少し前に、法隆寺の救世観音像に関する梅原猛のとんでもない珍説とその批判を紹介し(こちらと、こちら)、前回の記事では、その梅原の影響を受けて古代の「ロマン」を追い、釈迦三尊像は奈良朝になって長屋王家が滅亡した後に飛鳥朝の古風な仏像に似せて作られた模作だとする珍説を紹介しました。こうした説が生まれるのも、法隆寺の様々な仏像のどれもがそれぞれ強烈な特色を持っており、あれこれ言いたくなるからですね。これらの仏像について、最近の見解を述べているのが、
です。
当然、法興寺の仏像の話から始まっています。いきなりの注文で申し訳ないのですが、その書き出し部分で、蘇我氏本宗家が滅亡すると「法興寺は蘇我氏の氏寺から国家の寺院へと変貌をとげた」(137-8頁)というのは、どうでしょうかね。この最初の時期は、氏の祖先の追善を願い、氏統合の象徴、支配下の地域の中心かつ権威づけとなるような氏寺や官僚制はまだ確立されておらず、国家のいろいろな職務を氏単位で担当していた時期ですので、蘇我氏が天皇・国家の安泰を願う国家的な寺を氏の職務として建立した、といったところではないでしょうか。
それはともかく、ここでは法隆寺に関する記述を見てゆきましょう。藤岡氏は、まず現在の法隆寺については、金堂外陣の杉材の天井板1枚が667-668年の伐採、檜材の天井板1枚が668-669年の伐採であるため、焼失したとされる670年の少し前に現在の地で金堂の造営が始まっていた可能性があるとし、どう解釈すべきか新たな課題が生じているとします。ただ、若草伽藍からは焼けた瓦や壁画片が出土していることに注意していますので、むろん非再建説ではありません。
そのうえで、金堂の釈迦三尊像については、伝承通り、聖徳太子と等身の像であって、「美術史の分野ではこの銘記は造立当初のものと認められている」(147頁)と述べます。そして、古拙なアルカイックスマイルを浮かべたこの像については、北魏様式の影響が論じられてきましたが、氏は複数の例をあげ、南朝の梁の様式が百済経由でもたらされたものであり、新旧の要素を折衷していると説いています。銘記についても、梁から百済の系譜に連なるものと考えられる由。
議論の多い薬師如来像については、釈迦三尊像より柔らかい造りになっているため、七世紀後半の作とされることが多かったものの、釈迦三尊像に近い七世紀前半の作と見るのが妥当とします。ただ、銘記については、造立時のものかどうかは不明とします。
金堂の四天王像については、光背の裏に掘られた作者の名のうちに山口大口費が見えており、山口大口費は『日本書紀』によれば勅命によって650年に千仏像を刻んだととあるため、七世紀半ばの作とされてきましたが、650年をどれだけ前後するかは検討材料だとします。この四天王像についても、類例をあげ、南朝の六世紀半ば頃の様式に基づいているとします。
次に、百済観音像については、法隆寺の火災の後の時期の作であって、隋の作例と類似することから、七世紀後半の作と考えられるようになってきたと述べます。
聖徳太子等身と伝えられてきた問題の救世観音像については、『東院縁起』の記述は信用できないものの、「その大ぶりな目鼻立ちは釈迦三尊像よりも飛鳥大仏に近く、釈迦三尊より先行する作例と見てよいと思われる」(156頁)と述べています。そして関山神社に伝来する百済からの渡来と思われる菩薩像に似ているため、そうした渡来仏を手本としていたと推測します。
これはかなり思い切った説ですね。美術史学ではこの像を飛鳥時代の作、それも止利式仏像とみなすのが主流の見解でしたが、明確な製作年代は提示されておらず、太子没後と見る場合が多かったように思われます。また、日本史学では、聖徳太子信仰が高まるようになったやや後の時期に作成されたと説く人もいましたので。
なお、藤岡氏によれば、その宝冠の飾りは古墳の副葬品と関連するものであり、釈迦三尊像を造った止利仏師が「鞍(作)首(くらつくりのおびと)」であって、馬具製作に携わる家系の出身であったことが想起されるとしています。
以上のように、現在の金堂は670年の火災の後、ないしその少し前に造営が始まったとしつつ、その金堂や奈良時代に建立された東院に安置されている仏像たちについては、ほとんどを推古朝頃のものと見るのです。
天寿国繍帳については、兜率天を描いたとする三田覚之氏の説を紹介し、その繍帳の中には弥勒像が安置されていたであろうとして、広隆寺の宝冠弥勒が「太子本願」とされたのも、四天王寺金堂に弥勒菩薩が安置されたのも、太子と弥勒菩薩の由縁によると述べています。
前回の記事でとりあげた木村氏の本は、自ら述べていたように「ロマン」先行でしたが、藤岡氏は本論文の末尾において、後世の霊験や伝承について、こう述べています。
そして、様式・技法・科学的調査によるデータなどから情報を引き出し、「そのうえで歴史的位置づけを明らかにする」必要性を説いてしめくくっています。
藤岡穣「古代寺院の仏像」
(吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編『シリーズ古代史をひらく 古代寺院-新たに見えてきた生活と文化』、岩波書店、2019年)
(吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編『シリーズ古代史をひらく 古代寺院-新たに見えてきた生活と文化』、岩波書店、2019年)
です。
当然、法興寺の仏像の話から始まっています。いきなりの注文で申し訳ないのですが、その書き出し部分で、蘇我氏本宗家が滅亡すると「法興寺は蘇我氏の氏寺から国家の寺院へと変貌をとげた」(137-8頁)というのは、どうでしょうかね。この最初の時期は、氏の祖先の追善を願い、氏統合の象徴、支配下の地域の中心かつ権威づけとなるような氏寺や官僚制はまだ確立されておらず、国家のいろいろな職務を氏単位で担当していた時期ですので、蘇我氏が天皇・国家の安泰を願う国家的な寺を氏の職務として建立した、といったところではないでしょうか。
それはともかく、ここでは法隆寺に関する記述を見てゆきましょう。藤岡氏は、まず現在の法隆寺については、金堂外陣の杉材の天井板1枚が667-668年の伐採、檜材の天井板1枚が668-669年の伐採であるため、焼失したとされる670年の少し前に現在の地で金堂の造営が始まっていた可能性があるとし、どう解釈すべきか新たな課題が生じているとします。ただ、若草伽藍からは焼けた瓦や壁画片が出土していることに注意していますので、むろん非再建説ではありません。
そのうえで、金堂の釈迦三尊像については、伝承通り、聖徳太子と等身の像であって、「美術史の分野ではこの銘記は造立当初のものと認められている」(147頁)と述べます。そして、古拙なアルカイックスマイルを浮かべたこの像については、北魏様式の影響が論じられてきましたが、氏は複数の例をあげ、南朝の梁の様式が百済経由でもたらされたものであり、新旧の要素を折衷していると説いています。銘記についても、梁から百済の系譜に連なるものと考えられる由。
議論の多い薬師如来像については、釈迦三尊像より柔らかい造りになっているため、七世紀後半の作とされることが多かったものの、釈迦三尊像に近い七世紀前半の作と見るのが妥当とします。ただ、銘記については、造立時のものかどうかは不明とします。
金堂の四天王像については、光背の裏に掘られた作者の名のうちに山口大口費が見えており、山口大口費は『日本書紀』によれば勅命によって650年に千仏像を刻んだととあるため、七世紀半ばの作とされてきましたが、650年をどれだけ前後するかは検討材料だとします。この四天王像についても、類例をあげ、南朝の六世紀半ば頃の様式に基づいているとします。
次に、百済観音像については、法隆寺の火災の後の時期の作であって、隋の作例と類似することから、七世紀後半の作と考えられるようになってきたと述べます。
聖徳太子等身と伝えられてきた問題の救世観音像については、『東院縁起』の記述は信用できないものの、「その大ぶりな目鼻立ちは釈迦三尊像よりも飛鳥大仏に近く、釈迦三尊より先行する作例と見てよいと思われる」(156頁)と述べています。そして関山神社に伝来する百済からの渡来と思われる菩薩像に似ているため、そうした渡来仏を手本としていたと推測します。
これはかなり思い切った説ですね。美術史学ではこの像を飛鳥時代の作、それも止利式仏像とみなすのが主流の見解でしたが、明確な製作年代は提示されておらず、太子没後と見る場合が多かったように思われます。また、日本史学では、聖徳太子信仰が高まるようになったやや後の時期に作成されたと説く人もいましたので。
なお、藤岡氏によれば、その宝冠の飾りは古墳の副葬品と関連するものであり、釈迦三尊像を造った止利仏師が「鞍(作)首(くらつくりのおびと)」であって、馬具製作に携わる家系の出身であったことが想起されるとしています。
以上のように、現在の金堂は670年の火災の後、ないしその少し前に造営が始まったとしつつ、その金堂や奈良時代に建立された東院に安置されている仏像たちについては、ほとんどを推古朝頃のものと見るのです。
天寿国繍帳については、兜率天を描いたとする三田覚之氏の説を紹介し、その繍帳の中には弥勒像が安置されていたであろうとして、広隆寺の宝冠弥勒が「太子本願」とされたのも、四天王寺金堂に弥勒菩薩が安置されたのも、太子と弥勒菩薩の由縁によると述べています。
前回の記事でとりあげた木村氏の本は、自ら述べていたように「ロマン」先行でしたが、藤岡氏は本論文の末尾において、後世の霊験や伝承について、こう述べています。
ロマンにあふれて興味深いが、仏像造顕当時の実態を知るためには、それをいったん忘れ、客観的に見ることも必要になる。(188頁)
そして、様式・技法・科学的調査によるデータなどから情報を引き出し、「そのうえで歴史的位置づけを明らかにする」必要性を説いてしめくくっています。