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会津藩士・丸山抱石の子孫4人が29日、往生寺(財部)を 訪れ先祖をしのぶ 〈2019年7月2日〉

2019年07月02日 08時30分00秒 | 記事

抱石氏直筆の書額を手に笑顔の皆さん。右が森川住職


 会津藩士・丸山抱石(ほうこく、1817~1898)の子孫が29日、御坊市湯川町財部の浄土宗往生寺=森川正教住職=を訪れた。
 来坊したのは抱石氏のひ孫に当たる丸山喬三さん(85)=大阪府豊中市=と丸山武張さん(79)=大阪市=、山口隆義さん(74)=兵庫県明石市=、喬三さんの息子の丸山博之さん(57)=大阪府豊能郡=の4人。喬三さんたちのいとこの娘さんが、往生寺で見つかった丸山抱石直筆の書額の記事をインターネット上で見つけ、隆義さんが5月に森川住職に連絡。この度の来坊となった。
 訪れた4人は、抱石氏の奥さん・婦美さんの写真や、北海道にある抱石氏の墓の墓碑銘を和紙に残したもの、屋敷があった会津の城下町の地図などを広げ、森川住職と激動の時代への思いをはせた。500石の会津の屋敷の見取り図には、川や池、竹薮などが描かれており、当時の絢爛豪華な暮らしぶりが想像できる。
 4人は「こうやって地図や写真を広げると、会津を身近に感じる。想像を絶する時代だったと思うが、抱石さんが生き延びてくれ今の我々がいる。その感謝を伝えるために来ました」と話し、抱石氏が戊辰戦争時のお礼として宝氷山(往生寺)に送ったとされる、「清逸」と書かれた書額を感慨深そうに見つめていた。森川住職は「ひとつの書額がきっかけとなって皆さんに出会えた。知らなかった貴重な話も聞かせてもらい、ご縁を感じます」と笑顔で話した。
 丸山抱石は、藩校日新館に学び、書画や詩を好み武芸にも長じた。家禄500石を継ぎ、学校奉行、藩主が京都守護職在住中は京都常詰番頭を務めた。戊辰戦争の緒戦となった鳥羽伏見の戦い(1868年1月)では、幕府軍主力の会津藩は敗れて敗走し、1800人余りの会津藩士らと共に紀州に落ち延びた。丸山は部隊の藩士らと共に往生寺にたどり着き1週間程度滞在。けがを患った藩士もおり、食事や看護など手厚いほどこしでかくまわれたとみられる。この後、紀伊半島を三重経由で会津に戻り、青森の下北郡安渡(大湊)に移住。さらに北海道に渡って室蘭から札幌に移った。


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