聖徳太子研究の最前線

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不比等が「憲法十七条」を捏造させたとする大山説への疑問

2010年07月13日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山誠一氏と氏が主催する『日本書紀』の研究グループは、論文集である大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)を刊行しました。続いて、大山氏が所属する中部大学の国際人間学研究所が編集・販売している雑誌、『アリーナ』の第5号(2008年8月、人間★社、2100円)でも、背表紙に「天翔る皇子、聖徳太子」と大きく銘打って、聖徳太子非実在論を中心とする関連論文を集めた特集を組みました。ただ、この特集に執筆している人たちの中には、大山説に賛成でない人や、その研究グループに入っていない人たちも多少含まれています。

 それにしても、「天翔る皇子、聖徳太子」という特集タイトルは、少女マンガの題名を思わせるロマンチックなものですね。特集の見出しのページには、特集の趣旨を説明する大山氏の短文が載せられていますが、大山氏は、『源氏物語』では光源氏の病を治療した高名な僧都が光源氏に「聖徳太子が百済から得た金剛子の珠数」を贈っていることに触れ、「太子の珠数は再生を象徴する。聖徳太子は、海の彼方から時空を超えて飛翔し人々を救う。天翔る皇子だ」としめくくっています。

 このうち、「時空を超えて」という表現は、聖徳太子慧思後身説が中国に与えた影響や、上宮王作とされる『勝鬘経義疏』が中国にもたらされ、中国僧である明空が注釈を著し、その注釈を円仁が日本に持ち帰ったことなどを精査した王勇さん(現在は、浙江商工大学日本文化研究所長)の著書、『聖徳太子 時空超越』(大修館書店、1994年)に基づくものでしょう。大山氏は、王勇さんのこの書物の名を挙げて引用することはありませんが、他の著作でも似た言い方を用いており、書名とほとんど等しい「時空を超越する」という表現を使った箇所もあります。

 「天翔る皇子」の方は、聖徳太子に関して多くの著作を発表している梅原猛氏が、市川猿之介のために書いた歌舞伎作品、「ヤマトタケル…天翔る心」に基づくものでしょう。実際、この作品では、皇子であるヤマトタケルは空を飛びますし、伝承としての聖徳太子は黒駒に乗って空を飛んだとされています。しかし、この特集に収録されている諸論文には、「天翔る皇子」というタイトルにふさわしい内容のものはありません。しいて言えば、早島有毅「一幅本三国菩薩・高僧・先徳・太子連坐像の成立と聖徳太子信仰」が近いかもしれませんが、同論文は「海の彼方から時空を超えて飛翔」する太子、といった華々しいイメージとはまったく無縁です。特集の巻頭に置かれた大山氏の論文「<聖徳太子>誕生の時代背景」にしても、不比等が天孫降臨神話を作ったとする議論が主であって、「天翔る皇子」などにはまったく触れていません。何のためのタイトルだったのでしょう?

 その大山氏と『日本書紀』研究のグループでは、次の論文集2冊を、先に『聖徳太子の真実』を刊行した平凡社から出すそうです。どんな題名になるのか、また大山氏が大山説の根底をなす道慈述作説への批判などにどう答えるのか、あるいはこれまで同様に無視し続けるのかが注目されます(大山説批判を含む私のこの数年の関連論文はすべて大山氏にお送りしており、このブログのこともお伝えしてあります)。刊行されたら、ここで紹介して個々の論文についてコメントしましょう。おそらく、大山氏は、この『アリーナ』の論文のように、聖徳太子については従来の自説を簡単にまとめるだけで、不比等が天孫降臨神話を作ったという点を中心にして書かれるものと予想しています。

 その場合、問題になるのは、不比等が『日本書紀』の最終編纂段階になってそうした神話を作ったとするなら、不比等の意向による捏造だという「憲法十七条」が天孫降臨に触れないどころか、「神」という言葉を用いて天皇の権威づけをしていないのはなぜか、という点です。そもそも、「憲法十七条」に限らず、聖徳太子の活動が描かれる推古紀では、神祇関係の記述がきわめて少ないことは、多くの研究者によって指摘されてきたところです。不比等と長屋王と道慈が、理想的な天皇像を示すために聖徳太子を創造し、不比等が「憲法十七条」を作らせたというのであれば、神話によって天皇を権威づける条を入れることなど、簡単だったでしょう。なぜ、そうしなかったのか。

 実際、推古紀では八年春二月条に、軍を派遣されて難詰された新羅が、「天上に神有[ま]します。地に天皇有します。是の二の神を除きてては、何[いづこ]にか亦た畏[かしこ]きこと有らむや」と上表して以後の忠誠を誓ったという、後代の造作くさい記事があります。この文句を少し変えて「憲法十七条」に入れれば、天皇を「神」として権威づけることができたはずです。ところが、「憲法十七条」ではそうしたことはしておらず、「天皇」の語も用いていません。

 なお、推古十五年春二月条は、推古紀が仏教関連記事ばかりである印象を薄めるための『日本書紀』編纂者の作為とも言われていますが、神祇を祭ることを怠ってはならないとして推古天皇が神祇を拝するよう命じ、皇太子と大臣とが百寮を率いて神祇を祭り拝した、とする記述が見られます。しかし、この箇所でも、「神祇」とあるのみであって、高天原も天照大神も天孫降臨も出てきません。なぜなのでしょう。

 聖徳太子を理想的な天皇像を示すものとしたいなら、推古天皇の命令とせず、聖徳太子自身に天孫神話を語らせ、「だから、仏教とともに、あるいは仏教以上に神祇を崇敬すべきです」と提案し実践した、などとすれば良かったのではないでしょうか。大山説によれば、推古を天皇としているのも捏造であって、実際には馬子が大王だったというのですから、どんな状況でもセリフでも自由に捏造できたはずです。そうしておけば、聖徳太子が江戸時代の儒学者や国学者たちに「仏教偏重で、神祇軽視だ!」と非難されることはなかったことでしょう。

 また、大山説では、聖徳太子関連記述や仏教関連記述の多くは道慈の筆とされて来た以上、天孫降臨神話などの作成にも道慈が関わっていたのかどうかについて、明確な見解を示してほしいところです。大山氏は、かつては道慈が神話にも関与したとしていましたが、最近の著作では、そうした点は曖昧になってきたように思われます。道慈が関わっていたとするなら、道慈は帰国してわずか1年ほどの短い期間に、太子関連記述や仏教関連記述を執筆しただけでなく神話作成まで担当したことになり、超人的な活躍をしたことになります。もし、道慈は関わっていなかったのであれば、いったい誰が神話関連の個々の文章を書いたのか、それとも老齢であって『日本書紀』完成のすぐ後に亡くなる不比等が自分でかなり書いたり、細かいところまで指示したのかが問題になります。いずれにせよ、『日本書紀』の項目ごとに文体分析をすれば、筆者の癖などはかなり見えてきますので、近いうちにNGSMというコンピュータ処理法によって比較分析をやってみる予定です。
 
 「憲法十七条」については、前半は儒教の『孝経』の枠組みを利用していること、そして仏教の威力によって群臣たちを押さえようとしていたことについては、拙論「伝聖徳太子「憲法十七条」の「和」の源流」(『天台學研究』10輯、2007年12月)で触れておきました。同雑誌のこの号は、韓国で行われた「和」に関する国際シンポジウムの報告集であって、入手しにくいため、このブログにPDFを置いておきます。

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