木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

議員五年目で三人目の市長

2007-10-31 21:53:42 | インポート
 今回の東大阪市長選挙に対して、私はノーサイドを貫
いた。どの陣営にも与せず全てを有権者の判断に委ねる
ことに徹した。
 私は東大阪市議会議員の二期目に入ったばかりで、議
員として通算五年目に入ったばかりである。この間に東
大阪市長が三名も入れ替わった。任期満了による市長選
挙で共産党市長が返り咲き、その市長に対する不信任決
議案が可決され、保守の市長が誕生した。それにしても
慌しい。

 五十一万人の中核市にとって、必要なのは政争や紛糾
ではなく、山積された課題への着手と健全な政策提案と
開かれた場所における開かれた方法での議論と結論、そ
して実践である。いくら祭り好きな地域性とは言え、市
長選挙は頻繁に行うものではない。
 市長選挙に要する経費は約一億二千万円である。街中
に設置される掲示板、関連の諸道具、人員配置等で最低
限要する費用であるが、この予算が確保できることで着
手できる物事も少なからずあることを思えば、喜ぶのは
印刷業者や選挙に関連する道具を販売する業者、関連し
て出入りする業者ではあっても市民の税金を使って行わ
れる選挙の実態を思えば、いかに政争から生まれる選挙
というものが無駄な動きであるかということが分かる。

 一般論として政治は「保守」と「革新」という対比で
枠付けされた見方をすることが多いが、私は疑問である。
私は物事には是々非々で臨み、「保守」という表現より
は、「正統派」「正道」というスタンスでありたいと思
う。

 権力というものは不思議である。国の権力、自治体の
ような枠組みの中における権力と色々とその姿は多用だ
が、それに擦り寄る者、それに怯える者、それに目がく
らむ者、それをかさに着る者、それを利用する者など枚
挙に暇がない。一度しかない人生の価値観の中で、人々
は何を手にしようとしているのか。人生の中で手にした
いものは権力だという人も存在するが、どこか虚しい。
 人生の中で手にしたいもの、それが何であるかによっ
て、その人の生き方が定まってくると私は思う。

 さて、京都は古来より権力の栄枯盛衰が常に行われ、
人々も身近に権力を見てきたこともあってか、歴史の
時間の中で権力との距離のとり方が絶妙である。権力
に媚びず、権力を避けず、逃げず、粛々と物事を営ん
でいく様は京都ならではの風であろう。
 その風(ふう)がいい。

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一年ぶりの市長選

2007-10-28 20:07:49 | インポート
 東大阪市長選挙が行われた。今回の市長選は任期満
了によるものではなく先の九月三日の市議会において
市長に対する不信任決議案が多数決で可決され、当時
の市長が失職を選んだことによる。
 東大阪市の民主党は独自の候補者を擁立することが
時間的に間に合わなかったために自主投票ということ
になった。

 自主投票ということは、今回は三名の候補者が出馬
をしたので以下の四つの選択肢になる。
一)A候補を応援する
二)B候補を応援する
三)C候補を応援する
四)どの候補者も応援しない

 上記の四つの選択肢のうち、私はどの候補者も応援
しないという選択肢を選んだ。有権者がどのように判
断するか、有権者がどのような選択肢を選ぶか、有権
者が今回の市長選挙をどのように判断するか、私は私
のほうから「この候補者を頼む」という働きかけは一
切しないで、全てを有権者の判断に委ねたいという姿
勢を取った。
 有権者にも上記の四つの選択肢しか無い訳だが、人
口五十一万人の中核市の市民の選択の結果として新市
長が決まるが、有権者は権利をどのように行使して選
択をするか、ということになる。

 私は共産党を応援することはしない。しかし九月三
日の市長不信任案には、市民に説明のつく正当な理由
がないと判断し議場で反対の票を投じた。不信任案を
つきつけるには、それに相当する正当な理由と大義名
分が無ければ事は立たず、市長が共産党という理由だ
けで議会が提示しうる最も重い決議案である「辞めな
さい」という不信任決議案には到底乗ることができな
かったのが私の判断であった。

 私は大義の無い戦はしない。
 戦が始まるから戦をする、周囲が戦をするから戦に
乗る、戦になるから戦をすることはしない。戦には大
義名分が必要である。
 また、そろそろ議会も議会の内を向いた視点での権
力闘争を脱しなければならない。議会の中の温度と議
会の外との温度差が余りにも大きかった事が今回の市
長選を巡る一連の動きであった。
 物事は有権者に開かれた場所で、開かれた方法でフ
ェアに行われなければならない。いつの間にか一部の
人達だけの論理と都合で、かつ内向きな視点で有権者
に知らせない事を前提にして物事を決めていくという
筋書きは通用しない時代になっている。

 動かざること山の如し。
 大義無き時は、私は断じて動かない。

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時間軸と政治家

2007-10-24 13:02:29 | インポート
生産的な時間を持ちたいと思うし、持つことを模索し
たい。今、例えばまとまって一週間なりの時間を確保で
きたなら、私は北方領土の視察に行きたい。かつて北海
道の東部の沿岸をそぞろ歩き北方領土の島影を間近に見
ながら現地の空気に触れたのも久しく前のことになる。

私も政治家のはしくれだと自覚したいから、なお、政治
家なら各地をほっつき歩かなくてはならない、そうしな
ければ視野が狭まり本質に辿り着けないと思うのである。

連日せわしく何かが入る。行事や所用が入る。これは市
議会議員も国会議員も問わず、皆共通しているが、それ
故に物事に深く着手する時間を持てず結果として慌ただ
しく駆け回っただけの例えば十年を過ごすだけで、何も
辿り着けないという危険性もはらんでいる。

例えば一週間まとめて時間をとる勇気をもとう。一週間
あれば相当な事ができる。しかし現代社会は一週間の時
間を許さない風潮にある。ために一週間を惜しんで、動
作としてのせわしい日々を重ねて結果として十年がたち、
一週間分の密度もない時間を重ねていくということの何
と多いことか。

一週間を惜しんで何も成せない十年を幾つも重ねるのか、
年に数回、思い切って一週間まとめて時間を取り何かを
成すか。時間軸に対する価値観はその人や時代の視点に
より随分と変わってくる。

例えば一週間、山間地の林業の家に寝泊まりして山仕事
や日常を現地の人々と共に過ごす。急ぎ足で視察するよ
りも、また官僚が役所仕事としてデスクワークで認識す
るよりも遥かに本質に至る。そういう一週間を何度か重
ねれば十年で相当な蓄積になる。まとまりのない、ただ
せわしいだけの繰り返しで過ごす十年とは雲泥の差が生
じてくる。
各地の農業についても同様のことが言える。

時間軸を考える時に、私はこの感覚を大切にしたい。政
治家には、ほっつき歩くことが極めて重要で今風の言葉
で言えばフィールドワークである。

時間軸の中で本質を掴むためにほっつき歩くことが、や
がては時空を超えた視野と視界に至り、本質と本質の重
なる合間に浮き上がる鍵穴を見出すことになると私は感
じている。

政治家なら過去にも未来にも時空を超えることができる
か、私はそういうことにロマンを求めている。

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近畿の屋根にて

2007-10-20 22:57:19 | インポート
富士山を見たい、と思った。
それで先日、車を走らせて近畿の屋根と言われる大台ヶ
原に向かった。関東方面の人々には信じてもらえないだ
ろうが、奈良県南部にある近畿地方の最高峰の大台ヶ原
のある場所から空気が澄んで天気が良ければ富士山が小
さくも遠くに肉眼でも見えるのである。
富士山の見える西の限界地点である。

その日は、晴れではあったが東方に雲が厚く富士山を見
ることは叶わなかった。富士山を見たいなら静岡か山梨
方面に行けばいいではないかと思う人もいるだろうが、
いつでも見える地点から見ても面白くない。遠く西に離
れた近畿地方の最高峰の場所から見るからこそ醍醐味が
あるのである。

数年ぶりに訪れた大台ヶ原である。スーツ姿のまま原生
林の茂る山道を歩くこと片道2キロ、大蛇くらと呼ばれ
る断崖絶壁に立った。「くら」というのは断崖の岩場を指
すもので、野生の鹿の跳ねる姿や野鳥が木々をつつく音
の中、あまりに雄大な深山幽谷の風景を前に高所にすく
む足ではあったが、見はるかす山々の深遠なる眺めに深
呼吸した。周囲に人はなく、刻一刻と彩りを変えていく
夕刻の空と色彩豊かに染まりゆく連なる山々、遠くに霞
む谷に吹き上げてくる霧は神々しい光景であった。
時にこのような場所に立つと体の芯から力が湧いてくる。

標高の高い地点や山々の天候は変わりやすく、また秋の
つるべ落としと言われるように日没後の闇の訪れも早い
ので原生林に囲まれた山道を帰り急いだ。

原生林の中で何度も野生の鹿に遭遇した。奈良公園や厳
島の鹿とは違い、野に生きる野生の鹿のたくましさよ。
馬の蹄のような音を高らかに鳴らせながら跳ねるように
野を駆けていく。まるで笛のような変幻自在な鳴き声を
鳴らせながら、凛々しい雄鹿が群れを率いていく。
また時に遠くに合図を送るように、熊笹の中から多様な
鳴き声を発していく。

明らかに鹿にも人間の言葉に相当するものがあることを
体感した場面があった。ある開けた場所に出た時に、約
十頭の鹿が身を寄せ合って何かをしていたが、私が視界
に現れるや否や一頭がまるで号令のように大きくしかし
短く合図の笛のように鳴いたかと思ったその刹那、全て
の鹿が同時に一瞬にして八方に散っていった。その陣形
の見事さは凛々しい武将を彷彿とさせるものである。

富士山の代わりに良いものを見た。

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北方の息吹(八十)

2007-10-18 23:38:22 | インポート
 (引用続き)
 ロシアから樺太の半分を奪取し、かつロシアにポーツ
 マス平和条約の苛酷な掠奪的条件を押付けたことを想
 起させる必要がありましょう。これらの行動によって
 日本は一八五五年および一八七五年にロシアとの間に
 締結した諸条約を破りこれによりこれらの条約を引き
 合いに出す権利を自ら失ったのであります。
 また二〇年代の初め日本は一九〇五年の条約を破り、
 再びロシアへ侵入し北樺太およびソヴィエト領極東
 を占領し、これらを掠奪しました。

 日本側によるソ連との平和条約締結の引延しは、当然
 日本政府の企図についてソヴィエト人に警戒的な気持
 ちを起こさせないわけには行きません。もし国家が国
 家間の平和と友好を希求するならば、平和条約を調印
 しない理由はありえないのであります。

 私は貴総理に対し、ソ連政府としては、貴我両国民の
 ために世界平和の強化のためにソ連邦と日本との間の
 関係を改善すべく今後ともあらゆる努力を傾けるべき
 ことを確信します。
 (以上、引用を終える)

 フルシチョフ首相の書簡は、フルシチョフ本人の所見
なのか当時のソビエトの官僚がそう言わせたのか或いは
また別の背景が生む理屈なのか、自らを正当化する為に
は相手を侵略者であるかのように定義し、いかなる理屈
をもってしても論難するという特性が見られる。
 日本がウルップ島以北の十八の島々の権利を放棄した
がそれは具体的にどこの国に対して譲渡するという趣旨
ではなかったが、ソビエトはそれを以って、ならば日本
はスペインやポルトガルにでも千島列島が帰属すること
を望んでいるのかとする理屈は理屈としても成立しない
粗末な展開であろう。

 書簡に見るに、ソビエトの指す領土とは即ち自国に敵
対する軍事基地としての用途にしかあらず、基地を作ら
せる作らせないという視点で、かつ日本の背後にある米
国を牽制するための手法に過ぎないことが浮かび上がっ
てくる。
 ソビエトの表現する世界平和とは、自らが定めた仮想
敵国がすべてソビエトの行為を認め、正当化することに
賛同し、ソビエトの方針に従うことを以って平和とする
ように感じられてならない。

 そもそもこの島々にはソビエトが誕生する以前の頃よ
り人々が暮らしていたのである。先住民族、北方民族の
歴史事実も今後の鍵を握っている。

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