過日、岩手県内の中学生生徒がいじめを苦に自殺するという
痛ましい悲劇があった。
時に生徒が生きる意欲を失い自ら命を絶って初めていじめ問題
が問題として認識され取り上げられる。いじめ問題の根深さを感じる。
いじめは各地の学校内でも学校の先生同士の間でも、企業でも、
親会社と子会社の間でも存在する。
いじめは人間関係がそこにある限り必ず発生するが、少なくとも
子供達のいじめについては、学校内のいじめについてそれを苦に
している生徒の苦しみを解決してあげる事は学校が本気になって
取り組めば、また学校の先生達が真剣に取り組めば解決できる対
象であろう。
生徒がいじめを苦にして自ら命を絶つという悲劇だけは何としても
救ってあげなければならない。
未来のある子供達なのだから。
私が東大阪市議会で文教委員会(市の教育や文化対策の分野を
扱う委員会)で委員長をしていた当時、匿名である意見を頂いた。
それは学校内でいじめを発見して報告すれば、その学級を担任
している教師が指導力不足だからいじめが存在すると見なされて
評価が減点されるためにいじめの存在を報告できない、という苦悩
に満ちた報告だった。
更に学校単位としても、どこそこの小学校や中学校でこのような
いじめが存在する、いじめが問題になっていると教育委員会に報告
したならば、その校長が指導力不足や教職員への指導が欠如して
いるためにいじめが存在すると見なされて評価が減点されるという
内容だった。
私は思わず、
「何という愚かな減点主義だ。」
と声をあげて当時、実態の把握に努めた。
学校現場にはびこる減点主義がいじめを解決しにくくしている。
生徒のいじめ問題に真剣に取り組んだ教師が、
「君の担任のクラスにはいじめがあるそうだね。君に指導力が足りな
いからいじめが発生するのだ。君は駄目だ。」
と評価が減点されるならば教師がいじめの存在に気付いても見て見
ぬふりをしたり解決に取り組む事を避けるようになる危険性がある。
また校長も自分が担当している学校において、いじめが問題になっ
ていると取り組んだら、
「君の担当している学校にはいじめがあるそうだね。君の教職員に
対する指導力が足りない、管理不行き届きだからいじめが発生する
のだ。君は駄目だ。」
と校長の評価が減点されるならば校長も定年退職までの数年間を
大過なく波風立てず無難に過ごそうとして、いじめ問題の解決に取り
組まなくなる危険性がある。
時々、保護者から私に寄せられた
「いじめを先生に相談しても先生が取り組もうとしてくれない。先生が
本気になってくれない。」
という悩みや苦言も学校現場や教職員を巡る学校教育の評価システ
ムにはびこる減点主義に原因があるように見える。
私が東大阪市議会の文教委員会で委員長をしていた時、当時の教
育委員会の教育長とこの件について「愚かな減点主義を見直すよう」
議論した事があった。
いじめを解決しようと取り組んだ教師こそ評価されるべきである。
世間一般の感覚からすれば自然にそのような認識になる。
しかし現在の学校現場では、いじめが問題になって「いじめが存在す
る」と認めた時点でその担任の教師は指導力不足という烙印を押され
て評価が減点される。逆である。いじめが現実に発生しているのだから
教師は解決に向けて取り組まなければならない。
この減点主義というシステムがいじめを解決できない実態を生じてい
ると言えよう。
校長も同じであり、自分が赴任している学校に「いじめが存在する」と
認めた時点からその学校の評価自体が減点されてしまう。その校長は
指導力不足、管理不行き届きという烙印を押されて評価が減点されて
しまうのである。
この減点主義の中では教師や校長が呪縛されてしまい、いじめの相
談が保護者や生徒から寄せられても教師個人で抱え込んでしまい教師
個人が対処して済まそうとするようになる。
報告書の書類上では「我がクラスには何ら問題はありません。いじめ
は全く存在しません。」と処理される。
教師個人での対処でうまく解決出来るいじめもあれば、根が深く、また
事態が悪化して教師個人では対処できない事例もあるだろう。それでも
問題の存在を報告したならその教師が指導力不足という烙印を押されて
評価が減点されてしまうシステムならば、教師は上に報告しないで自分で
抱えたままになるか、書類上ではいじめが存在しないと取り繕うか、解決
しようとしないで見過ごすかになっていくだろう。
生徒が数名に囲まれて殴る蹴るの行為をしばしば受けている事例が
自分の担任のクラスで生じているとしよう。殴る蹴るの行為を受けている
生徒もじっと毎日耐えて特に担任の先生にも相談しないで我慢を重ねて
いるとしよう。このような事例は山ほど存在するだろう。
ある日、見かねた他の生徒や他のクラスの生徒から担任の先生に報告
があって先生はその殴る蹴るを繰り返している現場を目撃したとする。
教師は止めに入るだろう。
大抵の教師は殴る蹴るの行為を毎回のように重ねている生徒達を叱る
だろう。
しかし報告書ではその問題の存在を報告しない。
報告すれば自分が指導力不足として減点されるからだ。
そうして後日、毎回のように殴る蹴るの行為を受けていた生徒の顔にい
かにも殴られたようなアザが出来て口も腫れていたために、それを見たそ
の教師の上司の先生から問い合わせがありいじめがあるのかと詰問され
たとする。
その教師は
「生徒同士でじゃれ合っているうちに、つい力が入って手が当たったところ
打ち所が悪くてアザができたようです。」
と報告書の書類上ではいじめではないように取り繕う危険性が生じてしまう
だろう。
評価のシステムが減点主義ならば、教師も人間である以上そのような危険
性が生じてしまう。
時折、生徒がいじめを苦に自殺するという最悪の展開を迎えて初めて
いじめの存在があったと後から学校側が認めるような事例が少なくない。
問題が現在進行形の段階の時に学校側が適切な対処をしていれば最
悪の悲劇には至らなかったと思われるが、しかし教師だけを責める事は
酷でもある。
学校教育の評価システムにはびこる減点主義を改めない限り、同じよう
な悲劇が随所で繰り返されるだけであろう。
石頭のように硬くなった固定観念を打破するべきである。
つまり教師が指導力不足だからクラスでいじめが存在するのではなく、
現実に存在するいじめを教師は解決するべく取り組まなければならない
という世間一般の自然な理性に学校現場も改めなければならない。
いじめが存在する学校は駄目な学校として評価を減点するのではなく、
現実にその学校でいじめ問題が存在するならば学校を挙げてこれに取り
組み解決しなければならない。
当たり前の事のように思える。
しかし今までの長い年月に渡って学校教育の現場やそれを取り巻くシス
テムが、この当たり前の感覚からかけ離れているために、いじめ問題の取
り組みや解決に逆に支障が生じていたものと思われてならない。
まず不毛な減点主義を改めていくべきであろう。
そうでなければ意欲ある教師が教育現場から去っていくか、情熱を失って
しまいかねない。
教師に長期休職者が多いのはシステムに問題があるからではなかろうか。
痛ましい悲劇があった。
時に生徒が生きる意欲を失い自ら命を絶って初めていじめ問題
が問題として認識され取り上げられる。いじめ問題の根深さを感じる。
いじめは各地の学校内でも学校の先生同士の間でも、企業でも、
親会社と子会社の間でも存在する。
いじめは人間関係がそこにある限り必ず発生するが、少なくとも
子供達のいじめについては、学校内のいじめについてそれを苦に
している生徒の苦しみを解決してあげる事は学校が本気になって
取り組めば、また学校の先生達が真剣に取り組めば解決できる対
象であろう。
生徒がいじめを苦にして自ら命を絶つという悲劇だけは何としても
救ってあげなければならない。
未来のある子供達なのだから。
私が東大阪市議会で文教委員会(市の教育や文化対策の分野を
扱う委員会)で委員長をしていた当時、匿名である意見を頂いた。
それは学校内でいじめを発見して報告すれば、その学級を担任
している教師が指導力不足だからいじめが存在すると見なされて
評価が減点されるためにいじめの存在を報告できない、という苦悩
に満ちた報告だった。
更に学校単位としても、どこそこの小学校や中学校でこのような
いじめが存在する、いじめが問題になっていると教育委員会に報告
したならば、その校長が指導力不足や教職員への指導が欠如して
いるためにいじめが存在すると見なされて評価が減点されるという
内容だった。
私は思わず、
「何という愚かな減点主義だ。」
と声をあげて当時、実態の把握に努めた。
学校現場にはびこる減点主義がいじめを解決しにくくしている。
生徒のいじめ問題に真剣に取り組んだ教師が、
「君の担任のクラスにはいじめがあるそうだね。君に指導力が足りな
いからいじめが発生するのだ。君は駄目だ。」
と評価が減点されるならば教師がいじめの存在に気付いても見て見
ぬふりをしたり解決に取り組む事を避けるようになる危険性がある。
また校長も自分が担当している学校において、いじめが問題になっ
ていると取り組んだら、
「君の担当している学校にはいじめがあるそうだね。君の教職員に
対する指導力が足りない、管理不行き届きだからいじめが発生する
のだ。君は駄目だ。」
と校長の評価が減点されるならば校長も定年退職までの数年間を
大過なく波風立てず無難に過ごそうとして、いじめ問題の解決に取り
組まなくなる危険性がある。
時々、保護者から私に寄せられた
「いじめを先生に相談しても先生が取り組もうとしてくれない。先生が
本気になってくれない。」
という悩みや苦言も学校現場や教職員を巡る学校教育の評価システ
ムにはびこる減点主義に原因があるように見える。
私が東大阪市議会の文教委員会で委員長をしていた時、当時の教
育委員会の教育長とこの件について「愚かな減点主義を見直すよう」
議論した事があった。
いじめを解決しようと取り組んだ教師こそ評価されるべきである。
世間一般の感覚からすれば自然にそのような認識になる。
しかし現在の学校現場では、いじめが問題になって「いじめが存在す
る」と認めた時点でその担任の教師は指導力不足という烙印を押され
て評価が減点される。逆である。いじめが現実に発生しているのだから
教師は解決に向けて取り組まなければならない。
この減点主義というシステムがいじめを解決できない実態を生じてい
ると言えよう。
校長も同じであり、自分が赴任している学校に「いじめが存在する」と
認めた時点からその学校の評価自体が減点されてしまう。その校長は
指導力不足、管理不行き届きという烙印を押されて評価が減点されて
しまうのである。
この減点主義の中では教師や校長が呪縛されてしまい、いじめの相
談が保護者や生徒から寄せられても教師個人で抱え込んでしまい教師
個人が対処して済まそうとするようになる。
報告書の書類上では「我がクラスには何ら問題はありません。いじめ
は全く存在しません。」と処理される。
教師個人での対処でうまく解決出来るいじめもあれば、根が深く、また
事態が悪化して教師個人では対処できない事例もあるだろう。それでも
問題の存在を報告したならその教師が指導力不足という烙印を押されて
評価が減点されてしまうシステムならば、教師は上に報告しないで自分で
抱えたままになるか、書類上ではいじめが存在しないと取り繕うか、解決
しようとしないで見過ごすかになっていくだろう。
生徒が数名に囲まれて殴る蹴るの行為をしばしば受けている事例が
自分の担任のクラスで生じているとしよう。殴る蹴るの行為を受けている
生徒もじっと毎日耐えて特に担任の先生にも相談しないで我慢を重ねて
いるとしよう。このような事例は山ほど存在するだろう。
ある日、見かねた他の生徒や他のクラスの生徒から担任の先生に報告
があって先生はその殴る蹴るを繰り返している現場を目撃したとする。
教師は止めに入るだろう。
大抵の教師は殴る蹴るの行為を毎回のように重ねている生徒達を叱る
だろう。
しかし報告書ではその問題の存在を報告しない。
報告すれば自分が指導力不足として減点されるからだ。
そうして後日、毎回のように殴る蹴るの行為を受けていた生徒の顔にい
かにも殴られたようなアザが出来て口も腫れていたために、それを見たそ
の教師の上司の先生から問い合わせがありいじめがあるのかと詰問され
たとする。
その教師は
「生徒同士でじゃれ合っているうちに、つい力が入って手が当たったところ
打ち所が悪くてアザができたようです。」
と報告書の書類上ではいじめではないように取り繕う危険性が生じてしまう
だろう。
評価のシステムが減点主義ならば、教師も人間である以上そのような危険
性が生じてしまう。
時折、生徒がいじめを苦に自殺するという最悪の展開を迎えて初めて
いじめの存在があったと後から学校側が認めるような事例が少なくない。
問題が現在進行形の段階の時に学校側が適切な対処をしていれば最
悪の悲劇には至らなかったと思われるが、しかし教師だけを責める事は
酷でもある。
学校教育の評価システムにはびこる減点主義を改めない限り、同じよう
な悲劇が随所で繰り返されるだけであろう。
石頭のように硬くなった固定観念を打破するべきである。
つまり教師が指導力不足だからクラスでいじめが存在するのではなく、
現実に存在するいじめを教師は解決するべく取り組まなければならない
という世間一般の自然な理性に学校現場も改めなければならない。
いじめが存在する学校は駄目な学校として評価を減点するのではなく、
現実にその学校でいじめ問題が存在するならば学校を挙げてこれに取り
組み解決しなければならない。
当たり前の事のように思える。
しかし今までの長い年月に渡って学校教育の現場やそれを取り巻くシス
テムが、この当たり前の感覚からかけ離れているために、いじめ問題の取
り組みや解決に逆に支障が生じていたものと思われてならない。
まず不毛な減点主義を改めていくべきであろう。
そうでなければ意欲ある教師が教育現場から去っていくか、情熱を失って
しまいかねない。
教師に長期休職者が多いのはシステムに問題があるからではなかろうか。