がある。
 出雲大社は縁結びの筈ではないだろうか。
 出雲大社に一緒にお参りした男女が別れたならば縁切り
になるではないか。

 ふと思った。
 江ノ島神社も出雲大社も厳島神社にしても、もしかしたら
神様から見て「これは違うな」と見える男女なら別れに導いて
いるのかも知れないな、と。
 本人達は一生懸命に「結ばれますように」とお参りしても、
神様からみて「相手が違うな」と見えたなら結ばせないの
かも知れない。
 ふと感じた次第である。
 
 それにしても江ノ島から見た中秋の名月は見事であった。
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鎌倉逍遥

2021-09-26 23:13:39 | 随想
 鎌倉での講演会の翌日の9月21日(火)、主催者
の山本文子さんご案内のもとで鎌倉を散策した。
 京都の雅に対して鎌倉は質実剛健である。

 円覚寺にて北条時宗の御廟にお参りした。
 今はあたかも元寇前夜という危機に日本は苛まれて
おり、元による日本侵略を凌いだ当時の指導者に祈った。
 東慶寺は後醍醐天皇の皇女の墓所があり宮内庁管轄で
巨大な銀杏の木が印象的だった。
 東慶寺は縁切寺法が整備され、女性のほうから離縁
できるようにできた場である。

 鶴岡八幡宮にお参りし、東国の武家の都の姿を偲んだ。
 そこから源頼朝のお墓にお参りした。
 やはり記憶にあった通り源頼朝の墓所には薩摩藩主に
より整備されたという碑があり島津家の初代・島津忠久
は源頼朝の何番目かのお子である事を裏付ける。
 それを立証する証は源頼朝の墓所から少し離れた山の
斜面にある島津重豪と大江広元の墓所にあった。
 島津重豪の墓前には薩摩藩主による碑があり、そこには
島津ではなく薩摩中将・源重豪と源という姓で刻まれている。
 つまり薩摩の島津家も源氏という証である。
 島津家の初代・島津忠久が源頼朝のお子だという説は
事実である事が分かる。

 ちなみに大江広元は毛利元就の祖先である。

 鎌倉彫の素晴らしさを感じ入りながら遅めのランチを
食べて憩った後は江ノ電に乗り江ノ島に向かった。
 江の島の模様は後日の投稿に回して源頼朝の考察を
してみたい。

 源頼朝と源義経。
 若い頃は義経のほうに関心が向かったが、色々と経験
を重ねて年齢を重ねてくると今は頼朝のほうに関心が向かう。
 日本人の感情に合うのは義経のほうだろう。
 判官びいきも生まれドラマや小説にも向いているのは
義経のでほうである。
 頼朝にはドラマや小説にするような華やかさは無いかも
知れないが長らく続いた公家政権から日本初の武家政権を
樹立し、初の幕府を開いたという事から不世出の偉大な
政治家という存在である。

 これに対して義経は今で言えば軍人である。
 軍略に優れまた人間味もあったのだろう、多くの人々を
魅了した。
 しかし義経は武人であっても政治家ではなかった。
 もっと言えば義経は優れた武人だったが政治が理解でき
なかったと言える。
 頼朝は優れた武人であったと同時に卓越した政治家で
もあった。
 この違いが兄弟でありながら決裂して行った要因だと
言える。

 もしも頼朝と義経がタッグを組んでいたなら優れた
政治家の頼朝と優れた軍略家の義経とで鎌倉幕府もっと
言えば源幕府は最強だっただろう。
 しかし歴史の現実はそのようにはならなかった。

 源頼朝は平家を追いやり更には奥州藤原氏をも滅亡させ
鎌倉幕府を揺るぎないものにした。

 また義経と共に運命を共にした武蔵坊弁慶は奥州平泉
で義経自刃の後に戦死したとされているが、興味深い事実
がある。
 和歌山県の熊野三山の1つ、熊野速玉大社を7年前に
散策していると興味深い説明があった。
 それは武蔵坊弁慶は義経の家臣と共にこの熊野の地に
逃れてきて追手と戦いとなりこの地で戦死したとあった
のである。
 熊野速玉大社の説明版だから信憑性は高い。
 つまり義経と武蔵坊弁慶とが奥州平泉にて死んだという
のは後世の人々による創作の可能性を私は感じた。

 また義経も平泉で死んでいない可能性を強く感じる。
 私は20代の頃、北海道を何度も旅したが北海道の
西南部、特に積丹半島周辺の地域には義経にまつわる
言い伝えが沢山ある。
 義経がここに黄金の兜を置いて行ったとか義経と恋に
落ちた女性がやがて積丹半島の神威岬から今の満州に渡航
した義経に追いすがり、失意のうちに身を投げて死んだと
いう言い伝え等、実に多くの義経にまつわる話が北海道
西南部には残されていた。

 もしもこれらが作り話ならば、いつしか立ち消えていた
筈である。
 いつまでもいつまでも地元の人々が大切に義経ゆかりの
祠だと祀り、また語り継いでいる姿はやはり事実だと感じる。
 更には満州一帯や更なる北方地域には義経にまつわる祠
や関連遺構がたくさん残っている。
 義経一行はじっくりと歩を進めながら各地域の地元民と
交流し、その地元民の長の人物に例えば兜や武具などを褒美
として授けながら移動している。
 褒美として兜や刀などを与えられた各地域の人々の長は
感極まり、子々孫々に至るまでこれを宝として祀り、それ故に
北方地域の各地に今も義経にまつわる祠や遺構が残っている
のである。

 つまり、これらの姿や遺構、祠などから源義経一行は
奥州平泉から更に北へ逃れ、蝦夷地つまり今の北海道西南部
に渡り、そこでしばらく過ごした後には神威岬から船で満州
エリアに渡航し、そこから北方へ移動しながら歳月を重ね、
やがてはモンゴルに入って行った可能性を強く感じる。

 義経一行はじっくりと時間をかけながら各地域で力を
蓄え、地元民を味方につけながら、やがてはモンゴルに
入ったと私は見ている。
 この時代は今のような地理感覚や国境意識は無いために
人を中心として物事は動く。

 ここからはロマンだが、私は源義経はやはりチンギス・ハーン
になった可能性を感じるのである。
 チンギス・ハーンの家紋と源義経の家紋は酷似しているし、
また義経の騎馬戦術はやがてモンゴル帝国を築いたチンギス・
ハーンの騎馬戦術とやはり酷似している。
 またフビライハンになってからではあるが、モンゴル帝国
(元)は日本を攻めてきた。
 当時は鎌倉幕府である。
 頼朝の樹立した鎌倉幕府をわざわざ海を越えてまで攻めて
来たモンゴル帝国の真の動機はどこから出たものだったのだ
ろうか?
 兄頼朝から追われた義経が遺恨を持っていたとしても自然
である。
 その義経がチンギス・ハーンになっていたなら、その意志
を受け継いだフビライハンが鎌倉幕府を攻めてきたとしても
不思議ではない。

 可能性はあると私は見ている。

 さて、今の崩れゆく日本には織田信長が必要である。
 先ずカルトの駆逐と殲滅、それから売国奴政権の破壊と
追放は信長でなければ不可能である。
 信長がカルトを駆逐し売国奴政権を破壊した後の日本
には源頼朝が必要である。
 頼朝の卓越した政治家としての手腕で今の世における
鎌倉幕府に匹敵する日本人政権を樹立しなければならない。
 そこから軌道に乗れば徳川家康が必要である。
 最低でも数百年は続く安定した平和な日本を構築しなけ
ればならない。

 歴史に学ぶ事は多々あり、それを感じながら歩く事は
快感でもある。
 鎌倉を散策しながら源頼朝の影をなぞりつつ思いを
巡らせてみた。
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9月20日(月)第2回目の鎌倉講演会が盛会に終了

2021-09-24 12:53:36 | 随想
 9月20日(月)は山本文子さんの主催により
鎌倉市内にて第2回目の私の講演会が催された。
 まず午前中が10時から12時まで石濱哲信氏
の講演会と終盤からは私と石濱哲信氏との対談と
いう部を行い、午後からは13時から17時30分
まで私の講演2時間を2回の合計4時間の講演会を
行った。

 今回は案内開始から僅か2日で満席となり、
多くの参加希望者にはキャンセル待ちとさせて頂か
ざるを得なくなり心苦しい限りだった。
 次回以降は何とか参加希望者全員にご参加して
頂けるような環境にしたいものである。

 ほとんんどの講演会は長くて2時間という内容が多く、
90分しか講演しない催しもあり、更には1時間しか
話さない講演会すら少なくない。
 私の講演会では何故か主催者による熱意や希望が多く、
短くて2時間、大抵は2時間の講演を2本するというような
4時間から5時間という長丁場になる場合がほとんどで
ある。

 話を求められる事は嬉しい限りだが、体力の消耗も
大きいので、いつも講演会を終えた後はスポーツをした
くらいに疲れる。
 そこからいつも質問が寄せられたり懇親会では絶え間なく
話をするためにホテルに戻るといつもフラフラである。

 さて、今回は午前中の石濱哲信氏の講演会ではいかに
日本人が知らされていない中で外部からの戦略に蝕まれて
きたかという事例が示された。
 終盤の私と石濱哲信氏との対談では、私が質問をする
という形で様々な具体例を述べて頂いた。

 午後からの私の講演4時間では、様々な構造問題や
これまで日本人が刷り込まれてきた嘘の歴史やプロパガンダ、
現在私達が位置している時間軸や歴史的な位置について
講演を行った。

 講演会後は会場近くの店で希望者の方々と懇親会にて
フランクに話し合い、料理を嗜みながら話に花が咲き、
有意義な時間を過ごした。

 日本は大まかに東国と西国とに分かれるが、やはり
風土や気質、文化が微妙に異なりそれを感じられると
楽しく有意義である。
 全国津々浦々、日本各地の文化や歴史、特色や名産
などを体感し皆様と共有しながら時間を過ごせればより
実りある時間になれるものと楽しみにしている。

 主催者、及び協力してくださった皆様、ありがとう
ございました。
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東京築地での第2回目の講演会

2021-09-22 21:41:29 | 随想
 9月19日(日)、東京の築地にて嶋田恵子さん、
杉山たずこさん、グレース新藤さんの主催により講演会
が催され第1部が石濱哲信氏の講演を1時間30分、
第2部が私の講演を2時間20分行った。

 今、私達日本が直面している様々な現実とテレビや
新聞が報じる偽りと虚構の中身とがいかに乖離しているか
という事実を私なりに話した。
 私達日本が日本のまま継続し、日本人が存続するのか
どうか、多くの日本人が気付いて目覚めるのが先なのか
気が付かないまま滅亡するのが先なのかという極めて厳しい
現実的な時間軸に私達は存在する旨をお伝えし、皆様で
事実認識を共有しながら仕組まれたマトリックスを打破
して希望ある未来をたぐり寄せよう、という内容の講演
を行った。

 講演会終了後は希望者で会場近くのカフェで歓談し、
その後は更に銀座に移動してカラオケを楽しんだ。
 カラオケは久しぶりだったが、私はバンバン、H2O、
シャ乱Q、ザ・タイガース、谷村新司&加山雄三、堀内孝雄、
田原俊彦を歌い、また皆さんの懐かしい歌のレパートリー
に楽しく有意義なひとときを過ごした。

 歌は記憶がタイムスリップするので健康にも良く
元気になる。
 2時間20分講演をして消耗した体力もカラオケを
歌えば体内の違う場所からエネルギーが出てきて疲れも
消え去った。

 築地における私の講演会は2回目になり、有意義な時間を
皆様と過ごせて主催者の方々には感謝している。

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数字のからくり

2021-09-17 00:05:59 | 随想
 何かの数字、例えば犠牲者の人数が「公表」
された時、それを鵜呑みにする事は良くない。

 1%の法則と言われる。
 つまり公表されている人数は現実の1%に過ぎない
という意味である。
 因果関係が表向きにも認められた数字だけである
から実際には明らかに遺伝組み換えワクチンが原因
で死亡したと分かっていても統計数字には反映され
ない場合が多い。

 現在、厚生労働省が「公表」している遺伝子組み換え
ワクチンによる犠牲者は1155名である。
 この数字は事実ではないと誰でも感じる。
 私が普通にやり取りしている範囲だけでも遺伝子組み換え
ワクチンを接種して死亡した方々が13名いる。
 皆様も周囲に死亡した方々が出ているだろうし、現実に
そのような声が多い。
・教え子がワクチンを注入した後に急死した。
・教え子の弟がワクチンを注入した後に急死した。
・義理の父がワクチンを注入した翌日に倒れてそのまま
 死亡した。
・義理の母がワクチンを注入した翌日に倒れて死亡した。
・叔父がワクチンを注入した翌日にゴルフをしている
 最中に気分が悪くなりそのまま死亡した。
・老人ホームで集団で接種した夜に施設内で7名の高齢者
 が死亡した。
  →過去に一夜に7名も高齢者が死亡した事例はない。

という現実が私が普通にやり取りしている範囲だけで
存在している。
 皆様も似たような現実だろう。
 これで日本全体での犠牲者が1155名で済むわけが
ないだろう。

 1%の法則ならば、現実は公表された数字の100倍
だから11万5500人という事になる。
 様々な声を見ていると有り得る。
 仮に百歩譲って、公表されている犠牲者が現実の1割
だとしても1万550人となる。

 ニュルンベルク綱領に違反している人道の罪である。
 遺伝子組み換えワクチンを推進した方々には厳しい
処罰が待ち受けているという事を申し上げておきたい。

 コロナウイルスでの犠牲者よりも遺伝子組み換え
ワクチンという液体の体内注入による犠牲者のほうが
多いという現実に早く気付くべきである。
 これまでの1年半で、コロナウイルスによる犠牲者
は膨らませて膨らませて1万6,846人だと公表
されている。
 例えば車にはねられて瀕死の重傷を負った患者が
救急車で担ぎ込まれてPCR検査を受けたら陽性だった
とする。
 それで翌日に死亡したら誰が見ても事故死なのだが、
コロナウイルスで死亡したとしてカウントされる。

 事実、そのようにしろという通知が医療機関に対して
厚生労働省から公文書で出されていた。

 遺伝子組み換えワクチンによる犠牲者は1155人
だと公表されている。
 しかし私が普通にやり取りしている範囲だけで13人
の犠牲者がいる。
 私のような人が100人いれば、それだけで犠牲者は
1300人になる。
 日本全体で犠牲者が1155人というのは明らかに
不自然で誰もまともには受け止めないだろう。
 1%の法則が言われるのでそれを当てはめれば本当の
犠牲者は11万5500人というラインが見えてくる。

 逆に煽りたい場合、必要以上に数を膨らますために
何でもかんでもこじつけで事故死でも老衰でもコロナウイルス
による犠牲者だとカウントする。
 その数が1万6,846人である。
 これならば例年のインフルエンザによる犠牲者とほとんど
変わらない。
 仮にこの数字が事実であったとしても、である。

 これからは遺伝子組み換えワクチンを体内に注入した
人々が新たな感染源になる可能性が高い。
 理由はその液体がそのような仕掛けだからであり、
これは大手製薬企業を辞めた様々な方々が告白している。
 それでもメディアは新たなウイルスが蔓延していると
煽り、更なるワクチンの体内注入を煽るだろう。
 気付かない人々はメディアを鵜呑みにして液体を体内に
注入して免疫が破壊されてやがて死んでいく。

 マイケルイードン博士が明言しているように自然発生
のウイルスには第2波、第3波というものは存在しない。
 従ってメディアが第〇波と言った瞬間に意図的な仕掛け
だと自ら告白しているのと同じである。

 メディアによるとこれから第6波が来るそうである。
 という事は6回目の仕掛けをするぞ、または6回目を
撒き散らすぞという意味である。
 勿論主語はディープステイトである。

 早くマトリックスを打破して少しでも多くの日本人が
生き残るようにしよう。
コメント (2)
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