『日本書紀』が推古朝を皇太子としての厩戸と蘇我馬子大臣を中心に描いていることについては、早くから疑問が呈されてきました。
そのうち、「皇太子」という呼称が後代のものであることは確定していますが、有力な皇子と有力な臣が大夫・群臣・群卿などと表記される「マヘツキミ」たちを率いるということがあり得たのか。また、王族たちは「マヘツキミ」のうちに含まれるのかどうか、すなわち、国政に関わったのかどうか、という問題について論じたのが、
原朋志「令制以前のマヘツキミと合議」
(『ヒストリア』209号、2008年3月)
です。
原氏は、用例から見て、「大臣・大連は、マヘツキミを代表しうる有力者ではあるが、マヘツキミを超越した存在ではなく、あくまでもマヘツキミに含まれる存在であったと思われる」と説きます。
そして、マヘツキキたちは、畿内の有力氏族が原則であり、一氏から一名を原則とするが、必ずしも世襲されず、有力氏族以外で大王の寵愛を受けた者も含まれており、冠位十二階を契機として大夫層が確立ないし拡大した、とします。
本論文で重要なのは、有力王族も早くからマヘツキミの一員として国政に関わっていたのであって、「有力王族と大臣とは、国政上ほぼ同格とみなしうる」としていることでしょう。これが変化して王族とマヘツキミを区別した表記をするようになったのは、乙巳の変から天武朝にかけてのことであり、律令的官僚制の形成が始まった天武朝ではマヘツキミの重要性が低下したと、氏は推測しています。
論文末尾には、この論文のもとになった学会報告の後の質疑も掲載されていますが、そこでは、氏は、厩戸皇子が政治の中枢に存在したことは認めてよいと考えられるとし、その縁者にあたる来目皇子・当麻皇子が征新羅将軍となったとする『書紀』の記述は信用してよいと考える、と答えています。
「群臣」やその合議の実態については、最近、論文がいくつか出ていますが、上代史を考えるには、これは避けては通れない問題です。
なお、原氏は、『日本書紀』における「マヘツキミ」の漢字表記一覧(105頁)を作成しており、孝徳天皇の代には「群卿」は2度見えるとしていますが、3度の誤りです。
興味深いことに、氏の一覧によれば、「群臣」という語は『書紀』の多くの巻にほぼ偏りなく見えているのに対し、この「群卿」の方は、巻14から巻21までのα群ではまったく用いられていません。ところが、同じα群の巻24から巻27では、皇極朝と孝徳朝だけに見えており、しかも、皇極朝では高句麗と百済の朝貢記事、孝徳朝では問題の多い詔の中にだけ登場しているのは、やや不自然な印象を受けます。
ちなみに、β群に属する推古紀のうち、「憲法十七条」には「群臣」と「群卿」がともに用いられており、第四条などは一つの条のうちに両方見えてますね。さて、これはどう考えればよいのか。
そのうち、「皇太子」という呼称が後代のものであることは確定していますが、有力な皇子と有力な臣が大夫・群臣・群卿などと表記される「マヘツキミ」たちを率いるということがあり得たのか。また、王族たちは「マヘツキミ」のうちに含まれるのかどうか、すなわち、国政に関わったのかどうか、という問題について論じたのが、
原朋志「令制以前のマヘツキミと合議」
(『ヒストリア』209号、2008年3月)
です。
原氏は、用例から見て、「大臣・大連は、マヘツキミを代表しうる有力者ではあるが、マヘツキミを超越した存在ではなく、あくまでもマヘツキミに含まれる存在であったと思われる」と説きます。
そして、マヘツキキたちは、畿内の有力氏族が原則であり、一氏から一名を原則とするが、必ずしも世襲されず、有力氏族以外で大王の寵愛を受けた者も含まれており、冠位十二階を契機として大夫層が確立ないし拡大した、とします。
本論文で重要なのは、有力王族も早くからマヘツキミの一員として国政に関わっていたのであって、「有力王族と大臣とは、国政上ほぼ同格とみなしうる」としていることでしょう。これが変化して王族とマヘツキミを区別した表記をするようになったのは、乙巳の変から天武朝にかけてのことであり、律令的官僚制の形成が始まった天武朝ではマヘツキミの重要性が低下したと、氏は推測しています。
論文末尾には、この論文のもとになった学会報告の後の質疑も掲載されていますが、そこでは、氏は、厩戸皇子が政治の中枢に存在したことは認めてよいと考えられるとし、その縁者にあたる来目皇子・当麻皇子が征新羅将軍となったとする『書紀』の記述は信用してよいと考える、と答えています。
「群臣」やその合議の実態については、最近、論文がいくつか出ていますが、上代史を考えるには、これは避けては通れない問題です。
なお、原氏は、『日本書紀』における「マヘツキミ」の漢字表記一覧(105頁)を作成しており、孝徳天皇の代には「群卿」は2度見えるとしていますが、3度の誤りです。
興味深いことに、氏の一覧によれば、「群臣」という語は『書紀』の多くの巻にほぼ偏りなく見えているのに対し、この「群卿」の方は、巻14から巻21までのα群ではまったく用いられていません。ところが、同じα群の巻24から巻27では、皇極朝と孝徳朝だけに見えており、しかも、皇極朝では高句麗と百済の朝貢記事、孝徳朝では問題の多い詔の中にだけ登場しているのは、やや不自然な印象を受けます。
ちなみに、β群に属する推古紀のうち、「憲法十七条」には「群臣」と「群卿」がともに用いられており、第四条などは一つの条のうちに両方見えてますね。さて、これはどう考えればよいのか。