聖徳太子研究の最前線

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『日本書紀』同様に作為のある『隋書』、意外に史実を伝えた面もある『日本書紀』:石井正敏「『日本書紀』隋使裴世清の朝見記事について」

2023年11月18日 | 論文・研究書紹介

 私が長らくやめていた聖徳太子研究に復帰し、大山説批判に乗り出してまだ数年の頃、2011年に藝林会の第5回学術研究大会としておこなわれたシンポジウム「聖徳太子をめぐる諸問題」に参加しました。

 このシンポジウムでは、所功氏の司会のもとで、武田佐知子、石井正敏、北康宏の諸氏と私が発表して相互討議をおこない、翌年、他の研究者が書いた聖徳太子関連論文とともに『藝林』第61巻2号に掲載されました(諸氏の論文の一覧は、こちら。私の論文は、こちら)。

 その石井正敏氏は、温和な様子で文献を着実に検討しておられましたが、残念なことに2015年に亡くなってしまっため、知友が編纂して著作集を出しており、その中にこの時の発表に基づく論文が収録されています。

石井正敏『石井正敏著作集第一巻 古代の日本列島と東アジア』「『日本書紀』隋使裴世清の朝見記事について」
(勉誠出版、2017年)

です。

 『日本書紀』は編纂時の改変・潤色の多さが良く知られているのに対し、『隋書』は比較的信頼できるとされる傾向がありますが、石井氏は、『隋書』は『日本書紀』同様、「王朝の手になる、きわめて政治性の高い編纂物であることにあらためて注意すべきであろう」と述べます。

 そして、裴世清の朝見記事を例として『隋書』と『日本書紀』の記述の違いを検討していくのですが、その際、着目するのが小墾田宮でおこなわれたとされる儀式と、隋唐の儀礼の規定です。

 『隋書』倭国伝では、倭国では王の朝会の際、儀仗をととのえ、その国の楽を奏すとあるのは、裴世清が受けた迎賓儀礼が中国式であったことを伝えるものとします。その儀礼は隋の儀礼に基づいていたはずですが、隋では『隋朝儀礼』『江都集礼』などが編纂されたものの内容は不明であるため、石井氏は、それを受け継いだ『大唐開元礼』を見ていきます。

 そのうち、参考になるのは、唐の皇帝が外国使節を謁見する「皇帝受蕃使表及幣」儀と、皇帝の使いが蕃国におもむいて国王の前で皇帝の詔を宣する儀式である「皇帝遣使詣蕃宣労」儀です。氏の説明をまとめると、以下のようになります。

 前者では、蕃国の使者が国書と朝貢品を携えて待機し、皇帝が出御すると、中書侍郎が国書・上表を載せる案(台)を持った持案者を従えて西階段下で待機、通事舎人が国書と朝貢品を携えた蕃使を率いて所定の位置に立つと、中書侍郎が持案者を連れて使者の前に至り、書を受け取って案の上に置いて西階段下まで戻り、書を持って西階を登り、皇帝に奏上する。

 後者では、詔書を載せた案を持つ者が使副の前に進み、使副が詔書を使者(大使)に渡し、使者が「詔あり」と称すると蕃主は再拝し、使者が詔書を宣読すると、蕃主はまた再拝し、蕃主が使者の前に進み、北面して詔書を受け取る。

 前者のうち、中書侍郎が国書を皇帝に奏上する点について、読み上げるとする解釈もあるが、動作が示されていないため、これは献呈するだけであって、国書は別の場で専門家たちが読んで検討し、その後で皇帝の閲読に供されたと石井氏は推測します。

 倭国伝では、煬帝が倭国の国書を見て不快となり、以後はこうした無礼なものはとりつぐなと命じたことは有名ですが、国書を皇帝に奉呈してその場で読み上げたなら、煬帝は即座に儀式の中止を命じていたはずとするのです。

 後者については、『隋書』南蛮伝・赤土国条では、隋使は国王などが皆な坐っている状態で慰労詔書を読み上げています。倭国と隋の間でも、こうした規定に基づいて儀礼がなされたと石井氏は説きます。

 裴世清の場合は、「皇帝遣使詣蕃宣労」儀に基づいて朝見がおこなわれたはずですが、『日本書紀』では「自ら書を持ち、両度再拝し、使旨を言上して立つ」とあり、これまでは「国書を読み上げた」と理解されてきましたが、石井氏は、これは使いの趣きを口頭で述べたにとどまり、国書を読み上げてはいないと見ます。

 『隋書』倭国伝でも、「使者曰く、聞く、海東の菩薩天子、重ねて仏法を興すおと……」と述べたとし、「其の国書に曰く、日の出づる処の天子……」とし、「帝、之を覧て悦ばず」とありますので、帝が倭の国書を見たのは謁見の後と思われるとします。

 一方、『日本書紀』の敏達天皇元年には、天皇が高麗の表疏を大臣に授け、史たちを集めて読解させたという記事があり、皇極天皇四年の記事では、天皇が大極殿に出御し、「倉山田麻呂臣、進みて三韓の表文を読唱」したとあります。つまり、国書そのものは外国の使者が読み上げるのではないのです。これは、倭国が蕃国とみなした国からの書に関する記述、それも伝承的なものですが、参考になると石井氏は説きます。

 そして、裴世清が言上したのは、唐の皇帝陛下の素晴らしい徳が四海にまで行き渡っており、倭王がその化を慕ってきたので、使いを派遣し、宣諭する」といった内容ではなかったか、と推測します。

 『日本書紀』では倭王が再拝するのではなく、裴世清が二度再拝したとしており、中国の儀礼からはあり得ないとされることが多いのですが、石井氏は、『新唐書』巻105の李義琰・義琛伝では、高句麗に派遣された義琰は高句麗王を拝することを拒んで王を屈服させたのに対し、弟の義琛が使いした際は、匍匐して高句麗王を拝したと記されていることに注目します。

 この記述について、榎本淳一氏は、外交使節の第一の目的は皇帝の命令を伝達することであり、そのためには対応は外交使節にまかされた部分が大きいのであって、『日本書紀』の裴世清の朝見記事では、隋の国書では倭国が「朝貢してきた」といった不都合の記述をそのまま載せていることから見て、国書の「倭王」を「倭皇」に改竄する程度であって、「原史料の記載が比較的残されている」と見ており、石井氏もこれに賛成します。

 そして石井氏は、『旧唐書』倭国伝などが、舒明4年に倭に派遣された唐使の高表仁について、「綏遠の才なく、王子と礼を争ひ、朝命を宣べずして還る」と批判しているのは、倭国側が裴世清の時と同じ儀礼を求めたのに、高表仁が「綏遠の才なく」、つまり臨機応変に振る舞って蕃国をうまくなだめることができず、相手の要求に従わなかった結果、肝心の使命を達成できなかったことを批判したものと見ます。

 そこで、石井氏は、『日本書紀』の記述と裴世清が隋に帰国しておこなった報告が異なっており、『隋書』では倭王との対話を詳しく記しておりながら国書伝達のことが記されていないなどの違いがあるのは、『日本書紀』が記す朝見と、裴世清が述べる会見が別の機会でおこなわれた可能性を示唆します。そして、使者の報告は、主観や作為が含まれている場合もあることに注意すべきだとする榎本氏の主張を紹介しています。

 そして、その例として、『隋書』では、倭国の使者が「聞海西菩薩天子……沙門数十人来学仏法」と言上したとあるが、この後の遣隋使・遣唐使に随行した留学生・留学僧の例から見ても、「数十人」というのは明らかに誇張だとし、仏教を興隆していた隋の皇帝の威徳を強調するための文飾があるとしています。

 最後の部分はなるほどと思わせますね。『日本書紀』の記述だけ疑い、中国の史書の記述はそのまま史実として受け取ることはできないことが良く分かります。『隋書』倭国伝が冠位十二階について記す際、「徳仁礼信義智」となっている順序を、『隋書』では無知な蛮夷の誤りと見たのか、「徳」以下を「仁義礼智信」という普通の五常の順序に基づいて並べて記しているのがその良い例です。「仁礼信義智」という順序は六朝の五行思想の本に見えるものであって、倭国はそれを採用したのですが。