鎌倉での講演会の翌日の9月21日(火)、主催者
の山本文子さんご案内のもとで鎌倉を散策した。
京都の雅に対して鎌倉は質実剛健である。
円覚寺にて北条時宗の御廟にお参りした。
今はあたかも元寇前夜という危機に日本は苛まれて
おり、元による日本侵略を凌いだ当時の指導者に祈った。
東慶寺は後醍醐天皇の皇女の墓所があり宮内庁管轄で
巨大な銀杏の木が印象的だった。
東慶寺は縁切寺法が整備され、女性のほうから離縁
できるようにできた場である。
鶴岡八幡宮にお参りし、東国の武家の都の姿を偲んだ。
そこから源頼朝のお墓にお参りした。
やはり記憶にあった通り源頼朝の墓所には薩摩藩主に
より整備されたという碑があり島津家の初代・島津忠久
は源頼朝の何番目かのお子である事を裏付ける。
それを立証する証は源頼朝の墓所から少し離れた山の
斜面にある島津重豪と大江広元の墓所にあった。
島津重豪の墓前には薩摩藩主による碑があり、そこには
島津ではなく薩摩中将・源重豪と源という姓で刻まれている。
つまり薩摩の島津家も源氏という証である。
島津家の初代・島津忠久が源頼朝のお子だという説は
事実である事が分かる。
ちなみに大江広元は毛利元就の祖先である。
鎌倉彫の素晴らしさを感じ入りながら遅めのランチを
食べて憩った後は江ノ電に乗り江ノ島に向かった。
江の島の模様は後日の投稿に回して源頼朝の考察を
してみたい。
源頼朝と源義経。
若い頃は義経のほうに関心が向かったが、色々と経験
を重ねて年齢を重ねてくると今は頼朝のほうに関心が向かう。
日本人の感情に合うのは義経のほうだろう。
判官びいきも生まれドラマや小説にも向いているのは
義経のでほうである。
頼朝にはドラマや小説にするような華やかさは無いかも
知れないが長らく続いた公家政権から日本初の武家政権を
樹立し、初の幕府を開いたという事から不世出の偉大な
政治家という存在である。
これに対して義経は今で言えば軍人である。
軍略に優れまた人間味もあったのだろう、多くの人々を
魅了した。
しかし義経は武人であっても政治家ではなかった。
もっと言えば義経は優れた武人だったが政治が理解でき
なかったと言える。
頼朝は優れた武人であったと同時に卓越した政治家で
もあった。
この違いが兄弟でありながら決裂して行った要因だと
言える。
もしも頼朝と義経がタッグを組んでいたなら優れた
政治家の頼朝と優れた軍略家の義経とで鎌倉幕府もっと
言えば源幕府は最強だっただろう。
しかし歴史の現実はそのようにはならなかった。
源頼朝は平家を追いやり更には奥州藤原氏をも滅亡させ
鎌倉幕府を揺るぎないものにした。
また義経と共に運命を共にした武蔵坊弁慶は奥州平泉
で義経自刃の後に戦死したとされているが、興味深い事実
がある。
和歌山県の熊野三山の1つ、熊野速玉大社を7年前に
散策していると興味深い説明があった。
それは武蔵坊弁慶は義経の家臣と共にこの熊野の地に
逃れてきて追手と戦いとなりこの地で戦死したとあった
のである。
熊野速玉大社の説明版だから信憑性は高い。
つまり義経と武蔵坊弁慶とが奥州平泉にて死んだという
のは後世の人々による創作の可能性を私は感じた。
また義経も平泉で死んでいない可能性を強く感じる。
私は20代の頃、北海道を何度も旅したが北海道の
西南部、特に積丹半島周辺の地域には義経にまつわる
言い伝えが沢山ある。
義経がここに黄金の兜を置いて行ったとか義経と恋に
落ちた女性がやがて積丹半島の神威岬から今の満州に渡航
した義経に追いすがり、失意のうちに身を投げて死んだと
いう言い伝え等、実に多くの義経にまつわる話が北海道
西南部には残されていた。
もしもこれらが作り話ならば、いつしか立ち消えていた
筈である。
いつまでもいつまでも地元の人々が大切に義経ゆかりの
祠だと祀り、また語り継いでいる姿はやはり事実だと感じる。
更には満州一帯や更なる北方地域には義経にまつわる祠
や関連遺構がたくさん残っている。
義経一行はじっくりと歩を進めながら各地域の地元民と
交流し、その地元民の長の人物に例えば兜や武具などを褒美
として授けながら移動している。
褒美として兜や刀などを与えられた各地域の人々の長は
感極まり、子々孫々に至るまでこれを宝として祀り、それ故に
北方地域の各地に今も義経にまつわる祠や遺構が残っている
のである。
つまり、これらの姿や遺構、祠などから源義経一行は
奥州平泉から更に北へ逃れ、蝦夷地つまり今の北海道西南部
に渡り、そこでしばらく過ごした後には神威岬から船で満州
エリアに渡航し、そこから北方へ移動しながら歳月を重ね、
やがてはモンゴルに入って行った可能性を強く感じる。
義経一行はじっくりと時間をかけながら各地域で力を
蓄え、地元民を味方につけながら、やがてはモンゴルに
入ったと私は見ている。
この時代は今のような地理感覚や国境意識は無いために
人を中心として物事は動く。
ここからはロマンだが、私は源義経はやはりチンギス・ハーン
になった可能性を感じるのである。
チンギス・ハーンの家紋と源義経の家紋は酷似しているし、
また義経の騎馬戦術はやがてモンゴル帝国を築いたチンギス・
ハーンの騎馬戦術とやはり酷似している。
またフビライハンになってからではあるが、モンゴル帝国
(元)は日本を攻めてきた。
当時は鎌倉幕府である。
頼朝の樹立した鎌倉幕府をわざわざ海を越えてまで攻めて
来たモンゴル帝国の真の動機はどこから出たものだったのだ
ろうか?
兄頼朝から追われた義経が遺恨を持っていたとしても自然
である。
その義経がチンギス・ハーンになっていたなら、その意志
を受け継いだフビライハンが鎌倉幕府を攻めてきたとしても
不思議ではない。
可能性はあると私は見ている。
さて、今の崩れゆく日本には織田信長が必要である。
先ずカルトの駆逐と殲滅、それから売国奴政権の破壊と
追放は信長でなければ不可能である。
信長がカルトを駆逐し売国奴政権を破壊した後の日本
には源頼朝が必要である。
頼朝の卓越した政治家としての手腕で今の世における
鎌倉幕府に匹敵する日本人政権を樹立しなければならない。
そこから軌道に乗れば徳川家康が必要である。
最低でも数百年は続く安定した平和な日本を構築しなけ
ればならない。
歴史に学ぶ事は多々あり、それを感じながら歩く事は
快感でもある。
鎌倉を散策しながら源頼朝の影をなぞりつつ思いを
巡らせてみた。