聖徳太子研究の最前線

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推古朝では天文観測が始まり、南北の軸線が移動した:木庭元晴「飛鳥時代推古朝による天の北極及び暦数の獲得」

2021年01月06日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子関連の文献で問題となることの一つが、年月日がどの暦に基づいて記されているか、誤写はないのかという問題です。『日本書紀』にしても、推古紀(巻第22)と皇極紀(巻第24)の2巻が残る岩崎本は、10世紀から11世紀にかけて書写されたと推定される古い写本であって、推古紀としては現存最古の写本ですが、『日本書紀』の他の写本とは年立てがずれています。諸本では推古31年から34年までとなっている記事が、岩崎本では30年から33年までとなっており、34年は空白になっているのです。

 これは編集の違いによる異本なのか、完成後に書写していった際の誤写によるのか、諸説がありますが、他にもこの時期の資料には1年ずれているものが複数あり、「憲法十七条」発布も聖徳太子の没年もそうした例のひとつです。

 となると、考えられる理由の一つは、原資料が用いていた暦、あるいはその資料を編纂した際に用いた暦や換算法が違っていたということです。ここで注目すべきことは、まさにその推古朝において暦と連動する天文の観測が始まっていることでしょう。この時期の天文観測とそれに関連する事柄をとりあげたのが、

木庭元晴「飛鳥時代推古朝による天の北極及び暦数の獲得」
(『関西大学博物館紀要』22号、2016年3月)

です。

 『日本書紀』の欽明14年(553)6月条には、、軍事援助を頼んできた百済へ使節を送る際、見返りとして「医博士、易博士、暦博士は交代の時期なので交代させよ。また占いの書や暦本、種々の薬などを届けよ」と伝えるよう命じ、翌年もたらされたという記事が見えています。この暦は中国の南朝で作られ、百済でも用いられていた元嘉暦であって、以後、日本では持統天皇6年(692)に唐の儀鳳暦の併用が始まり、5年後に儀鳳暦に完全に切り替えられるまで、もっぱらこの暦が用いられたとされています。

 推古10年(602)冬10月条には、百済僧の観勒が来て暦本および天文地理の書をなどをもたらし、書生3、4人を選んで観勒に習わせたという有名な記述があります。木庭氏は、推古28年(620)にオーロラと思われる記事が載り、36年(628)に皆既日食の記録があることに注目し、観勒の指導によるものと見ます。平安中期にまとめられた『政事要略』では、推古12年(604)の正月朔日から暦を使い始めたと記されているのは、上の記事と良く合致します。

 木庭氏が重視する河鰭・谷川・相馬「日本書紀天文記録の信頼性」(『国立天文台報』5巻、2002年。こちら)は、森博達氏提唱のα群とβ群に見える天文記事の信頼性を検討すると、信頼性が高いβ群は、巻22(推古紀)、巻23(舒明紀)、巻28・29(天武紀)であり、β群には「注意深い観察者がいたと考えるべきである」と説いています。

 これは観勒の記事が事実であることを示すものですが、木庭氏は、推古28年12月にオーロラの記事があり、その3ヶ月後の29年2月に皇太子が没し、推古36年3月に皆既日食の記事が見えた5日後に推古天皇が没していることと関係していると見ます。つまり、推古朝では天文現象が正確に観測されるようになったものの、異常な現象がすべて『日本書紀』に記されているのではなく、重要な事件と関連すると思われる事象が選ばれて本文に記されていると見るのです。

 木庭氏はさらに、推古朝には南北の軸線の移動があったと説きます。最初は、飛鳥寺の寺域の西端からまっすぐ北に向かい、天香具山の山頂を経て北極に至る軸線であって、飛鳥寺の東側の寺域が斜めになっているのは、その線を延長すると天香具山の山頂に至るようにするためであり、当時、天香具山がいかに重視されていたかが分かると、氏は説きます。

 ところが、天文に関する知識が増した結果、その南北の軸線よりやや東にずれた軸線が重視されるようになり、南北に走る三道のうちの中つ道がこの新しい軸線にそって建設され、それとぶつかる飛鳥寺の西端が不自然に切り取られたと説くのです。下の図では、点々の破線が天香久山の山頂を経過する古い南北の軸線、太い実線が新しい南北の軸線ですが、確かに飛鳥寺の寺域のうち西の側が異様に狭くなっており、バランスがおかしくなってます。西側は飛鳥川の河原であるため、もともと飛鳥寺全体が軸線よりやや東にずらした位置に建設されたというのが木庭氏の推定ですが。



 この中つ道が以後の方角の基準となり、寺も宮もこの中つ道に沿った方向で建設されるようになったと氏は論じています。

 ここで問題になるのは、前にこのブログで何度か触れたように、斑鳩と飛鳥を斜め一直線で結ぶ太子道、および斑鳩の斑鳩宮、斑鳩寺、法輪寺などは、正確な南北軸ではなく、西に20度傾いた方角で建築されていたことであり、飛鳥でも豊浦寺を初めとして、そうした方向の遺構がいくつか発見されていることです(こちら)。これをどう考えるか。あるいは、飛鳥と斑鳩で都市計画の違い、ないし対立が生じるようになったのか。

 いずれにしても、推古朝は海外の技術が次々に導入され、様々な事業が始められた時期です。持統朝における両暦の併用期のように、異なる暦ないし計算法が同時に用いられていなかったか検討する必要があるでしょう。
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