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『日本書紀』における仏教漢文の語法が示す重要事実:森博達「仏教漢文と『日本書紀』区分論」(1)

2024年03月20日 | 論文・研究書紹介

 久しぶりの森博達さんの力作の論考です。定年退職後、日本語と系統が近いトルコ語の勉強を始め、一昨年と昨年は、イスタンブールのトルコ語の学校に2ヶ月つづ通われた由。

 凄いですね。私は、退職後はベトナム語の学校に通う予定でしたが、コロナ禍でのびのびになったままです。たくさん抱えている仕事を一段落させて、来年あたりから通ってしっかり学び、2010年に不出来なまま出してしまったベトナム仏教史の概説を書き直したいものですが。

 さて、その森さんが、『日本書紀』に見える仏教漢文の語法に関する画期的な論文を発表されました(有難うございます)。森さんには、2012年から4年間、私が代表となり、科研費研究「古代東アジア諸国の仏教系変格漢文に関する基礎的研究」にご瀬間さんとともに参加いただきました。

 日本からは森博達・金文京・瀬間正之・奥野光賢・師茂樹、中国からは董志翹・馬 駿、韓国からは鄭在永・崔鈆植などの諸先生にご参加いただいたのですが、森さんには上記の人選を含め、いろいろと助言していただきました。後に若手研究者となって『日本書紀』の語法の本(こちら)を出した葛西太一さんも、当時は瀬間さんの指導を受ける大学院生として参加したことがあります。

 今回の森さんの論考は、この共同研究がきっかけとなり、仏教漢文にも注意されるようになって始めた研究をまとめられたものです

 その論文は、

森博達「仏教漢文と『日本書紀』区分論」
(吉田和彦編『ことばの不思議ー日本語と世界の言語』、松香堂書店,]2024年)

です。奥付では3月31日刊行となっていますが、刊行元である京都産業大学の学術リポジトリには既にPDFが掲載されました(こちら)。

 私は森さんの『日本書紀の謎を解くー述作者は誰かー』(中公新書、1999年)に衝撃を受け、三経義疏の変格漢文について調査を始め、その一環として『日本書紀』の一部に見られる仏教漢文についても検討し、論文をを書いたのですが(こちら)、今回の森論文はそれを『日本書紀』全体にあてはめ、仏教漢文の語法について徹底した検討を加えたものです。

 『日本書紀』が『金光明最勝王経』などの文章を使っていることは、家永三郎が早くに指摘しており、小島憲之などが仏典利用の研究を進め、瀬間さんも『風土記』と『日本書紀』に見える仏教漢文の語法の例を指摘したのですが、今回の森論文によって、これまで以上に語法に注意して読む必要性が高まりました。

 仏教漢文の語法についてこれだけ網羅的な研究がなされたのは初めてであって、まさに画期的なものです。結果としては、これまでも森さんの区分論と、それぞれの部分の担当者に関する主張を裏付けるものとなった由。

 いずれにしても、『日本書紀』中で目についた単語だけ拾い、「日本は伝統的に~だった」などと論じることはできなくなったのです。なお、森さんは「倭習」という言葉を使っているため、この記事ではそれに準じます。

 構成は、簡単にまとめると、

 1.『日本書紀』に関してこれまで指摘された仏典の利用

 2.近年の仏教漢文に関する研究、『日本書紀』におけるそうした語法の例

 3.『日本書紀』の変格表現のいくつかは仏教漢文であったこと

 4.『日本書紀』における仏典表現の偏在、各群の性格と編集過程

となっています。

 最初に1では、森さんの『日本書紀の謎を解く』『日本書紀 成立の真実ー書き換えの主導者は誰かー』(中央公論社、2011年)とその他の論文で明らかにしたことが示されます。『日本書紀』区分論、すなわち、α群は持統朝に中国人の続守言と薩弘恪が書き、β群は文武朝に新羅留学の山田史見方が書き、元明朝に紀朝臣清人が正格漢文に近い文体で巻30を述作し、三宅臣藤麻呂が誤用・奇用が目立つ文体で全体に潤色・加筆をおこなったとする説を、まず提示します。

 続いて、従来の研究を紹介しており、小島憲之は、703年に義浄によって漢訳されたばかりの『金光明最勝王経』が、巻15・16・17・19・20・21で用いられていることを指摘したと述べます。これらはすべてα群です。

 (この指摘が、義浄の住した長安の西明寺に留学した道慈による聖徳太子伝説執筆説の背景の一つとなったわけですが、聖德太子の活動が特記される肝心の巻22の推古紀で用いられていないのが致命的ですね)

 続いて、瀬間さんによる研究が紹介されます。瀬間さんは、仁徳紀の兄弟相譲譚や時代来上の火仲出征譚には仏典の影響があるとし、また「未経幾〇(いまだ幾ばくの〇を経ずして)」という語法は、『経律異相』などの仏典に多く見られるものであってβ群に偏在することを明らかにしました。

 森さんは、本来は主語の後に来る「亦」がβ群に偏在することを指摘しましたが、これについては、石井氏からこうした語法は仏教漢文には多いことを指摘されたと述べます。

 そして、森さんは、言うという意味の「噵」は朝鮮俗漢文と仏典に見られることを指摘し、この字は『日本書紀』ではα群に8例、β群に3例見られるものの、α群のうちの4例は朝鮮関係記事、巻24の2例は上宮家滅亡記事、そしてβ群の3例は巻23の舒明即位前紀であって、舒明と山背大兄の後継争いの部分であって、この箇所は和習が見られるβ群の中でも変格用法が特に目立つ由。

 つまり、上宮王家関係であって、後の加筆と思われる部分に多いということになります。

 ついで、仏教関係記事が見える巻19の欽明紀から上宮家滅亡が記される巻24までの仏教漢文や変格漢文を指摘した石井の論文の内容を詳しく紹介します。森さんはそれに基づいて考察を加え、「到於~(~に到る)」と「於」を入れて字数を調えて四字句にする例は、大化の改新の詔勅に見えるとします。この時期の詔勅は、一連の詔勅はα群の中でも特に倭習が目立つ箇所なのであって、『日本書紀』編集の最終段階近い頃に後から書かれたものなのです。

 次に、中国で急に発展してきた仏教漢文の研究状況について紹介します。その一例が、四字句や五字句に調えるために不要な「於」などの助字を加えることです。『日本書紀』にもそれが見られるのであって、中国の標準的な漢文と比較していた森さんの以前の著作では、これらを「奇用」としていたのですが、森さんは「結局、これは仏教漢文だったのだ」と感慨を漏らしています。

 β群で3例、特別である巻30の1例をのぞけば、他の18例はすべてα群であり、特に目立つのは、巻25の孝徳紀に4例見えていて、そのうちの3例が大化の改新の詔勅であることだと述べます。

  他に目立つのは朝鮮漢文の記事であって、これは森さんが前著で既に指摘したよう、朝鮮の原史料を尊重してそのまま用いたためと見ます。目立つのは、巻21の崇峻紀に4例見え、しかも3例は崇峻暗殺の記事であって、この部分には「所」という字の誤用も見られる由。崇峻紀にはかなりの加筆がなされているのです。

 漢籍で用いられ、仏教漢文でも良く見られる「~不?」という疑問の形については、例によって朝鮮関係の記事と大化改新の詔勅に集中して出てくると述べます。大化の改新の詔勅は本当に怪しいですね。

 明らかに仏教漢文の特色とされる「除~(~を除いて)」の語法については、口語表現であって中国では唐代まではほとんど現れないにもかかわわらず、仏典にはしばしば見え、『日本書紀』ではβ群にのみ11例も登場します。

 そこで、森さんは、新羅に僧侶として留学し、後に還俗して文人学者となり、大学頭にまでなった山田史御方がβ群の筆者だとする自説が確認できるとします。そして、仏教漢文の語法と言っても、α群とβ群では個性の違いがあるとします。これは重要な発見ですね。 

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