紀州新聞 THE KISYU SIMBUN ONLINE

和歌山県の御坊市と日高郡をカバーする地方紙「紀州新聞」のウェブサイトです。主要記事、バックナンバーなどを紹介。

八幡山城跡(御坊市)で発掘調査現地説明会 〈2024年6月25日〉

2024年06月25日 08時30分00秒 | 記事


柱穴、炉が見つかった付曲輪付近

横堀(写真下部)など城の構造を見学


 御坊市教育委員会は22日、藤田町吉田の八幡山城(別名・吉田城)跡で発掘調査現地説明会を開き、地元や市内外から約70人が参加した。南北朝時代初期の1346年に吉田の領主・吉田蔵人源頼秀が築いた山城で、二重に巡らせた横堀が見つかるなど当時の構造をそのまま遺す防御性に優れた山城だったことが推察されるといい、参加者は約680年前の時代に思いを馳せながら見学した。
 
 吉田氏は矢田荘の領主で土生城主逸見氏や日高川筋で50カ村を領していた和佐山崎城主川上氏と婚姻関係を結び、南朝方としてこの地を治めた。1379年に北朝軍の進攻により共に敗退するが、その間、頼秀、その三男吉田金毘羅丸源頼貞は逸見氏らと道成寺に梵鐘を寄進、屋根修理世話人など大檀那となった。
 子孫のヨシダエルシス(株)代表取締役会長の吉田擴氏(81)ら4人のきょうだいが私財を投じ、地元関係者でつくる八幡山城城跡整備事業委員会(吉田擴委員長)が城跡に展望公園や遊歩道を整備するのに伴い、市教委が城の内容や残存状況を把握するため、5月下旬から確認調査を実施している。
 城は八幡山東方「城ケ峰」(吉田八幡神社裏山)の丘にあり、規模は東西約70メートル、南北約50メートル。標高72メートルの頂上部に東西に長い楕円形の主郭(東西約30メートル、南北約20メートル)があり、北側に付曲輪を置き、周囲に同心円状に2段の帯曲輪(横堀)を巡らす。尾根続きとなる西側には鞍部(あんぶ)を利用した空堀を掘り、東西軸線上の曲輪端に土塁を配し、曲輪間の斜面には切岸を設けている。
 発掘調査を行っている市教委埋蔵文化財専門職員の川崎雅史さんは調査中に「びっくりしたこと」として二重に巡らせた横堀があったことを挙げた。帯曲輪の北は外側に部分的に土塁を伴うものと考えていたが、二段とも岩盤を掘削した横堀だと分かり、西側等でも確認したことで「本来、急斜面となる南側以外に二重の横堀を巡らす構造だった」と推察し「防御性に優れた城跡」と話した。
 主郭跡と付曲輪で掘立柱建物の柱穴や土坑、炉などを検出。柱穴は小規模だったため建物は比較的簡素、炉は直径30センチの穴の周囲が赤く硬化していたことで高熱を伴う小鍛冶などの作業を行っていたと推察。遺物は少量の土師器皿や土釜、鉄釘が出土し、籠城ではなく、見張り程度に城詰めしていたことがうかがえるといい、居住拠点は別の場所にあったと推察。
 頂上部から日高平野が一望できる交通の要衝にあり、南北朝時代に使われていた山城に、参加者は「歴史のロマンを感じます。頂上から眺める景観は素晴らしく、城跡が整備されたら、ちょくちょく来たい」「同時代の土生城、山崎城、手取城などとの見学ツアーもやってほしい」などの声が聞かれた。子孫の吉田擴氏は「こうして城があったことが実証され、うれしい。城跡を整備するので、多くの人に来ていただきたい」と話した。


 その他の主なニュース

23日、御坊市の北吉田蓮の郷で「第6回古典芸能の夕べ」

JA紀州通常総代会で来春合併「1県1JA」を承認

紀中森林組合通常総代会で6年度事業計画案などを承認

22日、美浜町浜ノ瀬「浜ノ瀬空襲」の体験者から聞く集い