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「嘘を積み重ねても学問にならないのですよ」と言いつつ嘘を語った講演CD:大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』(2)

2024年01月12日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 続きです。大山誠一氏の講演CDの2枚目では、飛鳥時代の本当の状況について語るに当たって、「歴史学というのはですね、信頼できる資料がないと始まらないんですね」と述べ、信頼できるのは『隋書』だと述べます。

 その『隋書』が信用できる理由として、裴世清がやって来て「倭王と何度も会ってるんですよ」と言うのですが、『隋書』では、裴世清が倭王と会話したという記録はあるものの、何度も会ったとは書かれていません。「何度も会って情報を得ていたと思われます」などと言うべきところを、横で見ていたように「何度も会ってるんですよ」と述べるのです。大山氏お得意の資料捏造です。

 大山氏は、その倭王とは飛鳥の最有力者であった蘇我馬子のことだと説くのですが、馬子の墓誌などは出ていないため、馬子に関する古い資料は『日本書紀』しかありません。つまり、大山氏は、推古が天皇であって聖徳太子が皇太子として活躍したと書く『日本書紀』は信頼できないとしておりながら、『日本書紀』が飛鳥における馬子の権勢について記している部分は信用するのです。

 『日本書紀』は蝦夷と入鹿、とりわけ入鹿のことを皇室をないがしろにする悪逆の者になっていったように描こうとしていますが、推古天皇の叔父である馬子については、「大臣は……武略が有り、弁才も有った。三宝を敬い……」と賞賛し、飛鳥川のほとりの邸宅中に池を作って小さな嶋を中に築いたため、「時の人は、嶋大臣と称した」と述べており、馬子が天皇だったことを嫌って隠そうとしているようには見えないんですけどね。

 また、『隋書』倭国伝では、倭王には妻がいたとし、後宮には女が六七百人いたと書いてあるとして、女性の推古天皇が倭王だったはずはないと述べ、『日本書紀』の記述はあやしいと説きます。

 『隋書』の記述が信頼できるのなら、後宮に女が六七百人いたという記述も事実ということになりますが、大山氏は、「話半分だとしてもたいしたものですね」として、その倭王とは石舞台に葬られた蘇我馬子だと述べます。

 これだと、『隋書』の記述は史実そのものでなく、「話半分」と受け止めなければならない大げさな書き方をしているとことになりますが、大山氏はそれには触れず、蘇我氏がいかに強大であったかを述べていきます。

 しかし、六七百人の半分もの女がいる広い後宮があったなら、その前に置かれた本来の宮(大殿)はそれとバランスがとれる程度には大きかったはずです。しかし、そんな巨大な宮の遺跡は飛鳥や斑鳩では発見されていません。

 唐代の白楽天の「長恨歌」は、各地から美女を献上させた玄宗当時の宮殿を想定し、「後宮の佳麗、三千人」と中国流の表現で詠っていますが、そもそも、古代日本の宮殿に「後宮」なるものが存在したのか。それらしい遺構は発見されていません。

 『隋書』には信頼できる部分と、異国の状況を中国風に受け止めて大げさに書いている部分があることを認めるべきでしょう。実際、そのことは、大山氏が編纂し、この講演録音の3年前に刊行された雑誌の聖徳太子特集に寄稿した榎本淳一氏が注意していたことでした(こちら)。

 大山氏は、文献をそのように慎重に扱うことをせず、自説に合わない部分は後世の捏造だとし、自説に都合の良い箇所だけ無批判に使うのです。

 馬子の権勢を強調する大山氏は、飛鳥寺については「蘇我馬子の氏寺なんです」と述べます。しかし、飛鳥寺が単なる氏寺ではないことは、天武9年(680)に諸寺院の食封を制限した際、飛鳥寺は天皇勅願の寺でないにもかかわらず国の大寺の一つとして尊重されてきたという理由で「官治」扱いにしたと、『日本書紀』が述べている通りです。

 飛鳥寺が建てられた頃は、官司制を整備しようとし始める時期であって、国家の様々な職務のほとんどは特定の氏族が担当していた時代ですので、外来の仏教は多くの渡来氏族を配下に置いていた蘇我氏が担当し、国家のための寺も建てたと見るのが学界の通説です。つまり、飛鳥寺が建てられたのは過渡期なのであって、いわゆる「氏寺」が建立されていくのはもう少し後になってからなのです。
 
 大山氏は、巨大な見瀬丸山古墳は蘇我稻目の墓らしいとし、石舞台の側の島庄に馬子の邸宅があり、甘樫の岡に馬子の子である蝦夷とその子の入鹿が住む邸宅があったと述べ、飛鳥の主人公は蘇我氏だったとして、馬子が大王だったと論じます。

 これは私の好きな作家である坂口安吾が、飛鳥の主人公は蘇我氏であって、蝦夷か入鹿が天皇だったろうと述べた説(こちら)をさらに前に持って来たものですね。

 大山氏は、稻目の墓である見瀬丸山古墳を起点として北に直進する下ツ道が建設され、それと直交する横大路も建設されたとし、蘇我氏の強大さを説くのですが、それ以前に建設され、飛鳥から斑鳩まで斜め一直線に伸びていた太子道には触れません。自説に都合が悪いことには触れないというやり方の一例です。見瀬丸山古墳(現在は五条野丸山古墳という呼び方が定着)については、欽明天皇の墓とする説も有力です。

 そして、飛鳥に墓が集中している蘇我氏と違い、推古天皇やその兄弟である用明天皇、そして聖徳太子の墓は飛鳥にはなく、磯長にかたまっていると指摘し、この地域は小さな墓がたくさんあって誰の墓だか分からず、聖徳太子の墓にしても、ある時期に聖徳太子の墓と定められたと説きます。

 これも事実と違います。聖徳太子の墓については平安後期には場所が分からなくなっていたとする史料がありますが、その史料はかなりの誇張ないし潤色があることが判明していますし、この磯長の地を自分と関係深い皇族の墓域としたのは推古天皇であって、夫の敏達天皇も兄弟の用明天皇もこの地に築陵されており、これも妹である推古天皇の指図でしょう。

 用明の子で推古の甥かつ娘婿であった聖徳太子の墓がこの地にあって不思議はないのであって、『日本書紀』も『法王帝説』も墓は「磯長(志奈我)」の地だとしており、10世紀初めの『延喜式』諸陵寮でも、推古天皇の皇太子で聖徳という名の皇子の墓が磯長にあって兆域は東西三町、南北二町とし、墓を守る守戸が三烟、指定されています。

 いずれにしても、磯長は小さな墓がたくさんあって誰の墓だか分からない、という状況ではありません。誰が埋葬されているのか分からない墓が多いのは、欽明天皇、天武・持統天皇・文武天皇などの陵が築かれた檜隈の地です。ここには岩屋山古墳、牽牛子塚、高松塚、マルコ山古墳、キトラ古墳、束明神古墳、中尾山古墳など、埋葬者不明の7世紀の古墳が集中しています。

 大山氏は最後に、『日本書紀』はなぜ聖徳太子を創作したか、また、後に法隆寺がどのように別のイメージの聖徳太子を作りだしたかについて述べていくに当たって、大化の改新がいかに大きな変革であったかを強調します。そして、蝦夷・入鹿が渡来人を活用して進めていた改革を、中大兄と中臣(藤原)鎌足がのっとったのだと説くのです。

 そのことを隠すために、中大兄と鎌足の子孫であって『日本書紀』を編纂した藤原不比等と長屋王が、蘇我氏以外の立派な人物、つまり聖徳太子や山背大兄王が改革を進めていたのを蘇我氏が邪魔し、山背大兄を殺したとして、蘇我氏を悪者に仕立てたのだと述べます。
 
 しかし、『日本書紀』では山背大兄が改革を進めていたことは全く記されていません。最後は民のことを思って戦わずして死んだと賞賛されていますが、それ以前の部分では、天皇になりたくて騒いだ未熟な人物として描かれています。

 一方、大臣の蝦夷は、そうした山背大兄ではなく、中大兄の父である田村皇子(舒明天皇)を皇位につけようとし、ひどく苦労したことが詳しく描かれているのです。時期は不明ですが、舒明天皇は蘇我馬子の娘である法堤郎女を妃として古人皇子を設けており、入鹿はこの古人を皇位につかせようとして山背大兄を殺害したとされています。これが、蘇我氏が立派な山背大兄の改革を邪魔したことになるんですか?

 そもそも、不比等が律令制作に関わっていたことは記録にありますが、不比等と長屋王が『日本書紀』編纂に関わったとする史料はありません。「~と考えられる」とか「~の可能性もある」と言うべきところを、氏は横で見ていたように「編纂しました」と述べるのです。

 それに、『<聖徳太子>の誕生』を書いた1999年頃は、大山氏は、不比等と長屋王と道慈が協同し、律令制における理想の天皇像を示すために、不比等が儒教面、長屋王が道教面、道慈が仏教面を担当して儒教・道教・仏教の聖人である<聖徳太子>を作り出し、唐に長く留学していた博学な道慈が『日本書紀』中の太子関連の記事を執筆したと述べていました。

 しかし、こうした主張については、皇太子のままで死んだ人がなぜ理想の天皇像となるのかとか、「憲法十七条」を含め、『日本書紀』の太子関連記述は初歩的な誤りを含む和習だらけであり、唐で16年も学んだ道慈が書いたはずがない、その他いろいろな批判を受けたせいか、2011年のこの講演CDでは、上記のような基軸となる主張はきれいさっぱり消えてしまっています。
 
 大山氏は、最後に、「真実は本当は苦いものかもしれない。私はそれを隠さず明らかにしたわけであります」と自信たっぷりに述べていますが、文献に書いてないことを史実であるかのように語り、自説に都合の悪いことには知らん顔をするのが大山氏のやり方であることは歴然としています。

 こうしたやり口が徐々に知られるようになったうえ、根拠に基づく批判がいろいろなされたため、自分の主張をこっそり訂正しているにもかかわらず、「私の説には反論がない」「私の説は学界に定着した」などと豪語し続けた結果、賛同する論文どころか、言及して批判する論文さえこの10年ほどは出なくなり、学界ではまったく相手にされなくなったということこそが、大山氏が直視すべき「苦い真実」ではないでしょうか。

 なお、平安時代には聖徳太子の墓が分からなくなっていたとする『諸寺縁起集』の記述が信頼できないことは、大山氏のこの講演の前から指摘されていましたし、聖徳太子の墓とされる叡福寺北古墳から持ち出されたと推定される夾紵棺の破片は、当時としてはきわだって豪華で精緻な作りになっていたことが報告されています(こちら)。太子の墓に関する研究状況は、近いうちに紹介します。

【追記】
聖徳太子の墓に関する部分や大山説批判に関する記述を一部改め、末尾で補足説明を加えておきました。

【追記:2024年1月14日】
太子の磯長の墓に関する文献について補足しておきました。

【追記:2024年1月16日】
蘇我氏が中大兄の父であって蘇我馬子の娘を妃とした舒明天皇やその間に生まれた皇子をいかに応援していたかが分かるように、蝦夷と入鹿の行動に関する記述を付け加えました。山背大兄は蘇我氏の血を引いてますが、蘇我氏の女性を妃としておらず、異母妹、つまり父である聖徳太子の娘を妃としており、上宮王家内で婚姻が完結していました。豪族の娘など、他にも妻はいたでしょうが。

【追記:2024年1月25日】
磯長の墓に関する記述を訂正しました。推古陵について、最愛の息子である竹田皇子の墓に合葬するよう命じたと書きましたが、『古事記』ではその墓は大野岡にあり、後に磯長に改装したとあって現代でも異説もあるため、この地の古墳に関する論文を紹介する別記事で説明します。

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