ベトナムにおける古書の多くを所蔵する漢喃研究院などを回って、ホテルに戻ってきました。帰国の飛行機は深夜発なので、それまでの時間を利用して更新しておきます。
前回は三経義疏の変格漢文について触れたため、その関連で、本題に入る前にベトナムにおける変格表記の例を紹介しておきましょう。その漢喃研究院の額です。
見てわかるように、形容する言葉が後に回るベトナム語の語順に随って「院・研究・漢喃」と書かれており、この通りの順で左からベトナム風の漢字音で発音します。ベトナムでは、こうした語順になっている個所を含む漢文が少数ながら見受けられます。
さて、メモを書きためてあるブログ材料のうち、今回は、久しぶりに法隆寺の仏像について論じた最近の論文をとりあげてみます。
高柴季史子「法隆寺百済観音像私考」
(『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要』第12号、2010年3月)
です。決定的な証拠や新しい見方とかはないものの、従来の研究史を整理したうえで穏健な見解が示されており、参考になります。
ほっそりした優美な姿で人気が高い百済観音は、古い文献には見えず、江戸時代の記録では金銅の仏菩薩像の第三番目、つまり、薬師三尊像、釈迦三尊像の次として、「虚空蔵菩薩。百済国ヨリ渡来。但し天竺像也」と記されていた由。
明治44年に寺の倉庫から正面に化仏を表した宝冠が見つかり、その虚空蔵菩薩の頭にぴたりと合うものであったため、観音菩薩であることが知られ、やがて「百済観音」と呼ばれるようになったとか。毎夜、灯明を奉ずると記されていることから、非常に尊重されていたことが知られます。
この百済観音は早くから法隆寺に蔵されていたのか、橘寺や中宮寺などの他寺から運び込んできたのか、諸説がありますが、この論文でも紹介したように、東野治之氏は法隆寺旧蔵説です。
制作時期についても異説が林立しており、論点は止利仏師の様式に近いかどうかに絞られます。つまり、七世紀前半の作か、中期か、後期の作かということですね。木屎漆(こくそうるし)を用いていること、耳の形、彩色法などが独自である一方で、光背の文様が法隆寺の蔵する伝橘夫人念持仏廚司中に安置される阿弥陀三尊像の頭光の文様に似ているなど、法隆寺とのつながりを重視する見解もあり、意見が分かれていました。
高柴氏は、正面観照性が強く、個々の部分を積み上げたようであって、厳かさを感じさせる厳しい造形をおこなっている止利様式と、木屎漆を用いて柔らな起伏を表現した百済観音とは、やはり時代が異なるとします。ただ、全く法隆寺とは関係がないとするのではなく、法隆寺に伝えられてきた早い時期の小型金銅像のうち、止利様式とは異なる様式のもののうちにその先駆を見いだします。
つまり、「柔らかで軽快な雰囲気」は、献納宝物第165号(辛亥年銘)や同143号に通じ、小さな頭部や長身痩躯の像容では同第151号や同156号(丙寅年銘)と共通し、垂直方向に浅く刻まれた衣文の構成は同143号などに似、反転する天衣は七世紀中頃とされる法隆寺金堂四天王像に近いとするのです。
そこで、成立年代については、「七世紀半ばから末の頃と考えられる。とくにより立体把握への意識が芽生えていることや、木屎漆の使用を勘案すると年代はやや降ると見てもよいであろう」と述べて結論としています。無難な見解ではないでしょうか。
前回は三経義疏の変格漢文について触れたため、その関連で、本題に入る前にベトナムにおける変格表記の例を紹介しておきましょう。その漢喃研究院の額です。

見てわかるように、形容する言葉が後に回るベトナム語の語順に随って「院・研究・漢喃」と書かれており、この通りの順で左からベトナム風の漢字音で発音します。ベトナムでは、こうした語順になっている個所を含む漢文が少数ながら見受けられます。
さて、メモを書きためてあるブログ材料のうち、今回は、久しぶりに法隆寺の仏像について論じた最近の論文をとりあげてみます。
高柴季史子「法隆寺百済観音像私考」
(『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要』第12号、2010年3月)
です。決定的な証拠や新しい見方とかはないものの、従来の研究史を整理したうえで穏健な見解が示されており、参考になります。
ほっそりした優美な姿で人気が高い百済観音は、古い文献には見えず、江戸時代の記録では金銅の仏菩薩像の第三番目、つまり、薬師三尊像、釈迦三尊像の次として、「虚空蔵菩薩。百済国ヨリ渡来。但し天竺像也」と記されていた由。
明治44年に寺の倉庫から正面に化仏を表した宝冠が見つかり、その虚空蔵菩薩の頭にぴたりと合うものであったため、観音菩薩であることが知られ、やがて「百済観音」と呼ばれるようになったとか。毎夜、灯明を奉ずると記されていることから、非常に尊重されていたことが知られます。
この百済観音は早くから法隆寺に蔵されていたのか、橘寺や中宮寺などの他寺から運び込んできたのか、諸説がありますが、この論文でも紹介したように、東野治之氏は法隆寺旧蔵説です。
制作時期についても異説が林立しており、論点は止利仏師の様式に近いかどうかに絞られます。つまり、七世紀前半の作か、中期か、後期の作かということですね。木屎漆(こくそうるし)を用いていること、耳の形、彩色法などが独自である一方で、光背の文様が法隆寺の蔵する伝橘夫人念持仏廚司中に安置される阿弥陀三尊像の頭光の文様に似ているなど、法隆寺とのつながりを重視する見解もあり、意見が分かれていました。
高柴氏は、正面観照性が強く、個々の部分を積み上げたようであって、厳かさを感じさせる厳しい造形をおこなっている止利様式と、木屎漆を用いて柔らな起伏を表現した百済観音とは、やはり時代が異なるとします。ただ、全く法隆寺とは関係がないとするのではなく、法隆寺に伝えられてきた早い時期の小型金銅像のうち、止利様式とは異なる様式のもののうちにその先駆を見いだします。
つまり、「柔らかで軽快な雰囲気」は、献納宝物第165号(辛亥年銘)や同143号に通じ、小さな頭部や長身痩躯の像容では同第151号や同156号(丙寅年銘)と共通し、垂直方向に浅く刻まれた衣文の構成は同143号などに似、反転する天衣は七世紀中頃とされる法隆寺金堂四天王像に近いとするのです。
そこで、成立年代については、「七世紀半ばから末の頃と考えられる。とくにより立体把握への意識が芽生えていることや、木屎漆の使用を勘案すると年代はやや降ると見てもよいであろう」と述べて結論としています。無難な見解ではないでしょうか。