木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

東大阪市議会議員定数4名削減

2011-07-29 13:38:07 | インポート
 先程まで東大阪市議会の臨時議会が開かれていた。
 議員定数の件についてである。
 議会開会前の各会派代表者会議で、それぞれの会派
から意見が述べられて議案にするための調整が行われ
た。私達の会派(民主さわやかな風議員団)は会派での
会議で定数は現状維持という議員、定数削減やむなしと
いう私、同じく定数削減に賛成という議員と削減の人数を
巡り3議員3通りの意見となった為に、今回の対応につい
ては会派拘束をかけず議場で自主判断することになった。

 代表者会議では現状維持を唱える会派、定数2名削減、
定数4名削減、定数6名削減という意見が出て、議長の調
整の結果、議会運営委員会で議案には議員定数4名削減
案とする事で決定し、正午過ぎから本会議場で議決に入っ
た。
 共産党が反対討論、私達の会派議員が反対討論を行っ
て起立採決をした結果、賛成多数で可決された。
 私は賛成起立した。
 東大阪市は人口51万人、議員数は46名であるが今回
の可決により議員定数は次回改選から42名になった。

 市民感情、市の財政事情を考慮すれば議員定数削減は
避けられないだろう。しかし世の中全体が議員定数削減
ありきの流れになっている実態にも疑問を感じる。とにかく
減らせば良いというものではない。議員報酬、期末手当も
この数年来は削減の一方で、議員年金まで国会議員と自
治体議員ともに廃止になった。
 定数を削減し、報酬を削減すれば即ち議会が質、内容共
に向上し、それが社会に良い影響と効果を及ぼし行政の質
や民意の反映に著しい効果を生じるとは限らない事も現実
である。定数が少なくなれば何をやっても良いのかという訳
でもなく、極論すれば議員が無報酬であれば何を述べても
何を行っても良いのか、となれば違うだろう。

 市の行政も当然、議会が形骸化し議員の数が限られてく
ると緊張感も緩み、民意が反映される間口も狭くなりかねな
い。報酬が高ければ議会の質が下がり報酬を削減もしくは
無報酬にすれば議会の質が向上する、という論調も一部に
あるが私は全く関係ないと感じている。そういうことはない。
 どの仕事でもそうだが、むしろ報酬は責任の自覚を与え、
より良い人材を幅広く世の中から集めようとすれば責任の
持てる一定水準以上の年俸、報酬というものは不可避とな
っていくのが世の中の現実である。
 今回の東大阪市議会の議員定数の問題は、人口約1万
人につき議員1人というバランスに現在の定数はなってい
たので、又、地方自治法に定められた議員定数の法定定数
が東大阪市は現在56であるから、現状の46名でも法定定
数を大幅に下回っており、現在の議員定数が多過ぎるとは
到底思えない。
 しかし、長引く不況により財政上の問題から、また市民感
情に配慮すれば上記の思いや問題を感じつつも私は定数
削減に賛成という意思表示を議場で行ったのである。

 本当に議会の調査能力向上、政策研究や課題調査及び
行政課題の調査研究能力を充実させて、議員の活動環境
を充実させることにより更なる責任感の向上を図るとするな
らば、例えば今回の議員定数4名削減と併せて前回改選時
にも議員定数4名削減していることから計8名の議員定数を
削減したことになるので、1年間に議員8名分の年収分が
浮くことになるが例えばこの半分の4名分の人件費を新たな
定数の42名に均等に割り当てて定数減の議員の報酬を向
上するという視点も必要かもしれない。
 なんでもかんでも削減、廃止ではなく、定数は減らすが
減った定数の議員の報酬は向上させて質を高める事で責任
感に更に重みを増す事も選択肢の一つと言えるだろう。
 事実、何かの調査で移動すれば交通費、資料代、諸々の
支出は想像以上にかかるものである。国会議員と違い自治
体議員は交通費も全額自己負担である事は案外と世間に
知られていない。

 おもねる政治として「削減」「廃止」に走っては逆に政治を
低下させてしまう。明確な根拠、高い目的意識の上に立つ
議員の調査研究活動、調査研究環境の充実を図るための
様々な議論であって欲しい。

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破壊されたのは街だけではなく・・・

2011-07-26 23:44:39 | インポート
 被災地を歩いている時に常に脳裏をよぎったのは今
もしも再び同じように津波が押し寄せてきたら、という
思いであった。目の前に穏やかに広がる湾を見ていて
も大きな被害の爪痕を刻んでいる光景を前にして再び
荒れ狂う海と化すことが生じないとは限らないからであ
る。あの日も同じように海は穏やかであった筈であった
が、大地震と共に全てを破壊し尽くす修羅の海へと変貌
した事がいつ再現するかもしれないという何とも言えな
い思いは常に頭から離れることはなかった。
 もし今この瞬間に津波が来たらひとたまりもないなとい
う事をどうしても考えてしまうのであった。

 実際に津波の被害に遭っていない私ですら現地に立
つとそのような思いがまるで押し寄せる波のようによぎっ
ては波が引くように消えていった。
 東日本の広範囲にわたる沿岸部の人々の心理や思い
はどのようなものかその恐怖感は察するに余りある。

 岩手県大船渡市の漁業協同組合が漁業の新たな担い
手を募集しようと説明会・面接を行ったが、訪れた人はい
なかったとのことである。潰滅的な被害を受けた漁港だが
復興への一歩として漁業を再開しようと、その想定で若手
や新人を募集したかったようだが破壊された漁港に人が
戻るにはまだ春は遠いようである。
 本来なら募集に応募していたであろう若者の多くは津波
により「海が怖くなった」「また津波に襲われたらどうしよう」
という恐怖の方が優り、海を敬遠し始めているとのことだ。
 漁業の町の若者が海を恐れ始めた・・・。
 津波が心に焼き付いて漁船に乗る事に怯え始めた・・・。
 津波で破壊された街は生活圏や産業を破壊しただけでは
なく、今後の産業の担い手の若者の心までも深い傷跡を残
してしまった。

 ただでさへ各地の漁業は後継者不足に悩み、漁港のある
街の多くは過疎化に見舞われ廃れていく一方である。
 四方を海に囲まれている日本は海に閉ざされているので
はなく海に恵まれてきたとも言える。豊富な海の幸、海産物
や海の資源の宝庫である。しかし宝の海に出向いていく人材
が次第に不足している状況は深刻で、私達の食卓に並び舌
鼓をうつ豊富な海鮮物、海の幸が実はそれを生みだす産業
を支える人材の危機に見舞われていようとはネオンに包まれ
た店のテーブルからは想像しにくいものがある。
 更に東日本の沿岸部を襲った大津波が多くの漁港を廃港
に追い込み、集落を消滅させ、漁業の担い手をも奪い、新た
な世代にまで海に向かう恐怖を与えてしまった。

 また家畜や土壌づくりに全てを捧げ良い野菜を作ってきた
人々からは原発事故による放射能で一瞬にして長年の全て
を奪ってしまった。
 家畜、農作物、その飼料、土壌、水系、つまり人々の生活
の土台そのものが不毛へと一瞬にして、しかも恒久的に転じ
てしまった。
 被災地の傷跡は甚大で生活圏を根本から崩壊させている。
 長い歳月に渡る息の長い蘇生への取り組みとその継続の
重要さを感じないではいられない。

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大舞台慣れしてきた日本選手達

2011-07-23 23:36:45 | インポート
 被災地に入っていた数日はほとんどテレビを見る機会
も無かったので、その時に行われた女子サッカーW杯
で日本が優勝した熱気は、かすかにニュースで知った
程度だった。
 岩手県住田町の旅館に泊まった際に近くの居酒屋で
食事をしていたら、数名いた客が帰り始めた。店の奥様

「深夜の3時半から、なでしこJAPANの決勝があるから
 皆、今日は早めに帰宅して先に寝るみたいですよ。」
とぽつりと言っていた。
 全国津々浦々、この日は多くの人々が深夜の生中継
を見るために早めの睡眠を取って夜中に起床したようだ。

 後日、編集されて流れるニュースでの映像を見て今更
のごとく喜び、その快挙を祝福したいお祭り気分になった。
特に延長後半に米国に同点に追い付いた、コーナーキック
からの澤選手の足技は男子サッカーでもあのような展開
であのような芸当はほとんど出ないだろう、というような高
度な一瞬の芸当であった。
 気持ちで、研ぎ澄まされた集中力で、ゴールへの執着心
で生んだ奇跡のゴールだったように見えた。

 W杯や五輪での優勝は国民に勇気を与え鼓舞するもの
がある。この十数年で日本選手も世界の舞台に慣れ普段
着の感覚で平常心のまま実力を発揮するようになってきた
ように思える。また時に平素の実力以上のプレーをする選
手も出るようになってきている。
 世界一、実に響きの良い言葉だ。
 一昔前の日本選手は世界の舞台に出ると硬直して過度
な緊張とプレッシャー、悲壮感から自滅したり潰れてしまう
例が多かったが、大舞台に場馴れした最近の日本選手は
従来の日本選手の越えられなかった壁を破り、自然体で
結果を出している例が増えた。

 世界一になった事例を振り返ってみると、
・2011年女子サッカーW杯 なでしこJAPAN
・WBC(世界野球)日本2連覇
    ※イチロー選手の決勝センター前ヒットは忘れない
・北京五輪 女子ソフトボール金メダル
・アテネ五輪 女子マラソン 野口みずき選手金メダル
・水泳 北島康介選手 金メダル
・シドニー五輪 女子マラソン 高橋尚子選手 金メダル
・1991年世界陸上東京 男子マラソン 谷口浩美選手 金メダル

 等が金字塔として思い浮かぶ。
 男女柔道もかねてから五輪金メダルを獲得しており、世界
で勝てる日本選手の雄姿はいつまでも人々の心に残る。
 歴史の浅さや従来の戦跡から見て、今回の女子サッカーの
W杯優勝は良い意味で意外であり、国民にとって重量級の喜
びとなった。
 今後、更に進化したアスリートが出現して各種目、各競技で
従来の日本人選手の壁を乗り越えて世界で花開く事例が出る
事を楽しみにしておきたい。  

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被災地を訪れて(3)

2011-07-21 15:45:13 | インポート
 宮古湾には推定40メートル級の大津波が押し寄せ
たが、幸いにも宮古市の中心市街地から逸れた為に
宮古市は潰滅から免れていた。大津波は市街地から
南へ数十キロ離れた地域に押し寄せて集落を破壊し
ていた。
 市街地から車で海岸線沿いに出ると風景が一変し
て津波で破壊された家屋や水産加工場が無残な骸
のような姿となってねじ曲がった状態で瓦礫と化して
いた。ことごとく海岸線や沿岸部一帯は津波でやられ
ている。青森県から東京湾に至る太平洋側はことごと
く潰滅し灰燼に帰し、瓦礫の山を築き、津波で人々が
さらわれてしまった。これほどの広範囲に及ぶ激甚な
被害は日本国が建国されて以来、恐らく初めての事
ではないか。
 その被害の甚大さに車を走らせていて戦慄が走る。

 仙台から気仙沼経由で陸前高田、そして釜石から
大槌町、山田町、宮古市へと車で走ってきたがこの
潰滅状態は果てしなく大船渡、女川町、雄鹿半島か
ら南三陸、石巻、更に南へ太平洋岸に陸続と連なって
いる。私は車を走らせながら広大な壊滅した跡を見る
につき、公表されている犠牲者1万4000人強、行方
不明者7000人強の人数よりも実態は大幅に上回る
犠牲者がいるのではないか、と感じた。
 行方不明者7000人というのは行方不明だと確定
している人々で7000人であるから、行方不明にな
っているかすら分かっていない人々の総数を合わせ
れば犠牲者数は膨大な数になるのではないか。
 これほどの長大で広大な潰滅した跡を見て、この被害
で犠牲者が2万人強で収まっている筈がないのではな
いかとさへ皮膚感覚で感じ始めたのである。
 壮絶である。

 浄土ヶ浜を歩いた。
 美しくも寂しげな海面を見せる三陸の海の景勝地でこ
の三陸海岸一帯は180Kmに及ぶ国立公園に指定さ
れている。極楽浄土を想像させることから浄土ヶ浜と時の
僧侶が名付けたそうだが、他の地域の例外に漏れずこ
の浄土ヶ浜も津波に襲われ遊歩道は破壊され、痕跡が
生々しくショベルカー2台が復旧作業に当たっていた。

 途中の傾いた家屋や鉄骨だけを残して廃墟となってい
る建物には「解体してください」とペンキで書かれている
ものがあるのと同時に、「解体しないでください」と書かれ
てある廃墟まであった。長年の家族の愛着があるからか
所有権の問題なのか、誰が見ても危険だから解体した方
が良いと思える廃墟にまたリフォームでもして住むつもり
なのだろうか。破壊されつくした広大な地域の復興計画
をどのように描くのか、大所高所からの決断が無ければ
この激甚な被害を受けての復旧復興はおぼつかない。
 信号機も時折、津波にやられたままで点灯していない
箇所が目についた。瓦礫の処理も場所や地点によって
処理の格差が目立つ。

 広大な瓦礫と廃墟と爪痕を前にして私は携帯電話から
ある市の瓦礫処理担当部署に尋ねてみた。瓦礫の処理
の妨げになっている原因は何なのか、何が支障になって
いるのかと。
 最初は警戒して建前を述べていた担当者も次第に本音
を話すようになり、以下の見解を述べた。

*市や岩手県でできる範囲の事は自治体でやることにな
 っている。
  ※しかし自治体で対応する被害の範囲を超越している
   ではないか、と私が尋ねると・・・
  →早く国が動いて対応して欲しいと答えた。
*福島原発の問題が深刻な為に自衛隊の主力の大部分
  が福島方面に行っており、その他の被災地に戦力を回
  せない。
*解体業者、運搬業者自体も多くが津波でやられている。
*所有権を主張される方がいて撤去に難儀している。
*政治の混乱で国が決定できない状態が続いている。
 一刻も早く国が決断して動いて欲しい。
  ※国のどこが動くべきかと私が更に尋ねると・・・
  →復興担当大臣等で迅速に対応して欲しい。省庁は
   縦割りで結局、動けていない。省庁横断的な迅速な
   意思決定と対応をして欲しいと答えた。
  ※これほどの激甚で甚大な瓦礫と廃墟はもはや自治体
   の能力や容量を超えているので自衛隊に前面に出て
   もらい処理してもらうべきではと私が尋ねると・・・
  →今まで自衛隊には食糧支援から遺体の捜索、搬送
   等で随分とお世話になったから今更まだ自衛隊にお願
   いするのは遠慮してしまう、と答えた。
*国会議員が現地視察に来たけれど、あの視察は一体何
 だったのかという思いになる事が多い。東京に戻れば国会
 議員の方々は視察した事を忘れているのではないか。


 自治体で日々、瓦礫の対応に従事している方の本音を
聞きだして問題点の幾つかが浮き上がってきた。
 日本の歴史上、初とも言える広範囲な激甚被害である。
 超法規的措置で国が決断、断行していく他はない。
 日本は法治国家とはいえ、法が想定しなかったような
現状の諸制度では適応できない程の大災害により広範囲
の地域や自治体が藻屑とされ廃墟と化したのである。
 超法規的措置とは新たな法の提案と成立を待つまでも
なく、法には無いことでも現実に必要な処置、現実に求めら
れている決断と行動を行うことである。法がなくてもこの修羅
場で求められている事に適切な行動を取る、これが超法規的
措置ではなかろうか。
 瓦礫の撤去、衛生面の対処、上下水道の復旧等は自衛隊
を主力に全面的に大展開させる事が求められている。
 もはや戦場跡の処理に匹敵する被害を現実に目の前にし
て自衛隊以外の最適な戦力は思い浮かばない。

 時折、対向車線をすれ違う自衛隊車両や各都道府県警察
の車両が未だに非常事態下にある事を体感させる。
 ある交差点では兵庫県警が津波で機能しない信号を前に
手信号で交通整理をしており、また陸前高田の海水が浸水
して池のように溜まった場所では富山県警が潜水服で遺体
の捜索を行っていた。
 まだまだ被害の爪痕は大きく、息の長い取り組みが求めら
れる事が感じられた。

 私も本当は1週間から10日程被災地に入りもっと現地の
状況を把握し、ボランティアも行いたいのだが翌日に委員会
が開催される為に3日間で被災地を後にする。それがやや
残念である。
 また別の機会を設けて被災地に入りたい。
 宮古市から内陸方面に進路を取り、遠野、江刺、水沢、
北上、一関を経て東北自動車道から仙台に戻りレンタカー
を返却した。
 48時間での走行距離は596キロになっていた。
 仙台駅前のホテルで少し休憩した後、新幹線で東京へ
そして乗り換えて大阪へと帰路についた。

 大型台風が接近中とのことで米原付近で強風のため
新幹線が緊急停車した。翌日の委員会への出席が一瞬
危ぶまれたが、徐行運転で運転再開し、30分遅れで大阪
に帰着した。

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被災地を訪れて(2)

2011-07-19 16:46:03 | インポート
 2日目の昨日は住田町の旅館を9時前に出て気仙川
沿いに再び陸前高田に向かった。気仙川は美しい清流
で車を止めるとただ清流のせせらぎの音だけが響き美し
い山村の風景である。
 陸前高田市街地跡に向かう途中の気仙川沿いに仮設
の状態で陸前高田市災害ボランティアセンターが設けら
れていたので、そこを訪れた。視察兼ボランティア、ボラン
ティア兼視察で訪れたので可能な限り何かできればと
思ったのである。

 突然来ても受け入れ可能かどうかを確認し大丈夫との
ことだったので河川敷に設けられた仮駐車場でスーツか
ら作業ができる姿に着替えてから受付を済ませて中に入
り、必要な登録を行った。各現地から寄せられたニーズ
と照合し、ニーズ受付票をもらって求められている作業内
容を確認した。
 今回は陸前高田の市街地跡から南西に広田湾に伸びた
半島にある前花貝という地区の被害を受けた家屋から泥出し
、リフォームのための壁剥がしをして欲しいとのことだった。
 スコップ、土嚢袋、一輪車を災害ボランティアセンターで借り
てレンタカーに積み込み、依頼者の住所をカーナビに入力し
て即座に現地に向かった。

 昨日の夕暮れに歩いた陸前高田の中心市街地跡は想像
していたよりも瓦礫が撤去されていたが、本日、海岸沿いを
走る車から見る光景は4ヶ月が経過しても尚、まるで昨日津
波が襲ったかのような痛々しい痕跡を残していた。スクラップ
状態に流れ着いた車の数々が四方に散在し、藻屑となった
各所の生活の営みが全て瓦礫となって山のように堆積して
いる。至る所に海水が浸水したままで沼沢のようになっており
そのまま海水が引いていない。半島の反対側の大野湾沿い
には未だに流された家屋の屋根が漂流していた。
 途中で警視庁や消防局の方々がまだどこかに眠っている
かもしれない遺体の捜索にあたっていた。ハンドルを握りなが
ら胸が痛んだ。

 依頼された現地に着くと周辺は津波に流された痕跡があり
潮をかぶった山林が一部立ち枯れて、生臭い磯のような臭気
が鼻をついた。各所と同じくこの地区も至る所に瓦礫が山に
なっており、鉄塊となった誰のものとも知れない車がそのまま
無残な姿を晒していた。
 依頼者の家屋は屋根をブルーシートで覆い、津波で傷んだ
床板や壁を張り替えてリフォームして住み直す模様であった。
 1階では既に「陸前高田」というチョッキを着た作業員が床板
を剥がして流れ込んだ泥を搬出して床の掃除を行っていた。
私は2階にあがり傷んだ壁を剥ぎ取って土嚢袋に詰めて搬出
する作業に着手、愛知県から来たという男性2人組と共に作業
を行った。作業時間は約3時間である。想像以上に壁を剥ぐだ
けで時間を食う。まるで大掃除をする際に予想より時間や手間
がかかるような、しかしその比ではない。皆、一生懸命に作業
しているがその作業の進展度合いは全体が余りにも膨大すぎる
ために遅遅として限られてしまう。まるで一つの山を小さじで
すくっているかのような、或いは大規模な山火事に上から鳥が
口にくわえたスプーンで水をかけているかのような、そのような
途方に暮れる思いにかられた。

 作業を終えて大野湾に面した広田海水浴場から周囲の地区
を見渡せば、あちらこちらが津波にさらわれた爪痕を残し傷んだ
家屋がブルーシ-トを屋根にかけて点在している。
 つい先程まで私が3時間作業した依頼者の家屋は眼前に
広がる痛々しい風景の一つの点に過ぎない。この一つの点の中
にどれほどの人数が作業に入り、またボランティアが入り作業を
したかと思うと、僅かな一つの点ですらこれほどに労力と時間が
かかるその現実に途方もない思いに駆られたのである。
 報道では震災から4ヶ月も経過して何故、瓦礫がそのまま放置
されているのかと批判調子で叫んでいるが、私は自分が作業をし
たこの一つの点が青森から東京湾に至る太平洋沿いの長大な
距離の、しかも全て海岸から10キロ程の地帯はことごとく津波に
襲われた途方もない被害の痕跡の中の一つの点に過ぎないと
体感した時、報道されている論調は的外れだと感じた。
 余りにも無尽蔵な程に太平洋沿いの東日本の沿岸地区全体が
生活ごと藻屑とされ、時には市街地そのものが一瞬で瓦礫となっ
た、その量が余りにも膨大で、そして陸続と続いてるために一向に
作業が追いつかないのである。
 加えて瓦礫を撤去する筈の業者の多くも津波で被害を受けてい
る事を被災地外にいる人はつい忘れがちではないだろうか。自衛官
、警察、消防、病院機能や医師、看護師も多くが被害を受けている。
 街が生活圏が消えるという事はかくの如しなのだと痛感した。

 私が作業に従事したあたりはハエが多かった。以前に宮城県の
牡鹿半島に入った議員もハエの異常発生を指摘していた。東日本
の被災した一帯で衛生上の問題が懸念される。上水道、下水道と
いう衛生ラインが非常事態にはいかに重要であるかを改めて感じた。

 ボランティアを終えて借りた資材を返却して、今度は釜石経由で
大槌町に向かった。釜石も例外にもれず津波の被害が甚大で各所
に瓦礫と基礎だけ残して流された生活圏の喪失が痛々しいまでで
あった。陸前高田は晴れて日差しがきつい程だったが釜石辺りから
霧雨状態になった。夕暮れに大槌町に入ったがその甚大な被害の
痕跡に思わず絶句した。
 陸前高田は4ヶ月が経過した中である程度は中心市街地跡は瓦礫
も撤去されていたが、大槌町は中心市街地跡が震災と津波当時の
ままに無残な惨い姿のままで廃墟がたたずんでいた。流れ残った
傾いたり砕けている建物は多くが激しく燃えた焦げた痕跡があり、
壮絶な状態を晒していた。一瞬にしてここでも人々の長年積み上げて
きた伝統や生活圏が消滅したという、言語に尽くし難い現実が人々の
無念と共に展開していた。
 太平洋に面した一帯はほぼ、全域に渡って津波に襲われている。

 日没近くになったので宮古市内に宿を予約し、山田町を北上して
路を急いだ。宮古は推定で40メートルの津波が襲ったようであり、
宮古市内に入る直前の防波堤はことごとく津波に乗り越えられて
例外にもれず瓦礫と化したり痛々しい痕跡を残していた。
 19時過ぎに宮古市内のホテルに入って2日目を終えた。
 宮古市の中心市街地は小さな津波は来たようだが、甚大な被害は
見る限り受けていないようであった。

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