kotoba日記                     小久保圭介

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もう、置き去りにしない〜高齢化する中国残留邦人〜

2024年09月07日 | 生活
もう、置き去りにしない〜高齢化する中国残留邦人〜
初回放送日:2024年9月2日

戦後、中国に取り残された「残留邦人」。今、高齢化が進み、介護を必要とする人が増えている。しかし、中国語に対応していない施設では適切な介護が受けられず苦しんできた。そうした中、2世や3世がみずから介護事業所を立ち上げ、自宅での暮らしを希望する利用者のために訪問介護やデイサービスで懸命にサポートしている。一方、戦争による心の傷に今なお苦しむ人たちも。見過ごされてきた中国残留邦人のいまを見つめる。

放送内容
目次
もう、置き去りにしない 〜高齢化する中国残留邦人〜
1.中国語が飛び交うデイサービス
2.日本の介護現場で理解してもらえない残留邦人
3.在宅介護の限界
4.安心して利用できる介護事業所を
5.残留邦人に対する国の支援は?
6.民間の手で開設された残留邦人向けホーム
7.再び置き去りにしないために
もう、置き去りにしない 〜高齢化する中国残留邦人〜
中国に取り残された日本人のことを皆さんは、覚えていますか? 終戦前後の混乱の中、中国で家族とはぐれ、置き去りとなった日本人の子どもや女性たちのことです。
1970年代以降、6725人の「中国残留邦人」が帰国しました。国の調査によれば、彼らの平均年齢は、76歳(2015年調べ) 。歴史に翻弄され、祖国で穏やかな老後を過ごすはずだった中国残留邦人が今、日本の福祉から取り残されようとしています。

1.中国語が飛び交うデイサービス
中国語が飛び交うデイサービスの様子

高齢化する残留邦人の実情を知るため私たちが最初に取材したのは、埼玉県所沢市にあるデイサービス。

この施設の介護スタッフのほとんどは中国語が堪能。日常会話でも中国語が飛び交います。施設の代表は上條真理子(かみじょう・まりこ)さん、中国残留邦人の2世です。


上條さん:
「ここはやっぱり皆さんの『家』。私は皆さんの『子供』。そういう感じの雰囲気を出したいというか。1人ずつ抱えている悩みや問題をできるだけ解決してあげる感じで、常に自分の親と思って接しているんです」

2.日本の介護現場で理解してもらえない残留邦人
いつもにぎやかな施設。でも、その笑顔とは裏腹に、施設の利用者の方々は、これまで厳しい人生を強いられてきました。1930年代以降、国の政策によって多くの日本人が旧満州に、開拓団などとして移り住みました。しかし、終戦前後の混乱の中、家族とはぐれ、中国に置き去りとなった子供や女性たちが大勢いました。

そうした中国残留邦人の一人、木村和子(きむら・かずこ)さん、83歳(取材当時)。
幼い頃、中国・吉林省で日本人の両親と暮らしていましたが、その後取り残され、中国人の養父母に育てられました。


木村さん:
「(中国に取り残された)当時私は4歳9か月。母が私をほかの人の家に残して去ってしまいました。(養父母から)家の中で汚い言葉で叱られました。中国人でさえ使わない言葉で。私は強い怒りを覚えました」

国の帰国事業によって、木村さんが家族とともに日本に帰ってきたのは47歳のとき。親族は見つかったものの疎遠となり、飲食業などに従事しながら生計を立ててきました。今は、足腰の力が弱くなり、日常のほぼすべてに介助が必要です。子どもとは同居しておらず、アパートで一人暮らしです。

木村さんは7年前、高齢者施設に入所しましたが、なじむことができませんでした。47歳まで中国で暮らしていた木村さんにとって、帰国後に日本語を一から覚えることは困難でした。施設には通訳がいなかったため、トイレに行きたいことさえ伝えられませんでした。一人で移動しようとすれば、勝手に動き回ると誤解され、身体拘束を受けたといいます。

精神的に追い詰められていった木村さん。そんな、ある日……。

木村さん:
「死んでしまいたかった。外にも出るに出られない。だからなんとか自殺したかった」

木村さんのおなかに傷が見つかり、施設からの依頼で通訳として駆けつけたのが上條さんでした。

上條さん:
「施設に行ったら和子さんが泣いていて、私も和子さんと一緒に泣きました。悲しいというか、こんなはずではなかったんですよね。助けてあげたい。和子さんなりの生活を送らせてあげたいって。私もお手伝いしてあげたい」

3.在宅介護の限界
自宅で暮らしたいという木村さんに応えるため、上條さんの事業所が、毎日訪問介護をしています。

木村さん:
「彼女が家に来てよく見ていろいろやってくれます。医者を呼んで家まで来ることもあるんですよ。彼女を信頼しています」

しかし、1回の訪問介護でヘルパーが木村さんの自宅に滞在できるのは、最大1時間45分です。そのため、不測の事態にどこまで対応できるかが課題となっています。
この日も、ヘルパーのもとに木村さんから、体調を崩したと急な電話がかかってきました。午前中に1度ヘルパーが訪問したときは元気だった木村さんですが、その後、調子が悪くなってしまいました。上條さんが医師に連絡を取り、対応方法を確認し、ことなきをえました。

自宅で生活をしている木村さん

上條さん:
「本人は最後の最後まで家で暮らしたいという気持ちが結構強い。だから今、ケアチームが協力して在宅介護をしているんです。でも限界が来ているんですよね」

4.安心して利用できる介護事業所を
上條さんがこの事業所を立ち上げたのは、8年前のこと。きっかけとなったのは、中国残留邦人の父・充彦(みつひこ)さんの存在でした。充彦さんは7歳のとき、中国で人身売買に遭い、養父となった男性から虐待を受けて育ちました。

充彦さん:
「体のあちらこちらをよくつねられて、青あざだらけになりました。触るだけでも痛い。死にたくて逃げたくて本当に。本当に死にたかった」

上條さんと父親の充彦さん(右)

57歳のとき、家族とともに帰国。その後まもなく脳出血により重い障害が残り、働くことができなくなりました。その後、デイサービスに通いましたが、日本語が話せずつらい目にあったといいます。

充彦さん:
「施設で私が話したことの意味が通じませんでした。お風呂は寒かった。言葉も通じないし何も分からなかった。何かあっても自分からは言えなかったし。お風呂から出たとき、他の人たちは食事はすでに終わっていました。私の分だけラップがかけられて冷たくなっていた。温めてほしいと言ったが、相手の態度から『面倒な人だ』と思われたと感じました」

上條さん:
「もう本当に悲しかったんです。その日、お母さんとお父さんと私、みんな泣いちゃって。言葉が通じないから『こんなことも言えないの?』みたいな。『こんなことも分からないの?』って。怖さもあるし、不安もある。子どもからみれば、何をしてあげればお父さんは幸せになれるかなって」

日本人でありながら、日本の介護現場で理解されない現状。そこで、上條さんは、自宅を改築して事業所を立ち上げ、父と同じ思いの人たちを受け入れたのです。

上條さん:
「皆さん日本の施設は選択しないかな。選びたくない気持ちがあるかもしれない。(中国残留孤児は)別に中国に行きたくて行ったわけではなく、自分の意志で決められるものではなかった。だからもうちょっと周りに優しくしてもらいたいという気持ちはありますよね」

5.残留邦人に対する国の支援は?
中国残留邦人に対し、国はどのような施策を行ってきたのか。

厚生労働省の委託を受け、全国7か所に残留邦人の支援を行う「中国帰国者支援・交流センター」が開設されています。センターでは、残留邦人やその家族に日本語の習得や就労などの支援を行ってきました。今、ニーズが高まっているのが、介護の授業です。

交流センター内での介護の授業の様子

2015年の調査によると、帰国した中国残留邦人の平均年齢は、76歳。体が動くうちに、介護の方法や制度について学んでもらうことがねらいです。
さらに、厚生労働省は7年前から、「語りかけボランティア訪問」を開始しました。日本の介護施設などを利用する残留邦人のもとへ、中国語の話せるボランティアを派遣。困り事があれば、施設側に改善を促します。

今回、厚労省に対して「中国残留邦人へ適切なサービスが届いているか」、その認識を尋ねたところ、「すでに経済的な施策や高齢化に対応した事業を行っており、効果的に実施できるよう取り組んでいく」という回答でした。

6.民間の手で開設された残留邦人向けホーム
今年4月、中国残留邦人向けの有料老人ホームが民間の手で立ち上げられました。現在、およそ20人が入居しています。在宅介護が難しくなった人や、一般の施設ではなじめない人が多く入居しています。デイサービスに通う利用者も宿泊が可能です。介護事業の本部長を務めるのは、三上貴世(みかみ・たかよ)さん。残留邦人の祖母を持つ3世です。

三上さん:
「ここが部屋ですね。シーツなどは中国から取り寄せて。白だと病院っぽくなって(利用者が)不安だから、カラフルなものをつけてあげたりしているんです。生活感があるように」


定員は50人。プライバシーに配慮した部屋で、個人でも夫婦でも利用できます。

夜、就寝の時間を迎えた頃に、「眠れない」と利用者の一人が三上さんに話しかけてきました。幼い頃、戦争で爆撃の中を生き延びた過去があり、夏になると、大雨が銃弾の音に聞こえたり、世界での戦争のニュースを見ると、不安がつのって眠れなくなったりすることがあるといいます。
消えることのない、戦争で負った心の傷。なかなか眠れない女性のために、三上さんはずっとそばに寄り添います。こうしたトラウマに対する治療は、まだ確立されていません。

三上さん:
「『私がいるから大丈夫よ』って、『一緒にいてあげるから安心して』って常に声をかけるようにしている。ふだんから『ここにいる以上は私に頼ってきてね』って。私は3世で残留孤児のことを知っているから、なるべくコミュニケーションをとって、心のケアに力を入れている」

日本の介護施設になじめない中国残留邦人にとっては、ここが最後の頼みの綱。それが今、民間の手に委ねられているのが現状です。

施設内の見回りをして歩く三上さん

三上さん:
「必要としている人が多いので、こういう残留孤児のことを考えた施設がもっとあってほしいですよね。もう本当に人生の最後は『ここで過ごしてよかった』って、本当に最後の最後を幸せに過ごせて、笑って生きた人生であったって感じるように」

7.再び置き去りにしないために
所沢市にある上條さんのデイサービスに、新たな利用者がやってきました。72歳になる男性で、中国残留邦人の母を持つ2世です。残留邦人の子どもたちは、これから70歳を越えてきます。日本に来た当時に50歳を越えている人もおり、日本語をうまく話せないこともあります。介護を必要とする年齢となりつつあり、今後、親世代と同じことが起こるのではないかと、上條さんは懸念しています。

上條さん:
「日本の国民とか、あるいは日本の国、あなたたちのこと忘れていないよって。守ってるよって、その信念が私にはあります。皆さんにも伝えています。ほったらかしではなく、手厚いサービスを使えば、楽しい幸せな人生も送れますって」

日本に帰国した中国残留邦人は、現在6725人おり、2世など家族を含めると、2万人を超えています。


※この記事は『ハートネットTV 「もう、置き去りにしない〜高齢化する中国残留邦人〜」』(初回放送日:2024年9月2日)を基に作成しました。

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       『メロン』

2024年09月07日 | 生活詩



















     『メロン』



メロンは無口だった
淡々と仕事をして
時々 南口の門番に何か話して
帰って行った

メロンから果物のメロンの匂いがして
そのままメロンと呼ばれた
果実の薄緑色まで似合っていた
どんな時でも無口で
誰かの話を
ずっと聞いていた

メロンは
1000人に1人の天才的な
人見知りで
自分から話さない
誰かの話に
うなずいているだけ
だからと言って
1秒で笑う

白い帽子をかぶって
メロンは私の姿を見つけ
疲労していた私に
「おーい 、元気か」
こんな風に1秒微笑んだ
後は真顔で
季節も天気のことも言わない

最初
メロンが
私の環境について
賃金について 給料について
休暇について
私が話すとき
興味を持って聞いていた
生活のお金について
メロンは考えていた

メロンは喋らなかったけど
笑うこともなかったけど
明るい性分がある
そんなことを
私は知っている

南口の門番で
メロンを見かける
そのうち外で
道端でメロンに会うかもしれない
たった 『何もない交差点』で
メロンに会ったらなんて言おう
「あーびっくりした」
それで会話は終わる
メロンの言葉は
じゃあねとか
お疲れ様とか
言葉はなく頷くだけ

メロンの仕草は薄く
ただ メロンの匂い
ある時
私に向かってメッセージを読んでいて
「頑張っている 本当にすごいと思う」
とメロンが言ったことがあった
その時
私はどんな感情もなく
メロンの声を聞いていた

緑と青の水筒をもらった
あんなに嬉しいことって何
物質が美しい

いつも遠いところから
メロンは
「おーい、 元気か」
飾る言葉ではなく
短く言うんだろうな

メロンは
「おーい、 元気か」
薄い笑顔で
たくさんの人に
存在で伝えている

メロンは
淡々と仕事をしている
これから何があったとしても
メロンは平気な顔で
淡々とできる人
「あーびっくりした」とか
「おお」
と感嘆符
そんな感じ
無言の人

一人でいても
現実的な
慈悲の目だ
メロンは楽しそうに
笑ったことはない
大した人間だと
私は心の底から思っている

メロンは今日も
白い帽子をかぶっている
風の中で
メロンは生きている





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