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クラスター分析で『日本書紀』区分論を見直し、巻でなく天皇ごとの検討を提唱:松田信彦「日本書紀「区分論」の新たな展開」

2023年11月22日 | 論文・研究書紹介

 森博達さんの区分論と加筆の指摘は、『日本書紀』研究に圧倒的な影響を与えました。私が三経義疏の変格漢文研究などを始めたのもその影響です。

 ただ、同じ巻の中でも天皇によって記述の形が違う場合があるのが気になっており、基づいた史料の違いかと思っていたのですが、この点についてクラスター分析を用いて検討した研究が出ています。

松田信彦『『日本書紀』編纂の研究』「第四部第二章 日本書紀「区分論」の新たな展開-多変量解析(クラスター分析)を用いて-」
(おうふう、2017年)

です。

 松田氏は、「序 研究史と問題点の整理」において、これまでの区分論は、別伝注記の用語、分注の偏在、歌謡表記に用いられた仮名、様々な用語、多義性のある漢字の用法、漢籍の出典、助動詞的な用字、などに注目して区分分けしてきたと述べます。

 その結果、ほとんどの研究結果が、巻13(允恭・安康)と巻14(雄略)の間で区分の線を引くことで一致したとしたのです。さらに、森博達氏が歌謡の仮名の音韻によって提唱した中国人によるα群と日本人によるβ群に分け、榎本福寿氏が使役の助動詞や「之」の字の用法によって分けた Ⅰ群・Ⅱ群・Ⅲ群という区分では、Ⅰ・Ⅱ群がβ群、Ⅲ群がα群と一致したため、『日本書紀』を大きくα群とβ群の二つに区分することが定着したと述べます。

 ただ、松田氏は両氏の功績を認めたうえで、両氏の方法では、α群・β群をさらに細かく区分けすることができないとし、それを可能にする方法を上記の「日本書紀「区分論」の新たな展開-多変量解析(クラスター分析)を用いて摸索します。

 クラスター分析というのは、複数のデータ群を比較し、共通する要素の多さによってそれらをグループ分けして、それぞれのデータ同士の類似度を見やすい図の形で示すものです。

 松田氏は、各巻に十分な数の用例がある字を選んで検討します。というのは、従来の区分論では用例があるかないかを判断の基準としており、ごく僅かでも用例があればそれを判定基準としていましたが、松田氏はどの巻でもかなり使われている要素に着目したのです。

 そのうえで、その巻の全体の字数におけるこの2字の割合を考慮し、さらに巻による字数の多さ・少なさの違いも考慮して補正します。また、神代巻は除外します。というのは、「一書」の引用が多く、その巻の著者の文章の特徴を判断するのが難しいためです。

 松田氏は、まず「於」と「于」という置き字を選んで検討します。この2字は、どちらも英語でいえば in や at などの前置詞にあたるものですが、『日本書紀』の御陵の埋葬記事では、どの地に埋葬したかを示す場合、ある巻では「於~」を使い、別の巻では「于~」を使うなど、巻によって違いがある点に注目したのです。

 松田氏は、この2字によって上記のやり方で『日本書紀』の巻をクラスター分析した結果、『日本書紀』は大きく二つに分かれることが示されたとし、「注目すべきは、このグループ分けが従来の森氏のα群とβ群とほぼ一致する」ことだと述べます。

 ただ、「於」と「于」だけでは弱いため、文末に置かれて強調を示す助字の「焉」と「矣」を加えて処理します。これは、日本語には相当する語がなく、その用い方によってこれを書いた人の漢文の素養が分かるためです。

 このように、多くの要素をパラメータに設定して分析していくのが多変量解析の強みなのです。その4字を用いた分析の結果が以下の図(同書、436頁)です。

 ①の縦線の地点で巻が大きく二つに分かれていますが、Aのグループがα群、Bのグループがβ群です。面白いのは、より細かい違いに注目した②の縦線の段階では、α群がさらに二つに分かれていることです。

 ③の段階になると、さらに細かく区分けされることになります。すなわち、β群(Ⅱ群)とされている巻5(崇神)から巻13(允恭・安康)までのグループが、崇神・垂仁(仲哀も含めてよいか)のまとまり、神功・応神のまとまり、仁徳・履中・反正・允恭・安康のまとまりに分けられるのです。

 崇神・垂仁はともに「イリビコ」の名を持っていて共通しており、仁徳天皇とその子供たちの巻がひとつのグループになっていることが分かります。

 聖徳太子関連では、α群(Ⅲ群)とされる雄略から用明・崇峻までの巻も、雄略紀、敏達紀、用明・崇峻紀の3巻がウに区分され、それに挟まれる各巻がアに分類されており、特に継体紀、安閑・宣化紀が同じグループとなっており、その前後の巻と別グループになっているのが注目されると松田氏は説きます。

 この分類方法だと、基づいた史料による語法の違いとか、森さんがおこなった後からの加筆部分とかは判定できませんが、おおよその傾向ということだけでも、こうしたことが分かってくるのは興味深いですね。

 森・榎本氏の分類が主流になる前は、様々な区分が行われており、多い場合は17に分けるといった説もありました。松田氏は、上記のようなクラスター分析を推し進めれば、森・榎本氏のような大きな区分と、細かく分ける区分とを包括して理解することが可能になるかもしれないと述べています。

 私が気になる聖徳太子関連では、巻20の敏達紀と巻21の用明・崇峻紀とは割と近い位置にあるものの、それに続く巻22の推古紀はかなり離れており、絶讃される厩戸皇子の記述を含む推古紀は、巻13の允恭・安康紀と極似し、ついで巻12の履中・反正紀と似ており、つまりは『日本書紀』が天皇の模範として絶讃する仁徳天皇の子供たちの巻と似ていることが気になります。

 それ以外で興味深いのは、推古紀に続く巻23の舒明紀が、その息子のうち、巻27の天智紀とはかなり離れているのに対し、巻28の天武紀上と極似しており、一方、巻29の天武紀下は、まったく別なグループに入っていることですね。その他にも、この図を見ているだけで研究のヒントになることがいろいろ思い浮かびます。

 松田氏は、縦線の引き方によって、区分論から編纂・成立論に変わりうることを期待すると述べ、論文をしめくくってます。

  なお、同書の「第二部第一章 日本書紀編纂についての一疑問」では、『日本書紀』の即位記事が、「太子即天皇位」になっている巻と「皇太子即天皇位」になっている巻で分かれるなど、表記の違いがあることに注意し、同じ巻でも天皇によって表記が異なっているのは、編纂・筆録が巻ごとではなく、天皇ごとにおこなわれていた可能性があることを示すと述べています。これは今後、検討すべき問題ですね。

 松田氏のこの書以後に、別の視点によって『日本書紀』の区分に取り組んで森説の区分を評価し、α群中国人説が正しい可能性を示唆したうえで『日本書紀』を4つの群に分類し、天武紀の上巻と下巻の執筆者が異なる可能性を示した葛西太一さんの研究については、以前、紹介した通りです(こちら)。

【追記】
クラスター分析を手軽に試すには、筆者と漢字文献情報処理研究会の仲間たちで開発したNGSMシステムで処理し、その結果を Excelに読み込んでアドイン・ソフトでクラスター分析させて図示するのが早い。NGSMの威力については、以前、簡単な形で解説してあり(こちら)、処理の具体的な手順やコツについても公表している(こちら)。

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