kotoba日記                     小久保圭介

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本当に『生きた』日

2019年12月30日 | 文学
茨木のり子という詩人は
体質に合う

今朝起きると
昨日読んでいた
大量の新聞の中あった
茨木のり子の詩が
頭に浮かんだ


紹介されていたのは
『ぎらりと光るダイヤのような日』
から抜粋されていた


 世界に別れを告げる日
 人は一生をふりかえって
 自分が本当に生きた日が
 少なかったことに驚くであろう
 指折り数えるほどしかない
 その日々のなかのひとつには
 恋人との最初の一瞥の
 するどい閃光などもまじっているだろう

以上の全文を
記憶していたわけじゃない

最後の時
本当に「生きた」
といえる日が
どれだけあったんだろうか

そんなふうに覚えていて
早朝
蒲団の中で
過去を思っていた

すると
本当に「生きた」
日は
素晴らしい日だけではなく
辛く悲しい
苦しく
寂しい
それでも
人生の
振幅が
大きく揺れた日
それを全部集めると
苦しい思いをした日
寂しい思いをしたあの日
悲しみに打たれ
号泣したあの場所
あの数日

ということは
喜怒哀楽こそが
人生の醍醐味
それが
ぎらりと光る日の記憶

そう思うと
辛いことや
悲しいこと
自信を失うことでさえ
それは
本当に「生きた」

いえるように思えてならない

だから
もっと悲しみ
もっと喜び
もっと苦しみ
もっと嬉しい
そんな日を刻む

できればうれしい
楽しいがいいけれど
薄っぺらなうれしさは
ぎらりとは光らない

以下
全文




 ぎらりと光るダイヤのような日
 

           茨木のり子


  短い生涯、とてもとても短い生涯
  60年か、70年の

  お百姓はどれだけの田植えをするのだろう。
  コックはパイをどれくらい焼くのだろう。
  教師は同じことをどれくらいしゃべるのだろう。

  子供達は地球の住人になるために
  文法や算数や魚の生態なんかを
  しこたまつめこまれる。

  それから品種の改良や
  りふじんな権力との闘いや
  不正な裁判の攻撃や
  泣きたいような雑用や
  ばかな戦争の後始末をして
  研究や精進や結婚などがあって
  小さな赤ん坊が生まれたりすると
  考えたり、もっと違った自分になりたい
  欲望などはもはや贅沢品となってしまう。

  世界に別れを告げる日
  人は一生をふりかえって
  自分が本当に生きた日が
  あまりにも少なかったことに驚くであろう。
  指折り数えるほどしかない
  その日々のなかのひとつには
  恋人との最初の一瞥の
  するどい閃光などもまじっているだろう。

  <本当に生きた日>は人によって
  たしかに違う。
  ぎらりと光るダイヤのような日は
  銃殺の朝であったり
  アトリエの夜であったり
  果樹園のまひるであったり
  未明のスクラムであったりするのだ。


良い詩人ですね。。。




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