身を立てて世に出る。これを立身出世という。実に純粋で
他意のないすがすがしい青雲の志のことである。
しかし、この言葉の本来の意味が本来の意味のまま通じる
のは恐らく明治時代の人々ではなかろうか。今日、この言葉
が持つ響きは、本来の姿とはかけ離れた我欲的なものになっ
てしまっている。
出世とは世に出ることで、人の上に立つという意味ではない。
お金もつても物資も便りも何もかも無いが志がある、そういう
青年がカバン一つで列車に乗り、或いは舟に又は船に乗り都会
へ出ていく。背中には見送る故郷の肉親や家族、知人や友人の
様々な思いや視線を受けて背負って、列車に揺られて街を目指す。
これぞ立身出世である。
草深い田舎を原風景に自分はこの道で生きていくのだと身を
立てようとする本来の意味の立身出世と、何かの組織の中の地位
を得ようとあくせく根回しする姿としての「出世」とは天と地ほ
どの違いがある。
それぞれが何かの原風景を持って、身を立てて世に出れば良い。
それぞれが立身出世を成そうと励むとき社会が活力を持つ。
それが地域を活かし、総じて国を活かす。
今日、本当の意味の立身出世を抱いている人はどれほどいるだ
ろうか。出世とは人を蹴落とし人を押しやり、表と裏を使い分け
茶坊主が如き組織の内側をこそこそと這い回った結果で手にする
安住の場所へと変わってしまっているのではないか。
そこには志は無く、我欲があるのみである。
世のために世に出よう。