木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

故郷は故郷のままでそっとしておきたい

2016-05-30 23:40:31 | インポート
 時々、故郷の広島県竹原市で選挙に出ないのかと聞かれる。
 先日もある会議を終えた後に親身になっているお方から故郷で
選挙に出ないのかと聞かれた。
 故郷はお盆と正月、大型連休に帰省して静かに時間を過ごす
場所であり、選挙区にはしたくない。
 故郷は故郷のままそっとしておきたい、これが私の本心である。

 政治活動や選挙は今いる場所、つまり東大阪市や関西を中心
としたエリアで専念する。
 故郷は故郷のまま、時に帰省してリフレッシュする場所だという
認識でいる。
 私の事を応援してくれる人は故郷だからきっと選挙区として最高
の状態であるに違いないと思いがちなのであろうが、故郷の同級生
や先輩、後輩達は今や全国各地に散り散りになっており、また18歳
まで過ごした故郷は政治とは無関係な時期に政治とは無関な人間関
係であり、ここに政治スタンスや立ち位置が生じてくると地元に残ってい
る同級生や先輩後輩であっても敵味方に分かれるだろうし、利害が絡む
ようになれば友人でも味方とは限らなくなる。
 18歳までの時にしかいなかった故郷は、もしも転入すれば24年ぶり
となり選挙区としては限りなく落下傘候補に等しい。
 故郷を後にしていた24年間の歳月が18歳までに記憶している故郷の
人間関係とは大きく様変わりしているのが現実であり、また故郷にいたの
は利害やしがらみとは無縁の子供時代であるために、その後の長い人生
において同級生や先輩後輩も歩む道は皆それぞれ異なり、生活環境にも
違いが生じ、生活を重ねていく中で仕事の業界の事情を優先せざるを得な
くなり、選挙の世界では幼馴染というだけではそれで味方になるとは限らな
いからである。
 地域住民や親戚も巻き込むことになる、それが私は嫌なのである。
 もしも故郷を選挙区にしてしまうと故郷で静かに暮らしている両親をも選挙
のしがらみに巻き込んでしまうことになる、それが私は嫌なのである。

 記憶の中にある故郷の風景と政治風景とは相容れない。
 私は18歳で大学進学のために京都に単身で出てきて、以降は京都を主に
した関西で日々を過ごし、仕事関係で大阪で過ごしたために私の18歳以降の
人間関係は故郷よりも関西に基軸がある。
 従って私が政治活動を行う場所は関西なのである。
 関西では、特に今いる場所では、私という人間の政治スタンスや立ち位置、
信条等に触れた上で応援してくれる人々、協力してくれる人々、応援しない
人々、離れていく人々というように人間関係が構成されていくためにある意味
で仕事として、政治活動として割り切って人間関係に向き合える。
 つまり関西でのほうが政治活動を行いやすいのである。
 従って活動場所は関西でいいのである。
 故郷を選挙の戦場にしたくない。
 故郷は思い出のまま、幼少の頃のセピア色の楽しい思い出の風景のまま、
うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川、美しい永遠の海のまま、当時の彼女
と過ごした思い出のまま、そのようなままでお盆と正月、大型連休で帰省する
静かな場所でありたいのである。
 
 そういうことで、余計な心配や気遣いをしてくださる親身な方々に申し上げる
が、私の政治活動は関西が基軸である。
 時に東京でも活動を行う。
 故郷はいつまでも故郷のままでそっと置いておきたいのである。
 今は充電期間中。
 力を蓄えてしっかりと足腰を鍛えて、選挙という視野よりも人生をしっかりと
歩む、人生をしっかりと刻んでいくという視野で日々新たなりの気持ちで励み
たいものである。

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世間に疎い専門家も時にいる

2016-05-21 22:46:31 | インポート
 知識は豊富なのだが世間に疎い人がいる。
 何かの国家資格を持っているのだが、その国家資格に沿う知識
は備わっているのだが現実の世の中を知らない、世間知らず、融
通がきかない、そういうタイプの人に出会う時がある。

 10年程前、酒席が続いて私は倦怠感と疲労を覚えたので念のた
めにと現住所からは遠く離れた他府県の総合病院へ検診に訪れた
ことがあった。
 一通りの検査を終えて担当の医師の診察を受けるべく呼ばれた。
 私より少し年上の医師が私と向き合った。
 「うん、特にどこにも異常はありませんね。」
と医師は言うのだが、私は内臓が酒が続いたことで倦怠感があり
自分の感覚では少し腫れているような自覚があったので、体がだる
いとか胃がもたれるようにしんどい等々と自覚症状を説明した。
 しかしその医師はどこかポカンとした顔をしている。
 カルテに書きかかっている手が全く動かない。
「いや、ですからこう、酒が続きましてね、内臓が腫れた感じがして
だるいのですよ。ほら、こう。何というのですか、内側から引っ張られ
るように重くて、ほてるのですよ。」
と私が説明しても、その医師は何かキョトンとしていた。
 数値ではどこにも異常はないと説明されても、現実に自分の体が
とてつもなく気だるいのと内臓が疲れた感じだったので万が一にも
どこかに異常や支障がないかと私も念を入れて医師に説明をしたの
だが、その医師は何かポカンとしてカルテに全く何も記さない。
 10分程、一方的に私が説明していたのだが無反応で無表情のそ
の医師の姿に私は次第にある疑問を抱き始めて、ふと質問をした。
「先生、すいませんが常日頃、お酒を飲まれますか?」
その私の問いかけにその医師は得意気な表情を浮かべて
「いいえ。私はですねお酒が嫌いですので全くお酒は飲みません。」
と答えた。
 その瞬間、私はその医師が何故、私の説明に無反応だったのか
カルテに記入する手が止まったまま動かなかったのか理解した。
 その医師はお酒を飲まないために、酒を飲み続けることによる体の
違和感や不調、酒で体調を崩すという体感が理解できないのである。
 従って検査で出た各数値のみを見て、それだけで判断していたので
あり内臓がだるいとか、体が気だるいという私の説明は言葉の意味とし
ては通じても自分の体感にまで落ちてこないために無表情になりポカン
としたままであったのである。
 数値ではどこにも異常がないというのだから、これ以上は会話しても
無駄だと感じた私はたまにはお酒でも飲んでくださいと言い残して診察室
を後にしたことを思い出す。

 また以前に、車線変更をしようとして右にハンドルを切ろうとした瞬間に
同じく左に車線変更をしようとした車が左にハンドルを切ってきて漢字の
「人」の文字のような形で車同士が接触事故になった人に同席をしてある
弁護士に過失割合の相談に訪れた時のことである。
「こういうふうに運転していてハンドルを切ると、いきなり相手がこちらの
角度から突っ込んできたのです。」
と説明する同席した方の話をじっとその弁護士は聞いていた。
「ですからバックミラーを見ても大丈夫、サイドミラーを見ても大丈夫、そし
て目視で右横を見ても大丈夫だったのでハンドルを右に切ったのです。
そうしたらいきなり死角から車が左にハンドルを切ってきて・・・・・こう・・・。」
とその方が説明するのだが、その弁護士は何か無反応であった。
 やがてその弁護士が車のおもちゃを2つ持ち出してきて
「こういうことですか?こういうふうに走っていたら、こっちがこう出てきて。」
と確認しているのだが、説明しているその方は
「いやいや違います。そうではなくてこう運転していたらこういう視野になる
でしょう、だからバックミラーで確認してサイドミラーで確認して横を見て、
そしてハンドルを右に切ったら・・・・。」
と何度も説明しているのだが、その弁護士はなかなか腑に落ちないような
状況だった。
 次第に説明している方の語気も荒くなっていく。
「いやいや、そういう意味ではなくて、こう運転していたんですよ、こう。
そうしたら相手がこう来たわけですよ。」
と何度も語気を荒げながらその方は説明を繰り返すのだが、その弁護士が
何度も2つの車のおもちゃを手にして、こうかな、こういう感じかな、すると
こういうことかな、等と腑に落ちないことをブツブツ言っているので私はふと
疑問に感じてその弁護士に尋ねてみた。
「先生、日常で車を運転していますか?」
そう尋ねた私の問いかけにその弁護士はすまし顔で
「いえ、私は車の免許証を持っていませんから運転なんかしませんよ。」
という信じられない返事を返してきた。
 車の免許証を持っていない弁護士が交通事故で相談者が運転状況を
身振り手振りでいくら白熱の説明をしても、車を自分で運転したことがない
弁護士が状況や感覚、ましてや死角の問題や状況が分かるはずがない
と私は愕然としたものである。

 世間は弁護士と聞くだけでその人を万能だと思いがちであるが、弁護士
でもそれぞれに得手不得手の分野があり、得意分野もあれば疎い分野も
ある。ましてや自分が経験していない日常の場面や体感もあり、時に相談
者の説明に自分の体感が伴わないためにちぐはぐな対応になる事もある
という事を私は体感した。
 医師も同様にそのような状況になる時もある。
 私はその方に損害保険会社を通じて弁護士を他の弁護士に交代したほ
うが良いと述べたことを思い出す。
 知識は多いのだが世間に疎いというのか、自身に日常の中でそのような
体験が欠落している専門家の、ふとしたやり取りの中で感じた姿を思い出し
少し述べてみた。

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今の時代の曲が失っているもの

2016-05-16 23:36:05 | インポート
 1960年代の曲を聴いてみると今の時代の曲にはない情緒や
情景が伴う世界がある事に気付く。
 歌詞も綺麗でメロディーやサウンド、コーラス、ハーモニーも美
しい。そして人生を歌った曲や人生の中の情景や抒情的な内容
やその時代や世代の世界観のようなものがとてもよく滲んでいて
曲を聴いているうちに人生風景が浮き上がってくるような曲が多い。
 残念ながら今の時代の曲の多くが失ったもの、見失っている姿
が1960年代の曲にはある。
 今の時代の曲は多くが電子音や雑音のようになっていて曲から
情緒が失われている。

 ザ・タイガースの映像を動画で観ると、当時の20代の5人のメン
バーの醸し出す雰囲気や姿は、今の時代の20代の同世代の歌手
やグループに比べて随分と大人に見えるし、何よりステージそのもの
が比較にならないくらいに素晴らしい。
 ザ・タイガースの曲は私の心の琴線に触れる。
 そしてザ・タイガースの当時の雰囲気と曲を耳が知ってしまった後で
今の時代の歌手の曲を聴きたいという動機は生じなくなる。
 例えて言えば大人と子供のような開きが感じられる。
 動画で探しているとザ・タイガースの曲で「白夜の騎士」「散りゆく青春」
「出発のほかに何がある」を見つけ出した。
 歌詞も綺麗で情景が浮かんでくる良い曲で、特に「出発のほかに何がある」
はとても美しい曲である。
 歌詞の中に「希望という名の荷物を持って ああ何がある出発のほかに」
というフレーズがあるが、曲を聴いているうちに私が18歳の時に大学進学
で故郷の広島県竹原市から京都へまさに旅立つという、あの頃の心境と重ね
合わせて故郷の竹原駅の改札口とホームの情景が思い起こされた。

 今は曲から情緒が失われて抒情的な風景を見失っていると懸念されてならない。
 今の時代の曲の多くは自分本位の曲というのか、ただ自分の思いを歌ったもの
ばかりで、そこから広がる風景や人生観、人生の風景や世界観が欠落したものが
多いように感じて、1960年代の曲を耳が知ってしまい身体が覚えた以上、もはや
聴くに堪えれない。
 また小学校や中学校の音楽の授業から我が国の唱歌が次々と消えている。
 一昔前なら誰もが口ずさんだ唱歌の多くを今の小中学生は教えられていない
ために歌えないし知らない事態が生じている。
 その代わりに今流行りの曲やヒップホップダンスのごとき内容を唱歌の代わり
に学校の授業で教えるようになっており、何かが違うと懸念を感じるのである。
 総じて言える事は、歌い継がれてきた良き唱歌が失われ、また様々な曲から
もかつては大人が抱いていた、または大人になるにつれて抱いていく情緒という
ものが姿を消しつつあるという光景が広がり、違和感や物足りなさを感じている。

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永遠のジュリー

2016-05-10 23:12:25 | インポート
 前回の投稿の続きとして、近年のザ・タイガースの復活ライブの動画
を見た際に、70歳近い沢田研二が全盛時代の声と何ら遜色なく声も全く
衰えないで歌う姿を見て、若い頃のメンバーの姿の動画を見た魅力だけ
でなく、老境にさしかかった沢田研二の姿に本物の凄さを見たようで、ジュリー
と世の女性陣から慕われた沢田研二の全盛時代を現在進行形として知ら
ない世代の私は一瞬で沢田研二を好きになったのだが、沢田研二はテレビ
に出ていないだけで毎年レコーディングも行い、ライブツアーも精力的に
行い続けているとのご意見を頂き、ずっと現役でい続けたのだという事を
改めて知った。
 第一線から去って随分と長い歳月が経過しているものと思っていた私だ
ったが、沢田研二はその後もずっと現役で活動していた事を知り更に感じ
行った。ザ・タイガースが1960年代に5年間の活動の後に解散した以降
は沢田研二としてソロ活動を行っていたことまでは知っていたが、いつしか
第一線を去ったものだとばかり思っていた。
 メディアに出ることはせず、50年間も毎年レコーディングを行い、ツアー
活動も行ってきたというのだから更に凄いと感じる。
 ずっと歌い続けてきた、ずっと活動を続けてきたからこそ、ザ・タイガース
復活ライブのステージ上でも全盛時代さながらの歌声と声量が披露できる
のだと分かった。
 50年間も毎年欠かすことなくレコーディングを行いライブツアーを行ってい
るミュージシャンはなかなか存在しないだろう。

 今より娯楽が少なかった1960年代という時代、人々に憧れや夢を提供
する存在はまさにスターだった。
 テレビ画面の中で憧れの存在として輝き、夢や憧れを与え、実際にライブ
を観に行った人々にはステージ上で心を惹きつける。
 どの時代にもアイドルやスターと言われる存在はいるが、いつしか色褪せて
いき人々に飽きられる場合が少なくないものだが、沢田研二は今も色褪せて
いないし、20代の当時と今の70歳近い生の姿を披露してそれで本物だと感じ
させる、若い頃の動画を見た後に今の姿を見ても、また今の姿を見て沢田研二
を知って若い頃のザ・タイガース時代の姿を見てもそれぞれ共に魅力を感じる
本物の雰囲気を感じる。
 本物の存在がいる時代に居合わせた人々は幸せだろう。
 歌がうまいとか、技術がうまいという人達はそれなりにいるが、ああこの人は
本物だと感じさせる人はなかなかいないものである。

 またいずれザ・タイガースの復活ライブが行われる日を楽しみにしたい。
 色々な事情でメンバー全員が揃わないにしても沢田研二による今のステージ
でザ・タイガース時代の曲を歌うライブも行われるかも知れないがそういう日を
楽しみにしている。
 ザ・タイガースの全盛時代を現在進行形では知らない世代として、復活ライブ
を是非とも見てみたいものである。

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ザ・タイガース

2016-05-06 00:39:11 | インポート
 ある時、車を運転しながらザ・タイガースのベストアルバムCD
を聞き流した。
 とても新鮮に感じられた。
 私は1973年生まれで、ザ・タイガースが全盛時代だった60年
代にはまだこの世に生まれていないのだが、シンプルだが情景
の浮かぶ歌詞と心を掴むようなサウンド、メロディーに本能的に
良いなと感じ、いつしか何度もザ・タイガースのCDを聴くようにな
った。
 コーラスやハーモニーも美しい。

 60年代の曲もいいものだと感じるようになり、いつしか動画で
ザ・タイガースのステージを見るようになった。
 とても雰囲気がある。
 ザ・タイガースを知らない世代の私だが、時代をつくったグループ
というのは時代を超えて、世代を超えて何かのきっかけでふと目に
した時に、1つの時代をつくった存在だけが有している独特の空気を
纏っていることに気付く。
 動画でのザ・タイガースのメンバーは年齢にして20代だが顔つき
が大人であるように見えた。
 当時の写真も動画で流れているが、今の若者とどこか顔つきが違う。
 雰囲気が大人であり、かつ精悍な顔つきである。

 「花の首飾り」「廃墟の鳩」くらいは私もいつしか覚えていてカラオケ
でもよく歌ってきたが、ふとしたきっかけでザ・タイガースのその他の
曲も意識して聴くようになり、多くが良い曲だと感じるようになった。
 そして老境にさしかかる年代になったザ・タイガースが近年に復活
ライブをした時の動画を見た。
 ジュリー、ジュリーと世の女性陣を熱狂させていた沢田研二はすっかり
白髪になり体型も腹が出るなどして経年変化を感じさせたが、曲が始まっ
た次の瞬間、動画を見ていた私は驚いた。
 驚いたというよりも目を見張るものがあった。
 70歳前後になっている沢田研二の声が全盛時代のステージの頃と
ほとんど変わっていないのである。
 更に沢田研二の声量が大きく、若い頃の全盛時代と何ら遜色ない歌声
で他のメンバーと共に美しいハーモニーやコーラスを奏でている。
 画面を食い入るように見た私の身体を電気のようなものが走った。
 この人は本物だ、と感じた。
 ザ・タイガースを現在進行形として知らない世代の私は、沢田研二は
もっと軽いチャラチャラしたキャラクターかと勝手に思い込んでいたが、
老境にさしかかった自らの姿をありのままにステージで晒し、しかも若い
全盛時代の頃と何ら見劣りしない遜色ない声量と歌声を響かせているそ
の姿に感動すら覚え、一瞬にして沢田研二を好きになった。
 一線から引いてもう随分と長い年月が経過してる筈なのだが、この歳月
の間をどこかで歌い続けていたのだろう。人知れず発声練習も怠らず行って
いたのだろう。
 そうでなければ70歳前後になって年相応に経年変化した肉体や体型と
同じように声も衰えて声量も出なくなっていたであろう。
 今の姿で全盛時代と何ら変わらない歌声を披露している沢田研二の姿に
感じ入ったのである。
 「青い鳥」「銀河のロマンス」を歌った時には鳥肌が立った。

 私が生まれる前の時代に全盛時代を誇ったグループサウンドの存在を
42歳の私が今にして時代を超えて新鮮な認識として感じ入る。
 物事にはそのような一瞬があるということを感じている。
 私も70歳前後になった時には今の私が感じ入ったザ・タイガースのメンバー
のように、色々な人生の味を体に染み込ませたような魅力を発している姿に
なっていたいものである。

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