木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

不可解な宮内庁長官の事実上の更迭

2016-09-29 21:37:52 | インポート
 やはりおかしい。
 一人の日本人として日本国民として違和感を覚える。
 今上天皇陛下が国民に直接お言葉を述べられることを踏み留
まらせることが出来なかった、として首相官邸が宮内庁を批判し
宮内庁長官が事実上の更迭にされるという事態はいかがなもの
だろうか。
 こうした一連の事実を見るにつき、官邸は今上天皇陛下に直々
に国民に向かってお言葉を発表させたくなかったという姿が浮き
彫りになった。
 何ということだろうか。
 
 様々な状況証拠から以下のような経緯と姿が浮かんでくる。
(1)7月上旬に一斉にメディアにより天皇陛下が生前退位のご意向
   だと報道された
(2)数日後に一部のメディアが生前退位は天皇陛下のご意向では
  ないと報道した
(3)メディアの報道の姿に不快感や疑問を覚えられた今上天皇陛下
  がどうしても自分の言葉で国民に向かってお気持ちを伝えたいと
  いう強い意志を示された
(4)なりませぬ、それは絶対になりませぬ、と陛下が直接ご自分のお
  言葉を発表したいという意思を止めようとした人々もいた
(5)そして今上天皇陛下が自らのお言葉で国民に向かってお気持ち
  と称して様々な問題提起をされた


 実際の今上天皇陛下のお言葉の中にはどこをどう見ても「退位」「退位
したい」「譲位」「譲位したい」「自分の代だけの措置を希望する」というよ
うな言葉は皆無だった。
 つまり生前退位というのは天皇陛下御自身ではない、他の誰かの意思で
あり、あらぬ方向に我が国を誘導しようとした痕跡を感じる。
 ここまでの経緯を見る限り、今の官邸は朝敵に等しい言動をしている。
 官邸は天皇陛下の負担軽減策の検討を進めていたとのことだが、8月8日
の今上天皇陛下の直々のお言葉では、
「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が国事行為やその象徴としての行為を限り
なく縮小していくことには無理があろうと思われます。」
と仰せられているように、身体は衰えても高齢になっても象徴天皇という役割
を縮小していく(負担軽減も同義)ことは無理だと直々に仰せられているので
ある。

 そもそも何故、今上天皇陛下が8月8日という日に直々にお言葉を国民に
向けて発せられたのだろうか。
 何故あのタイミングだったのだろうか。
 何故、直接ご自身が直々にお気持ちと称してお言葉を国民に向かって述べ
られたのだろうか。
 その理由をよく考え、知ることが国民として必要なことではなかろうか。
 最も日本国民の事を思い、国民のために祈りを続けてこられたのは天皇陛下
であられたというお姿と事実がよく分かったお言葉だった。
 今上天皇陛下の直々のお言葉こそが全てであり、それ以上それ以下でもない。
 陛下のお言葉を捏造したり、邪推して世の中を誘導することは朝敵に等しい
行為である。
 絶対に踏み越えてはならない一線であり、絶対にしてはならないことである。

 昭和天皇は87歳で崩御されたが、昭和天皇については生前退位論は皆無
であった。
 今上天皇陛下は現在82歳であられるが、生前退位論が独り歩きしている。
 何故だろうか。
 誰が生前退位論を仕掛け、独り歩きさせているのだろうか。
 ここに我が国の言論空間の問題点、例えばかつて大本営発表という形で
事実とは違う姿や内容を国民に伝え誘導していったように、同じ本質の危うさ
と懸念を禁じ得ないのである。

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一人の日本人として日本国民として懸念すること

2016-09-28 22:32:09 | インポート
 生前退位という言葉が独り歩きをしている。
 今上天皇陛下が生前退位のご意向を示された、と多くの人々が
思い込んでいるが、それは新聞だけを読んでいる人々やテレビ報道
のみを見ている人々がメディアが生前退位ありきで報道している為に
そのような視野及び認識になっているのだろう。
 8月8日に今上天皇陛下が11分間に渡って直々に国民に向けて
発せられたお気持ちと称した声明は、どこをどう見ても、一言一句つぶ
さに凝視しても一言たりとも「退位」「退位したい」「譲位」「譲位したい」
「自分の代に限る措置を望む」等という内容は皆無である。
 にもかかわらず、何故、生前退位という内容がメディアを通じて大々
的に世間に垂れ流されているのだろうか。
 これは明らかに何かの意図を感じる。

 皇室を敬い、日本国の悠久の歴史に誇りと愛着を持つ一人の日本人
として一人の日本国民としてメディアの姿勢に著しく違和感と懸念を禁じ
得ない。
 皆様も可能ならば8月8日の今上天皇陛下が直々に国民に向けて発
せられた11分間の声明の全てを一言一句、全て再確認することをお勧
めしたい。
 大手新聞の報道も酷かった。
 時に陛下のご発言の前半部分だけを抜粋して、更に続く後半の言い回し
をカットして掲載したり、発言内容と違うニュアンスに抜粋して要旨として一
面に要約する等の印象操作の手法を前にすると、実際に陛下の直々のお
言葉の全てを見たり聞いたりしていないで新聞紙のみで確認している多くの
人々は、あたかも今上天皇陛下が体力の限界を感じて生前退位を示唆した
のかな、譲位をほのめかしたのかな、と間違った解釈や誤解を生じてしまう
危険性がある。
 新聞紙を読まないでテレビだけしか見ていない人々も同様の危険性を有する。
 我が国の言論空間の問題点としての一つに、陛下御本人が全くご発言され
ていない内容を独り歩きさせて論じ、特定の方向に世間全体を誘導しようとす
る手法が見られる事が挙げられる。
 そしてその誘導や内容に国民を始め識者や論者も全て、触れられないような
空気が醸し出され、本当に陛下が仰せられたのかどうかを確認し指摘する事
自体まで触れまいとする全体圧力、同調圧力が生じていく。
 いつしか誰も疑問を感じないまま特定の方向に進んで世論も報道も邁進させ
られていくという危うさと脆さと危険性を有している言論社会である。
 そしてその手法に国民が疑問を持つことを事前に防ぐ更なる手法として、
「陛下御自身は政治的な発言はできないから生前退位という直接表現は使って
いない。」
としてこれまたメディアに登場する識者と称する人々が発言して牽制し、誘導し
ようとする。

 そもそもは7月上旬にメディアが一斉に陛下が生前退位のご意向だと報道した。
 しかし数日後に一部のメディアが生前退位は陛下のご意向ではないと報じた。
 更に数日後に陛下が直接、国民に向かって直々のお言葉でお気持ちを述べら
れると発表された。
 なぜ今上天皇陛下が直々に国民に向かってお気持ちと称してお言葉を述べら
れたのだろうか。
 もしも当初のメディアの報道が本当に陛下のご意向の内容であったならば、そ
のまま報道が肯定され、そのまま時間が経過していた筈である。
 その後になってから陛下が直々にお言葉を国民に向けて発せられることは無か
った筈である。
 事実、陛下の直々の11分間のお言葉の中には一言一句どこをどう見ても退位
や譲位を希望するようなお言葉は皆無であった。
 今上天皇陛下の直々のお言葉を通じて、陛下は何を国民に向かって仰せられた
のかという事を一言一句全て忠実に受け止める事が日本人として日本国民として
大切な事であると危惧を禁じ得ない。
 
 生前退位を議論するための有識者会議が発足するとのことだが、敢えて皇室の
専門家を排除していることも違和感を覚える。
 また驚き呆れる一部の識者の議論の中に三種の神器に相続税を課すべきだと
いう愚論があるが、物事を唯物的にしか見ることができない現代人の堕落もついに
ここまで落ちたかという驚きと怒りをもって知性の劣化を感じる。
 高い精神性や受け継いできたかけがえのないもの、形而上的なものについての
認識ができなくなっており、ついにここまで物資的な感性しか持てない姿になり下が
ってしまったのかとその劣化に一人の日本人として嘆かわしく怒りを覚える。
 我が国の新聞、テレビといったメディアは一体誰のために報道しているのだろうか。
 嘘八百を垂れ流すなと一人の日本人として一人の日本国民として不快である。

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秋の連休に際して思い出す旅路

2016-09-22 01:04:24 | インポート
 秋の連休にうまく有給休暇を取れた人は9連休に入っている
パターンもあり羨ましい限りである。
 そういえば私も20代の頃は連休と有給休暇をうまく組み合わ
せて9連休を確保した事もあった。
 数年に渡り何度か確保した9連休では当時は北海道に旅に
出たことを思い出す。
 レンタカーを借りて北海道を反時計回りに1周したこともあり、
また北海道は地図で見る以上に広大なために1度の9連休では
じっくり体感するには時間が足りず往復に大型フェリーでの船旅
を選んだために往復で数日は取られることから北海道で費やす
ことのできる時間は6日間程と限られ、何度か分けて旅をしたもの
である。
 20代の頃は今回の連休は知床や根室の東部へ、翌年の連休
では稚内辺りの北部や富良野や美瑛の中部へというように広大
な北海道を分けて訪れたものである。
 歳月を重ねた今の年齢で北海道をもしも旅したならば、多感な
20代の頃とはまた違った出会いや発見、気付きや感慨を得るで
あろう。時間の過ごし方や感じ取る物事や対象が当時とは違った
ものになるであろう。
 連休に際して、またいつか北海道へ行きたい、できれば旅として
行きたいものだという思いが胸中に湧き上がる。
 いずれにしてもまとまった連休はいつもとは違う非日常の時間を
いかに過ごすことができるかが醍醐味である。

 多感な20代に北海道は記憶を辿れば6回旅をしている。
 春に1度、あとはいずれも夏の北海道だったが夏の北海道はまさに
北の大地という広大な地平で、多感な20代の当時の青年の私にとって
はまだ見ぬ大地へというような希望そのものの時間だった。
 北海道の思い出を述べればそれだけで紀行文になってしまうので、
ここでは少しだけ当時を思い出し綴ってみたい。
 舞鶴から小樽まで大型フェリーが航路を開いているが、当時の私は
船旅での旅路を選んだ。
 甲板に出て眺める大海原に居合わせた客、その人々も旅に出ている
旅人であったが、その人々と語り合ったものである。また甲板から眺める
海原に沈む夕日に感じ入り、また甲板から見上げる満点の星や月の光
に当時の青年の胸は躍り満たされていった。
 当時の私は北の大地に向かうという希望という言葉以外が当てはまら
ない心境だったが、歳月が経過した今にして思うと、あの船路にいた人々
には青年もいれば経営者もいる、帰省者もいれば新天地を求めて乗船し
ている人もいたであろう。様々な立場や立ち位置の人々が乗船していた
であろうし、抱く思いや胸中も希望ではなく様々な人生的意味合いや色彩
を帯びたものであったであろうことは、歳月を重ねた今にして感じることで
ある。
 私のように希望という思いを抱いて船路にある者だけでなく、中には失意
の人もいれば悲しみに包まれてる人、絶望の胸中の人、様々な人生の色彩
を背負って船路にある人々が小樽に向かう大海原の船路を共に過ごしていた
そういう視野で船旅を見ることは20代の青年の段階ではまだできなかった。

 20代のある夏の旅路において、東部にある別海町の牧場を訪ねた。
 牧場主と交渉して家畜の餌やりや必要な牧場での作業を手伝う代わりに
食事と宿泊場所を提供して欲しいと交渉し、承諾を得て数日間、牧場で作業
をし時に語り合ったことも良い思い出である。
 サイロのてっぺんに上り、共に旅路にあった当時の友人と牧場主と地平線
を眺めながら色々と夢や希望について語り合った。そしてサイロのてっぺんの
柵にもたれながら「若者たち」を歌ったものだった。
「君のゆく道は 果てしなく遠い だのになぜ 歯を食いしばり 君は行くのか
 そんなにしてまで」
私達の歌声が牛の鳴き声に交じって牧場に響いた。
 今にして思えばこのような時間を青春というのだろう。
 サイロから降りて搾りたての牛乳を飲んだ時の美味しさは格別だった。
 後日、当時学生生活を過ごしていた京都に戻って後輩の女子大生達にこの
牧場での体験を熱く語ったところ、翌年に後輩の女子大生達が別海町の牧場
を自転車で旅路を重ねながら訪問し、私が数日過ごした牧場を訪ね同じように
牧場の作業をする代わりに食事と宿泊場所を提供してもらったそうである。
 牧場主と時に私の事を思い出しながら話題にしたと聞き、若い頃というのは
このようにエネルギーに満ちた行動を自ずとするものだなと今にして振り返り
思い出している。

 また20代のある年の夏、北海道を東へ東へと走り根室の納沙布岬に着いた。
 岬の近くにある昆布屋に入り昆布を食べるとこれまでに味わった昆布とは次元
の違う甘みとうま味に感じ入り、やがて店主と会話が弾み、そしてロシアの話に
なり更には北方領土の話へと会話が転じていった。
 そうして店主と一緒に納沙布岬の先端の波が打ち寄せている岩場に降り立ち
眼前に支柱が建っているあれは貝殻島で、そこから向こうはもうロシアの支配下
にあって行けないという話を聞いた。
 納沙布岬一帯には300軒程の昆布漁の漁師がいて、1回の昆布漁にロシアに
対して1件の漁師が50万円を支払うとのことであった。
 1回の漁で300軒の昆布漁漁師が払う金額は1億5000万円になり、ロシアに
とって大きな収入源だとのことだった。
 この重い手数料のために納沙布岬一帯の昆布漁の人々は利益は出ないそうで
ただ先祖代々続いてきた昆布漁の暖簾をしまいたくない、絶やしてはならないとい
う思いのみで赤字を重ねながらも昆布漁を続けているとのことだった。
 朝に一斉にサイレンが鳴り響く。
 ロシアからの昆布漁の許可が出た合図であり、300隻近い昆布漁の漁船が
サイレンと共に一斉に沖合を目指して出撃していく様はまるで競艇のようだと
店主は語った。
 そして沖合僅か3キロの地点にある岩礁によってできた貝殻島に支柱が建て
られており昆布漁の漁船はこの貝殻島より先に行ってはいけないのである。
もしも貝殻島を越えて漁に及べば即座にロシアの巡視船が駆けつけて拿捕さ
れるとのことだった。
 限られた漁の時間は3時間である。
 そして終了のサイレンが一斉に納沙布岬一帯に鳴り響き、貝殻島周辺で昆布
漁をしていた300隻程の漁船は一斉に港を目指して戻っていく。
 僅かでも戻る時間に遅れても拿捕されると店主が固い表情で述べていた。
 この不条理な情景が沖合の島影に重なって見えた時、まだ政治の世界に入っ
てはいなかった当時の青年だった私の中に北方領土問題というものが体感を
伴って胸中に響いたのであった。

 あの昆布屋の店主との納沙布岬での語り合いから18年程が経過する。
 昆布屋の壁には訪れた来客の名刺が所狭しと貼ってあったので私も当時の
名刺を貼ったが、その時の私の名刺はまだこの昆布屋に残っているだろうか。
 そもそも昆布屋の店主は今もご健勝であろうか。
 そう思うとふと、納沙布岬を訪れてみたくなる。
 これも旅路が残してくれた1つの記憶である。
 連休に際して、いつしか遠ざかってしまった時間空間にまた出会いたいという
思いを抱いてしまう。
 体感する非日常の旅路での時間は様々な発見や気付きのきっかけを与えて
くれているものと今にして当時を振り返り、改めて感じている。
 旅路は良き時間を与えてくれるものである。

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プロ野球界に大きな一石を投じる価値ある優勝

2016-09-10 22:09:20 | インポート
 プロ野球で広島カープが東京ドームにて巨人に逆転勝利し
25年ぶり通算7度目のセリーグ優勝を果たした。
 長い歳月だった。
 21世紀になってからは初の優勝で今回の優勝は昭和50
年の初優勝に匹敵する価値がある優勝だった。
 昭和50年の初優勝の時は後楽園球場での巨人戦だったが
21世紀になってから初の優勝の今回も東京ドームでの巨人
戦で優勝を決めた事を思うと、何かの巡り合わせのようなも
のを感じる。
 広島カープが前回に優勝した1991年は私が高校3年生
の時で、ベテランの新井選手は中学生、黒田博樹投手は高校
生、菊池選手や丸選手は乳幼児、鈴木誠也選手はまだ生まれ
ていない頃である。
 それほどに長い歳月が流れていた。
 今の25歳以下のプロ野球ファンは広島カープが優勝した
事を皮膚感覚としては知らない世代になっており、ましてや
昭和50年以降の広島カープは常時、上位争いや優勝争いを
していたという黄金時代を知らない世代である。

 物事には絵になる姿というものがある。
 本日の試合の先発は黒田博樹投手だったが、試合開始前から
黒田投手の先発の本日で優勝が決まれば絵になると思っていた。
 物語のクライマックスや大事な局面で要になる人物が事を成し
遂げて物事が決まると絵になるが、広島カープファンのみならず
プロ野球ファン全体からも支持が多い黒田投手が先発して優勝を
決めるという姿は絵になり、これも何かの巡り合わせであろう。
 惜しまれて大リーグに移籍し、高年俸を蹴ってまで広島カープ
への復帰を果たして優勝を目指してきたその姿はチームの精神的
支柱となっており、それ故に最後の晴れ舞台の仕上げは黒田投手
でという思いは多くの人々が思っていたことだろう。
 理想的な絵になる姿で広島カープは25年ぶりの優勝を果たした。

 今回の広島カープの優勝は単に広島カープファンとして嬉しい
というものではなく、プロ野球界全体や世間に大きな一石を投じた
価値ある優勝だろう。
 長年に渡りプロ野球界にはいつしか資本の力にものを言わせて
各球団の看板選手を引き抜いては自分達の看板選手にしていくよう
な資本野球がまかり通ってきた。
 合わせて選手も資本力のある特定の球団に尻尾を振って媚を売り
高騰する年俸に嬉々としながら移籍していく姿が目に付いた。
 広島カープも苦労して選手を無名の原石の段階から見出して一流
選手へと育て上げてはフリーエージェント宣言をされ、資金力不足
から高騰する選手の年俸を支えきれず育て上げた看板選手を泣く泣く
特定の資本力のある球団へと引き抜かれていく時代が長く続いた。
 昨年まで常に下位に低迷し、かろうじて3位を目指しクライマッ
クスシリーズに出場できるかどうかが精一杯の喜びの山だった球団
が昨年とほとんど同じ現有戦力で、また通常のドラフトをこなした
以外は格別な補強や大型トレードもない中で試合をこなしていくう
ちに選手達が強くなっていく軌跡がファンの目にも明らかに映って
いった事はプロ野球界全体に大きな価値を生むものだった。
 自前で無名の段階から選手を見出し、一流選手へと育て上げてい
く広島カープのスタイルは野球を愛する人々の琴線に触れて共感を
生むもので、まさにプロ野球の王道をゆく姿であった。
 しかしながらその王道の姿が長い年月に渡り資本力にものを言わ
せる資本野球の覇道をゆく姿の前に阻まれてきたが、25年ぶりの
リーグ優勝を果たした事でプロ野球のあるべき姿とは何かという命題
を世間に投げかける大きな意義のあるシーズンとなった事は誰の目に
も否めないものだろう。

 思い返せば昨年、かろうじてクライマックスシリーズに出場できる
かどうかという最終試合に広島カープは全くクライマックスシリーズ
への出場の可能性の消えていた中日ドラゴンズに対して金縛りにあった
ように萎縮して僅か1安打に終わり完封負けを喫して敗退した。
 この試合で勝てばクライマックスシリーズへ出場という目標があるに
もかかわらず目標のない消化試合に等しい相手に完封負けを喫したその
姿に、私も怒りを禁じ得ず、関西の広島カープ後援会の会計監査を拝命
していた私だったが激怒のあまり広島カープファンの行事を前もって欠
席と決めて欠席したことを思い出す。
 ファンでもこれだけ腹立たしい思いをしたのだから昨年は緒方孝市監督
は勿論のこと選手も相当に悔しい思いをしたことであろう。
 野球はとにかく打って点を取らなければ勝てないという当たり前の本質
を突き付けられた昨年のシーズンに一に打線、二に打線、三、四がなくて
五に打線という課題を感じたが今年はその悔しさやファンとして常に感じ
た閉塞感を打ち破る強力な打線に生まれ変わらせたその努力にファンとし
て胸のすく思いであった。
 25年ぶりの価値ある優勝に久しぶりの旨酒を酌み交わしたい心境である。

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民進党代表選挙

2016-09-04 22:51:37 | インポート
 民進党代表選挙が行われている。
 今回の代表選挙で立候補しているのは前原誠司衆議院議員、
連舫参議院議員、玉木雄一郎衆議院議員の3名で、それぞれに
魅力と資質のある方々である。
 私は京都市内での前原誠司衆議院議員の決起集会に参加した。
 この民進党代表選挙ではそれぞれの候補者は大いに国家像を語り、
大いに時代を語り、大いに国民に語りかけて良い代表選挙にしても
らいたいものだ。

 今回の立候補者の中では、私としては経験値と資質、政権与党時代
の失敗を経験として活かせるという視野から前原誠司衆議院議員が
民進党代表になるのが相応しいと見るが、国会議員や地方議員の票
そして党員、サポーターの票がどのように動くだろうか。
 連舫参議院議員と玉木雄一郎衆議院議員は今回の出馬は顔見せと
いう意味合いであり次回の代表選挙以降が本番であろう。
 それにしても今回の決起集会で前原誠司衆議院議員が自らの事を
政権与党時代の戦犯だと自戒し、だからやり直したいと真摯に話す姿
には感じ入った。
 また小沢一郎衆議院議員に対しても、
「当時の民主党内は親小沢と反小沢の派に割れたが、自分が反小沢の
急先鋒だったことについて何という馬鹿なことをしたのかと反省している。」
と省みる姿には前原誠司衆議院議員の成熟度合いを感じた。
 国民の信頼を取り戻したい、色々な考えの議員がいる党であり難しいが
過去の失敗を活かして何としても党をまとめたい、という訴えに私は一人の
国民としてもう一度、前原誠司衆議院議員に民進党代表を任せてみたいと
思った。
 思い起こせば前原誠司衆議院議員が当時の民主党代表になったのは
前原誠司衆議院議員が43歳の時で今から11年前になる。
 当時は血気盛んで、敢えて述べれば青年将校のような切れ味だったが
政権与党時代の苦い経験や歳月の経過で人物としての成熟味が備わった
ように見えた。
 切れ味だけでなく成熟味が備わった前原誠司衆議院議員にもう一度党の
代表を任せてみて期待したい。

 今はもう単なる野党という存在は国民が求めていない。
 与党ではなくても責任政党として、また国民政党としていかに普遍性を帯び
つつ、時代を幾つか重ねても色褪せないものを持ち存在し得るかという事が
我が国の政党政治において求められる大切な本質だと一人の国民として感じ
ている。
 下手をすれば万年与党とその他大勢の弱小政党群という構図になりかねな
い局面にある中で、今は我が国の政党政治を退廃させないかどうかの大きな
分岐点に立っている。

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