聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

津田左右吉説の歪曲

2010年07月26日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
[以下の議論については、2010年7月22日の夜に公開し、翌23日に訂正版を新たに公開したのですが、以後も、末尾に【7月24日 追記】【7月25日 追記】などと補足することが重なったため、今回は、それらの追記を本文に組み入れ、新たな内容も加えて全面的に書き直した版を公開するものです]

 大山氏は、最新の『天孫降臨の夢』(NHKブックス、日本放送出版協会、2009年)では、「憲法十七条」に関する津田左右吉の偽作説を紹介し、そのしめくくりとして、次のように述べています。

 つまりは、『日本書紀』編纂に携わった奈良時代初期の為政者らによって作られたというものであるが、この津田の理解は、今日では通説となっている。(24頁)

 しかし、津田はそんなことは言っていません。言っていない以上、そうした「津田の理解」が今日の通説となっているなどということは、あり得ません。なぜ、こうしたデタラメなことが言われるのか。

 大山氏は、「聖徳太子架空人物説」を広く世に問う出発点となった大山『長屋王家木簡と金石文』第三部第一章「<聖徳太子>研究の再検討」(吉川弘文館、1998年。初出は『弘前大学国史研究』100号・101号、1996年3月・10月)においても、似たような議論をしていました。氏は、「憲法十七条」について述べるに当たり、津田左右吉の『日本古典の研究』下巻に基づき、津田の偽作説の概要を三点に分けて説明しています。その第一は、第十二条に「国司国造」とあるものの、「国司」の語は大化以前ではありえないためであり、第二は、憲法は君・臣・民という中央集権的な三階級で説かれており、氏族社会であった推古朝にはふさわしくないためです。そして、その第三について、大山氏は次のように述べています。

 第三に、中国の古典から多くの語を引用しているが、これらは奈良時代の『続日本紀』(以下、『続記』と記す)や『書紀』の文章と似ている。したがって、「律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあった時代に政府の何人かが儒臣に命じ、名を太子にかりて、かゝる訓誡を作らしめ、官僚をして帰向するところを知らしめようとしたのであろう」というものである。私は、この津田氏の指摘はまったく妥当と思う。国司の語は大宝令以後と思われるが、それは編者の文飾としても、推古朝段階で国造と並んで百姓を統治する地方官はあり得ず、そのような地方官を前提とした訓戒は考えられない。結論として、津田説の通り、憲法十七条は、国史すなわち『書紀』の編者自身によって作られたものといってよいであろう。(218頁)

 以上です。津田の『日本古典の研究』下巻は、戦前の諸著作を編集し直したものであって、この箇所の初出は、発禁になった『日本上代史研究』(岩波書店、1930年)の第一篇です。思想制限が厳しかった戦前と違い、自由に発言できる戦後に刊行された『日本古典の研究』でも、「律令の制定、國史の編纂」を「律令の制定や國史の編纂」、「又た」を「また」、「かゞ」を「かが」、「支那」を「シナ」に改めるといった訂正をしてあるにすぎず、『日本上代史研究』とほぼ同文であって、主張が変わっていないことに驚かされます。

 裁判以後、また戦後における思想的な変化が無かったわけではないことは、家永三郎『津田左右吉の思想的研究』(岩波書店、1972年)が指摘している通りですが、それはともかく、『日本古典の研究』を引用するのであれば、もう少し前のところから引いてほしかったところです。「国司」という語は大化の改新以後でないとあり得ないと指摘した津田は、「憲法十七条」の「国司国造」という不自然な表現は、天武紀十二年の詔勅と持統紀元年十月条にも見えることを指摘し、「當時さういふいひ方が慣例となつてゐたらしく見える」としたうえで、以下のように述べていました(新漢字に直します)。

 然らば、この憲法の製作の時期と作者とは、どう考へられるかといふに、其の文字にシナの古典の成語が多く用ゐられてゐて、其の点に於いて続紀に見える詔勅や書紀の文章と類似してゐることを思ふと、かういふことが文筆を掌るものの間に一般の風習となつてゐた時代であることが推測せられ、また内容から考へて、其の作者は儒家の系統に属するものであつたらうと思はれる。……聖徳太子の作とはせられてゐるが、仏家から出たものではあるまい。思ふに、太子が聖者として尊崇せられ、またシナの文物を採用して冠位の制などを作り国政の上にも新施設をせられたことが伝へられてゐたため、律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあつた時代の政府の何人かゞ儒臣に命じ、名を太子にかりてかゝる訓誡を作らしめ、官僚をして帰向するところを知らしめようとしたのであらう。(187-188頁)

 すなわち、法隆寺金堂釈迦三尊銘などを信頼できる資料と見ていた津田は、聖徳太子が活躍し、尊崇されていたこと、少なくともそうした伝承が『日本書紀』編纂以前からあったことを史実として認めたうえで、「憲法十七条」については、用語や内容などの面から後代の作と推定していたのです。しかし、大山氏は、「太子が聖者として尊崇せられ……国政の上にも新施設をせられたことなどが伝へられていた」などの部分を省いて引用しています。

 ただ、大山氏の上記の箇所は、「憲法十七条」の偽作説を述べるのが主であって、津田の聖徳太子観そのものを論じたものでないため、ここでのテーマと直接関わらない点を省いたことは、許されるでしょう。問題は、「津田説の通り」と述べたうえで、「憲法十七条は、国史すなわち『書紀』の編者自身によって作られたものといってよいであろう」としている点です。これは、津田の主張とは全く異なります。

 「国司国造」という問題の表現は天武紀十二年の詔勅と持統紀元年条にも見えており、当時の慣用表現であるらしいと津田が述べていたこと、また「律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあつた時代」という言葉から見て、津田は、『古事記』や『日本書紀』の前身となる「帝紀」の撰録や律令の作成などを命じた天武朝、遅くても持統朝あたりまでの作と考えていたと見るのが自然でしょう。

 そもそも、不明な点の多い持統三年の『飛鳥浄御原令』はともかく、『大宝律令』にしても文武四年(701)に完成して翌年施行されています。大山氏は、「国史すなわち『書紀』」と述べているため、津田の言葉を、『養老律令』や『日本書紀』を編纂しつつあった時期、と解釈するのでしょうが、『養老律令』は、唐の律令を模倣した既存の律令を日本の実状に合うよう改修する試みです。また、遅れていた『古事記』も、712年には完成して天皇に献上されています。

 津田は、「律令の制定や国史の編纂」と言っているのであって、「律令の改修や新たな国史の編纂」などとは言ってません。また、「企てつゝあった」という表現からは、「これまで無かったものを作り上げようとしていた」という響きが感じられます。津田の言葉は、やはり、最初の律令や最初の国史の編纂が計画されていた頃、あるいはそれらの編纂を始めたばかりの時期、を意味すると見るのが自然でしょう。

 実際、津田は、上の文章のすぐ後で、「多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐることから類推すると、これもまた同様に見られないでもないやうであるが、あまりに特殊のものであることを思ふと、上記の如く解するのが妥当であらう」(128-129頁)と述べています。つまり、『日本書紀』に見える天皇の詔勅の多くは『日本書紀』の編者が作ったものであり、「憲法十七条」もそうした例のように見えないこともないが、「憲法十七条」はあまりにも特殊なものであるため、上に述べたように、「律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあつた時代の政府の何人かゞ儒臣に命じ」て作らせたと考えるのが妥当だろう、というのです。

 『日本書紀』の編者の作ではないだろうというのが、津田の判断ですので、「企てつゝあつた時代」は『日本書紀』の編纂作業以前ということになります。それにもかかわらず、大山氏は、「津田説の通り、憲法十七条は、『書紀』編者自身によって作られたものといってよいであろう」と主張するのです。しかも、大山氏は、どの著作でも、この「多くの詔勅が……」の部分について触れることがありません。

 これは、許される省略の範囲を超えています。聖徳太子は、権力者の不比等と長屋王、そして僧侶の道慈が創造した架空の人物だとする自説、そして、「憲法十七条」は儒教主義の不比等と儒教にも通じていた道慈が作ったという自説の後ろ盾とするため、津田左右吉という権威を利用しようとした歪曲というほかありません。あるいは、逆に、「儒臣」が作ったと考えられると津田が述べていたため、老荘思想にも関心があった不比等のことを儒教主義であったと説くようになったのかもしれません。
 
 もし、意図的な歪曲ではないというのであれば、大山氏は「自説に不利な資料を目にしても、自説を支持する内容が示されているように読んでしまう傾向がある人物」ということになります。いずれにせよ、大山氏の聖徳太子架空人物説は、その成立当初から基本文献の誤った解釈に基づいていたのです。津田の『日本古典の研究』のような最重要の文献、それも現代日本語で書かれた文献についてすらこうである以上、漢文や古文で書かれた様々な資料に関してはさらに危ないであろうことは、容易に想像できるでしょう。

 ここで、大山氏の他の著作では、この問題についてどう述べているか、見てみましょう。まず、『長屋王家木簡と金石文』の聖徳太子論議を一般読者向けにした『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、1999年)では、「ここは、むしろ、『日本書紀』の編者自身の手になった文章と考えるのが妥当なのではないか、津田氏はそう主張されたのである」(75頁)となっています。津田説をねじ曲げ、『日本書紀』の編者自身が書いたとしているものの、「と考えるのが妥当なのではないか、津田氏はそう主張された」とあって、津田は推測の形で述べたとしています。

 ところが、『聖徳太子と日本人』(角川ソフィア文庫、2005年。2001年に風媒社から刊行された『聖徳太子と日本人』に一部加筆)では、「津田左右吉が……憲法の文章は奈良時代にできた『日本書紀』や『続日本紀』の文章と似ているから、『日本書紀』の編者が聖徳太子の名を借りて、官僚たちに訓戒を与えたものであると結論した」(20頁)と述べており、「結論した」という強調した言い方になっています。

 そして、最初に紹介した最新の『天孫降臨の夢』では、「つまりは、『日本書紀』編纂に携わった奈良時代初期の為政者らによって作られたというものであるが、この津田の理解は、今日では通説となっている」(24頁)と断言されていました。「奈良時代初期の為政者らによって作られた」というのが津田の文章の意味だとするに至ったわけです。しかも、そのような津田の主張は、「今日では通説となっている」と明言されています。「憲法十七条」を後代の作と見る津田説を支持して太子作を疑う研究者が多い、といった書き方ならあり得るでしょうが、奈良時代初期の為政者が自ら作ったと津田が考えていたとするような見方が主流になっているとは言えません。

 大山氏は津田説を評価し、その方向を受け継いで批判的な研究を進めているようでありながら、実際にはそうではないことは、この件が示す通りです。私は聖徳太子関連の津田説については反対の場合が多いものの、津田が創設した研究室で大学院時代を過ごした者としては、津田説を自説に都合良いように歪曲して利用するようなやり方を放置しておくことはできません。津田説に対する学問的な批判なら評価しますが、津田説に賛成だと明言していたとしても、歪曲しているのであれば、そうした議論は学問とは呼べないからです。

 意図的であれ無意識であれ、自分たちの立場にとって都合良く歪めたものを津田説だとして宣伝している点では、程度は違うものの、津田説は凶悪無比の大逆思想だ、マルクス主義の唯物史観だなどと大げさに言い立てて攻撃した蓑田胸喜たちと同類であるように見えます(実際には、津田は天皇家に対する敬愛の情が強かったうえ、唯物史観には反対でした)。

 ほかにも、大山氏の聖徳太子架空人物説が、戦前における国家主義の聖徳太子礼讃者たちの主張と似ている点があります。

 たとえば、津田は「憲法十七条」は中国の文献を模倣しただけで各条の具体的な実施を考えていない「抽象的」で「空疎」な文章と見ていたのに対し、小野清一郎によれば、中国思想と仏教に通じていた天才的な哲人政治家である聖徳太子が「日本精神」に基づき、ローマ法などより高次で日本的な内容の「憲法十七条」を格調高い文章で作り上げたことになり、大山説では、日本独自の天皇制を作り出した陰謀の天才、藤原不比等と、中国思想・仏教・唐代の皇帝のあり方に通じていて「優れた文章力を持っていた」道慈が、未開な時代の凡庸な厩戸王を聖徳太子という聖人にでっちあげ、その聖人の作と称する「憲法十七条」を捏造して日本風な王権の根拠を示そうとしたとされるのです。

 小野と大山氏とでは、飛鳥時代の日本の文化度や聖徳太子に対する評価は正反対であるものの、発想そのものが似ていることは明らかでしょう。大山氏の聖徳太子否定説は、国家主義者たちの聖徳太子礼讃を裏返したような性格を持っているのです。「憲法十七条」は日本精神に基づくとする小野と、天孫降臨神話を作った不比等が捏造させたとする大山氏は、それなら「憲法十七条」が神話によって天皇を権威づけていないのはなぜか、という理由をうまく説明できないでいる点も、共通している面の一つです。

 なお、発禁になった『日本上代史研究』について言えば、私が持っている初版は、「所蔵印あり。傍線少々あり」という古本をネット上で格安で購入したものですが、届いた本を見た時は、内表紙に「教学局図書」という5センチ四方の大きな朱印が押してあったので驚きました。その左下に押された青スタンプ内は、2行目に数字が赤印で、4行目に数字が黒ペンの手書きで入れられ、

「教学局図書
和 2692
 思想課
共 1 冊」

となっています。しかも、本文のうち「憲法十七条」に関する箇所は、最初の頁が折ってあり、偽作説関連の所には薄い赤線が引かれていました。この赤線は、教学局(文部省の外局。後に省内の内局に編成換え)が戦後に解体された際に流出したものを誰かが入手し、赤線を引いたのかもしれませんが、国家主義的な思想指導の中心となり、強大な力をふるった教学局の思想課の所員が、内容をチェックしながら読んだことは確かです。教学局が購入したのは、小野清一郎や蓑田胸喜たちが津田を攻撃する前なのか後なのか、気になるところです。「和」は「和書」ということでしょうが、その番号が 2692 とあるところから見ると、あまり早い時期の購入ではなさそうですが。

 文部省が昭和十年頃から盛んに出すようになった国家主義路線の聖徳太子関連の小冊子については、別に書きます。

『日本書紀』の聖徳太子は本当に儒教の聖人か?

2010年07月18日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 聖徳太子は、『日本書紀』の最終編纂段階において、中国の聖天子に匹敵するような理想的天皇像を示すために、儒仏道三教の聖人として創造されたのだ、そんな人物はいなかったのだ、というのが大山氏の「聖徳太子架空人物説」ですが、疑わしい点の一つが太子=儒教聖人説です。 『日本書紀』では、厩戸皇子が「聖」であることが異様なまでに強調されていることは事実です。ただし、項目ごとに儒仏道の三教が完全に区別されて説かれているわけではありません。たとえば、片岡山飢人説話においては、世間の人々は、衣だけ残して墓から姿を消したその飢人を、太子が「真人」あると見抜いていたことに驚き、「『聖は聖を知る』というのは、本当のことだった」と言い合った、と記されています。 「真人」で尸解となれば、仙人の系統ということになりますが、凍え飢えている者に衣食を与えるのは、儒教の聖王の仕事です。実際、「聖は聖を知る」云々の部分は、中国の類書(百科事典的文例集)の「聖」の項目を利用して書かれています。手当たり次第というと言葉が悪いものの、『日本書紀』は、これまで考えられてきた以上に類書を利用し、様々な思想系統の文章を切り貼りして書かれているのです。 大山氏が儒教的な箇所の代表とするのは「憲法十七条」ですが、この「憲法十七条」は儒教・仏教・法家・老荘などの思想が混じっていることで有名です。私自身は、「憲法十七条」は『呂氏春秋』のように雑家と言われる諸系統の思想が混合した書物も利用している可能性があると書いたことがあります。つまり、『日本書紀』の聖徳太子関連記述は、一つの項目においてすら、儒教の聖人というイメージで押し通されていないのです。 それどころか、本当に儒教の聖人として描くつもりであったなら、中国人であれば書くはずがないことが『日本書紀』には描かれています。すなわち、厩戸皇子が崇峻天皇を弑逆した蘇我馬子とともに政治を行なったことです。これは、聖人どころではなく、儒教の教えに背く反道徳的な行為です。だからこそ、江戸時代の儒者たちは厩戸皇子を悪逆な人物として非難したわけです。しかし、儒教の立場からそうした批判がなされるであろうことは、当然、予想できたはずです。だったら、なぜ、そのような設定にしたのか。 大山誠一「『日本書紀』の構想」(大山誠一編『聖徳太子の真実』、2003年)では、聖徳太子を架空の人物とするだけでなく、当時は実際には蘇我馬子が「大王」であったのに、『日本書紀』はそれを隠して用明・崇峻・推古が天皇であったように記したのだ、とされています。つまり、天皇としての用明・崇峻・推古はいなかったのであって、『日本書紀』は捏造に捏造を重ねているというのです。それほど自由勝手に捏造することができたのなら、なぜ、厩戸皇子を非の打ち所のない聖人とする設定にしなかったのでしょう。 厩戸皇子は少年の身でありながら横暴に振る舞う馬子を戒めた、といった記述くらいあっても良さそうに思われますが、そうした記述はまったくありません。理想の天皇像を示すために創造されたという皇太子が、天皇を暗殺させた大臣と常に一体となって活動しているというのは、大変な問題ではないでしょうか。厩戸皇子が活躍していた間は、逆臣の馬子は退けられ、厩戸皇子が死んだら馬子や蝦夷が我が物顔にのさばり始めた、といった設定にすることもできたでしょう。そうなっていないのは、どういう理由によるものなのか。 中でも、「皇太子と嶋大臣(馬子)、共に議[はか]りて、天皇記及び国記」その他を編纂したなどというのは、二人の仲の良さを示しているような書き方です。史書というのは、『春秋』が示すように乱臣賊子に筆誅を加えて道義を明らかにするためのものだと教えられてきた中国人が、儒教的な聖人だという皇太子が主君を弑逆した大臣と相談して一緒に国史を編纂した、と書いてあるのを見たら、驚いてひっくり返るのではないでしょうか。 しかも、「皇太子嶋大臣共議之、」とあるうち、「之」は「議[はか]りて」の「て」に当たるものであって、朝鮮・日本でよく用いられ、『日本書紀』でも多く見られる中止・終止の用法であり、倭習の一つです。この文章の前では国史編纂のことは触れられていませんので、「之」を「これ」という代名詞と見て「之を議して」と訓むことはできません。 つまり、『日本書紀』については、いろいろ潤色したり机上で都合よく創作したりした部分が多いのは確かであるものの、『日本書紀』の立場にとって困る事柄がかなり記録されていること、それも倭習だらけの文体で書かれていることも事実なのです。これについてどう考えるのか。中国の儒教に通じ、漢文に熟達している人物が完璧に捏造しておれば、こうした問題はなかったでしょう。

【2022年4月9日:付記】
 他のところでも書いておいたのですが、儒教が尊ぶ徳目は、「仁」や「孝」です。そのため、『日本書紀』で神格化されている天皇の代表である仁徳天皇は、「仁孝」であったと強調されていますが、『日本書紀』は厩戸皇子を神格化して描いておりながら、父に対して「孝」であってとか、「仁」の心を持っていたなどとは、まったく書いていません。
 また、儒教は上下の道徳規範である「礼」と、礼による緊張・対立を上下の異なる音のハーモニー(和音)でなごませる「楽」を教育の柱としているものの、「憲法十七条」は「礼楽」を強調した中国古典の表現を用いながら、「礼」だけを説いて「楽」の部分を省いていますし(最近発見したこの件については、こちら)、「孝」についても説いていません。寝食を忘れるほど音楽好きであって「楽」を重視していた孔子が「憲法十七条」を読んだら、「こんなのは儒教ではない!」と怒るでしょう。

倭習は道慈述作説否定の根拠にならないか?

2010年07月15日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 森博達さんや私は、『日本書紀』の聖徳太子関連記述には倭習が多いため、唐で16年も学んだ道慈の述作ではありえないとしているのですが、大山氏からの反論はありません。「倭習はそうした判断をする場合の有力な根拠にはならない」と考える人もいるようですので、大山氏もそう思っておられるのでしょうか。根拠にならない理由は、日本に長くいる外国人であっても、日本語を完全に話したり書いたりできない人が多いのだから、唐で長く勉強したとしても、母国語でない以上、間違いがあって当然だ、ということのようです。

 この問題について考えるうえで面白い本を、森博達さんが教えてくれましたので、取り寄せてみました。

志翹『《入唐求法巡礼行記》詞{サンズイ+匚}研究』
(中国社会科学出版社、北京、2000年)

です。本書は、唐代の口語・俗語を専門とする中国人研究者が、円仁の『入唐求法巡礼行記』四巻に見える用例について研究するとともに、頻出する漢文らしからぬ表現、つまり倭習について論じたものです。

 円仁は入唐当初は会話が十分にできず、あるいは方言の問題もあったのかもしれませんが、中国僧としばしば筆談しています。そうした状況が日記の文章にも反映しており、志翹氏によれば、『巡礼行記』の巻一と巻二には誤った表現が目立つそうです。しかし、氏は、円仁の漢語のレベルは次第に向上していったとしており、「~箇」という量詞の誤用については、「就逐漸減少、以至消失了」(80頁)と述べています。つまり、徐々に少なくなっていき、ついには無くなるに至った、というのです。

 これは重要な指摘です。「一冊の本」「二足の靴」「三頭の馬」、”a sheet of paper””two pairs of glasses”などというように、品物の数を表す表現というのは、外国人にとって厄介なものですが、円仁は留学生活が長くなるにつれて、その類の間違いが減っていき、代表的な量詞である「箇」については誤用がついに無くなった、というのですから、円仁の精進ぶりがうかがわれます。

 むろん、日本語における「は」と「が」の使い分けのように、非常に微妙であって、日本に10年、20年いて日本語ですらすら論文が書ける外国人でも時々間違える例もありますが、『日本書紀』の聖徳太子関連記述に見える倭習の多くは、そんな高級なレベルの間違いではありません。和風な言い回しをそのまま漢字にしたため否定詞の位置が違っている、といったごく初歩的なものです。

 美文の漢文で書こうとして間違った場合もあるでしょうが、『日本書紀』が材料とした資料が「もともとそうした表記法で書かれていた」、あるいは、『日本書紀』編纂者の一部も、前から馴染んでいた「そうした表記法で書いた」、と言うべき場合が多いのかもしれません。『日本書紀』が利用した百済系の資料にそうした変則な語法が多く見られることは、森さんの『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)が指摘している通りです。

 円仁は在唐12年であり、『巡礼行記』は、基本的な性格としては、自分の心覚えのために書いた日記です。一方、道慈は在唐16年であって、実際には大がかりな法要としての性格が強いのでしょうが、唐の宮中に百人の僧が招かれて『仁王経』の講釈を行なった際、その一人に選ばれたこともあるうえ、『日本書紀』は国家の正史です。しかも、大山説によれば、そのうちの聖徳太子関連記述は、中国の聖天子に匹敵しうる理想的な天皇像を示すために創作されたとされています。

 そのような重要な文を道慈が書くとなれば、明らかに和風な文体で書くはずがありません。道慈の漢語能力が円仁と同程度であれば、もちろんきちんとした漢文で書いたでしょうし、あるいは円仁より多少劣っていたとしても、中国の文献を切り貼りするなどして、美文の漢文に仕立てたはずです。それでも倭習は残ることでしょうが、「二箇の本」とか「三つの馬」といったレベルの初歩的なミスをするはずがありません。
 
 大山氏の最新の著書、『天孫降臨の夢』(日本放送出版、2009年)では、道慈は不比等・長屋王とともに「『日本書紀』の方向性を示し得るリーダー」の一人だったとしています(57頁)。しかし、そうした主張は成り立たないことは、このブログで前に書いた通りです。そんな初歩的なミスをたくさん見逃していたとなれば、「こうした方向で書け」と指示だけしておいて、担当者たちが書いてきた倭習だらけの文章を読んで直すこともなかった、ということになるからです。そのような道慈を、国家の正史の「リーダー」と呼べるでしょうか。
 
 そもそも、大山氏は、『聖徳太子と日本人』(角川ソフィア文庫版、2005年)では、道慈の役割を強調して、「聖徳太子関係の記事のほとんどが彼によって記されたことだろう」と述べ、「ということは、不比等や長屋王の意向を受けつつも、実質的に聖徳太子を創造したのは道慈だったということになる」(117頁)と説いていました。もし道慈の位置づけに関する考えが変わったのであれば、次の論文では、きちんと説明してもらいたいところです。
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不比等が「憲法十七条」を捏造させたとする大山説への疑問

2010年07月13日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山誠一氏と氏が主催する『日本書紀』の研究グループは、論文集である大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)を刊行しました。続いて、大山氏が所属する中部大学の国際人間学研究所が編集・販売している雑誌、『アリーナ』の第5号(2008年8月、人間★社、2100円)でも、背表紙に「天翔る皇子、聖徳太子」と大きく銘打って、聖徳太子非実在論を中心とする関連論文を集めた特集を組みました。ただ、この特集に執筆している人たちの中には、大山説に賛成でない人や、その研究グループに入っていない人たちも多少含まれています。

 それにしても、「天翔る皇子、聖徳太子」という特集タイトルは、少女マンガの題名を思わせるロマンチックなものですね。特集の見出しのページには、特集の趣旨を説明する大山氏の短文が載せられていますが、大山氏は、『源氏物語』では光源氏の病を治療した高名な僧都が光源氏に「聖徳太子が百済から得た金剛子の珠数」を贈っていることに触れ、「太子の珠数は再生を象徴する。聖徳太子は、海の彼方から時空を超えて飛翔し人々を救う。天翔る皇子だ」としめくくっています。

 このうち、「時空を超えて」という表現は、聖徳太子慧思後身説が中国に与えた影響や、上宮王作とされる『勝鬘経義疏』が中国にもたらされ、中国僧である明空が注釈を著し、その注釈を円仁が日本に持ち帰ったことなどを精査した王勇さん(現在は、浙江商工大学日本文化研究所長)の著書、『聖徳太子 時空超越』(大修館書店、1994年)に基づくものでしょう。大山氏は、王勇さんのこの書物の名を挙げて引用することはありませんが、他の著作でも似た言い方を用いており、書名とほとんど等しい「時空を超越する」という表現を使った箇所もあります。

 「天翔る皇子」の方は、聖徳太子に関して多くの著作を発表している梅原猛氏が、市川猿之介のために書いた歌舞伎作品、「ヤマトタケル…天翔る心」に基づくものでしょう。実際、この作品では、皇子であるヤマトタケルは空を飛びますし、伝承としての聖徳太子は黒駒に乗って空を飛んだとされています。しかし、この特集に収録されている諸論文には、「天翔る皇子」というタイトルにふさわしい内容のものはありません。しいて言えば、早島有毅「一幅本三国菩薩・高僧・先徳・太子連坐像の成立と聖徳太子信仰」が近いかもしれませんが、同論文は「海の彼方から時空を超えて飛翔」する太子、といった華々しいイメージとはまったく無縁です。特集の巻頭に置かれた大山氏の論文「<聖徳太子>誕生の時代背景」にしても、不比等が天孫降臨神話を作ったとする議論が主であって、「天翔る皇子」などにはまったく触れていません。何のためのタイトルだったのでしょう?

 その大山氏と『日本書紀』研究のグループでは、次の論文集2冊を、先に『聖徳太子の真実』を刊行した平凡社から出すそうです。どんな題名になるのか、また大山氏が大山説の根底をなす道慈述作説への批判などにどう答えるのか、あるいはこれまで同様に無視し続けるのかが注目されます(大山説批判を含む私のこの数年の関連論文はすべて大山氏にお送りしており、このブログのこともお伝えしてあります)。刊行されたら、ここで紹介して個々の論文についてコメントしましょう。おそらく、大山氏は、この『アリーナ』の論文のように、聖徳太子については従来の自説を簡単にまとめるだけで、不比等が天孫降臨神話を作ったという点を中心にして書かれるものと予想しています。

 その場合、問題になるのは、不比等が『日本書紀』の最終編纂段階になってそうした神話を作ったとするなら、不比等の意向による捏造だという「憲法十七条」が天孫降臨に触れないどころか、「神」という言葉を用いて天皇の権威づけをしていないのはなぜか、という点です。そもそも、「憲法十七条」に限らず、聖徳太子の活動が描かれる推古紀では、神祇関係の記述がきわめて少ないことは、多くの研究者によって指摘されてきたところです。不比等と長屋王と道慈が、理想的な天皇像を示すために聖徳太子を創造し、不比等が「憲法十七条」を作らせたというのであれば、神話によって天皇を権威づける条を入れることなど、簡単だったでしょう。なぜ、そうしなかったのか。

 実際、推古紀では八年春二月条に、軍を派遣されて難詰された新羅が、「天上に神有[ま]します。地に天皇有します。是の二の神を除きてては、何[いづこ]にか亦た畏[かしこ]きこと有らむや」と上表して以後の忠誠を誓ったという、後代の造作くさい記事があります。この文句を少し変えて「憲法十七条」に入れれば、天皇を「神」として権威づけることができたはずです。ところが、「憲法十七条」ではそうしたことはしておらず、「天皇」の語も用いていません。

 なお、推古十五年春二月条は、推古紀が仏教関連記事ばかりである印象を薄めるための『日本書紀』編纂者の作為とも言われていますが、神祇を祭ることを怠ってはならないとして推古天皇が神祇を拝するよう命じ、皇太子と大臣とが百寮を率いて神祇を祭り拝した、とする記述が見られます。しかし、この箇所でも、「神祇」とあるのみであって、高天原も天照大神も天孫降臨も出てきません。なぜなのでしょう。

 聖徳太子を理想的な天皇像を示すものとしたいなら、推古天皇の命令とせず、聖徳太子自身に天孫神話を語らせ、「だから、仏教とともに、あるいは仏教以上に神祇を崇敬すべきです」と提案し実践した、などとすれば良かったのではないでしょうか。大山説によれば、推古を天皇としているのも捏造であって、実際には馬子が大王だったというのですから、どんな状況でもセリフでも自由に捏造できたはずです。そうしておけば、聖徳太子が江戸時代の儒学者や国学者たちに「仏教偏重で、神祇軽視だ!」と非難されることはなかったことでしょう。

 また、大山説では、聖徳太子関連記述や仏教関連記述の多くは道慈の筆とされて来た以上、天孫降臨神話などの作成にも道慈が関わっていたのかどうかについて、明確な見解を示してほしいところです。大山氏は、かつては道慈が神話にも関与したとしていましたが、最近の著作では、そうした点は曖昧になってきたように思われます。道慈が関わっていたとするなら、道慈は帰国してわずか1年ほどの短い期間に、太子関連記述や仏教関連記述を執筆しただけでなく神話作成まで担当したことになり、超人的な活躍をしたことになります。もし、道慈は関わっていなかったのであれば、いったい誰が神話関連の個々の文章を書いたのか、それとも老齢であって『日本書紀』完成のすぐ後に亡くなる不比等が自分でかなり書いたり、細かいところまで指示したのかが問題になります。いずれにせよ、『日本書紀』の項目ごとに文体分析をすれば、筆者の癖などはかなり見えてきますので、近いうちにNGSMというコンピュータ処理法によって比較分析をやってみる予定です。
 
 「憲法十七条」については、前半は儒教の『孝経』の枠組みを利用していること、そして仏教の威力によって群臣たちを押さえようとしていたことについては、拙論「伝聖徳太子「憲法十七条」の「和」の源流」(『天台學研究』10輯、2007年12月)で触れておきました。同雑誌のこの号は、韓国で行われた「和」に関する国際シンポジウムの報告集であって、入手しにくいため、このブログにPDFを置いておきます。


大山誠一説における「藤原不比等・長屋王・道慈」観の問題点

2010年06月24日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山説では、律令体制の確立に努めた藤原不比等が儒教、高貴な生まれで神秘的な思想に傾倒していた長屋王が道教、長い留学を終えて唐から帰ったばかりの三論宗の学僧、道慈が仏教の面を担当し、この三人で理想的な聖天子としての聖徳太子像を創造したとしています。

 しかし、漢字文化圏諸国において漢字を学ぶ人は、誰でも儒教を学んでいました。また、「道教」と言ってしまうと問題ですが、老荘思想や神仙思想であれば、知識人の多くは教養としてある程度の知識を身につけていました。仏教の場合は日本はそれ以上であって、国家の方針として仏教が受容された後は、中国のように儒教や道教が自立して仏教と対立することがなかったこともあって、非常に熱心に学ばれたようです。天皇の「奉為[おんため]」と自らの父母などの追善を願ってなされる造寺造像や法会は、国家に対する忠誠を示す証拠となっていたことも見逃せません。

 ところが、不比等=儒教、長屋王=道教、道慈=仏教、という役割分担の図式を説く大山氏は、そうしたことに触れません。『日本書紀』の仏教伝来の記事では、『金光明最勝王経』の表現を利用して、仏教の素晴らしい法は儒教の聖人である「周公・孔子」すら知らないと明言されているため、これは最新訳である『最勝王経』をもたらした道慈が書いたのであって、僧侶である道慈は「大変な儒家嫌い」であったとするのです。

 しかし、そうした人物が、「憲法十七条」のように仏教・儒教・法家・老荘などの思想が混在している文献、それも儒教色がかなり濃厚な文献を書くでしょうか。唐代でも、僧侶の上層部は道教とは対立しつつも、儒教に対してはかなり融和的でした。いわば、儒教を仏教の下位に置いて世俗の教えにとどまると位置づけつつも、現実における儒教の役割を認めていたのです。もし道慈がひどい儒教嫌いであって「憲法十七条」を書いたとしたら(私は文体から見てありえないと考えていますが)、「憲法十七条」はもう少し違った風になったのではないでしょうか。

 道慈自身は儒教嫌いであったものの、不比等の意向で儒教的な要素を盛り込まされたのだという反論がなされるかもしれませんが、だったら、「憲法十七条」については早くから法家的な要素が指摘されていること、是非の論議など、『荘子』を思わせる箇所もあることなどは、どう説明するのでしょう。それらの部分も不比等の指示なのでしょうか。大山氏は、「憲法十七条」は儒教が基調だと述べる一方で、仏教によらなければ悪はただせないという箇所などは、儒家嫌いの道慈ならでは文章だなどとするのみであって、これまで研究の蓄積がある法家的な箇所や『荘子』風な箇所については、詳しく検討していません。

 次は、長屋王です。長屋王のサロンでは、老荘思想、神仙思想にもとづく漢詩が盛んに詠まれていたことは事実です。しかし、長屋王が仏教と無縁であったわけではありません。『日本霊異紀』では、僧侶を供養する大がかりな法会の際に、比丘にまじって飯を得ようとした沙弥の頭を長屋王が打って血を流したため、護法善神に嫌われ、讒言を受けて自殺させれるに至ったのであり、身分の高さを誇ったこうした行為が自殺に追い込まれた要因だ、とする説話も見えていますが、一方では長屋王は熱心な仏教信者であったとする資料も残されています。長屋王が書写させた多くの経典もその一つですし、鑑真の伝記である『唐大和上東征伝』によれば、日本への来訪を懇願された鑑真が、「長屋王は仏教を尊び、袈裟を千領作って唐の僧に布施した。その襟には、『山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁』と刺繍してあった」と述べているのは、有名な話です。しかし、大山氏は長屋王は道教好みであったという点を強調するだけであって、こうした話にまったく触れません。

 その「道教好み」という点も記述の仕方には問題があります。大山説の出発点となった『長屋王木簡と金石文』(1998年)では、道教的な聖徳太子像の代表例とされた『日本書紀』の片岡山飢者説話の部分を説明する際は、2度も「尸解仙する」という言い方をしています(267頁)。しかし、「尸解仙」とは、そうした神秘的な死に方を示した仙人のことなのですから、「~する」というのであれば、「尸解する」というのが普通です。「尸解する」とその人は「尸解仙」とみなされるのです。仏教で似た例を挙げると、「往生する人」が「往生人」ですが、「尸解仙する」というのは、「往生人する」と言うのと同じくらい奇妙な表現です。もし、奈良朝の浄土思想に関する画期的新説と自称する論文を私が読むとしたら、その論文が「往生人する」という表現を2度用いているのを見た段階で、私は著者の素養はその程度のものと判断して読むのをやめるでしょう。

 さらに問題なのは、大山氏が儒教指向であったとする藤原不比等です。不比等の息子たちが長屋王のサロンに参加し、老荘的、神仙的な漢詩を盛んに作っていたことはよく知られていますが、そうした傾向は不比等自身にも認められます。たとえば、最初の勅撰漢詩集である『懐風藻』では、不比等の漢詩を五首収録しています。第2首が「隠逸」に触れているのは、そうした人物ですら現在の聖朝に仕えるだろうというものですので、儒教的立場の作としても、第3首と第4首は神仙の地とされた「吉野に遊ぶ」と題する漢詩であって、両首とも鶴に乗る神仙に触れており、第5首では七夕にあたっての織女の悲しみを詠っています。儒教的な内容とは言えません。

 最も注目すべき第1首目である「元日、應詔 一首」は、こうなっています。

   正朝觀萬國 元日臨兆民 齊政敷玄造 撫機御紫宸
   年華已非故 淑氣亦惟新 鮮雲秀五彩 麗景耀三春
   濟濟周行士 穆穆我朝人 感徳遊天澤 飮和惟聖塵

 天皇の命によって詠んだ作だけに、元日に天皇は万国の民をみそなわし、多くの国民に臨みたまうという句で始め、瑞祥を示す春のめでたい景色を描き、我が朝にはすぐれた人物で満ちているとし、徳の高い天皇のみ恵みのおかげで人々は平和を楽しんでいる、といったお祝いづくしの儒教的な内容ですが、末尾の「飲和」が『荘子』則陽篇に基づくことは早くから指摘されています。つまり、儒教一本槍ではないのです。

 さらに、胡志昴「藤原門流の饗宴詩と自然観」(辰巳正明編『懐風藻--日本的自然観はどのようにして成立したか)』、笠間書院、2008年)によれば、末尾に見える「聖塵」の語も『荘子』に基づくことが指摘されています。すなわち、『荘子』逍遙遊篇では、荘子が、神人というのは、その塵や垢で古の聖帝とされた堯や舜を作ることができるほどのすぐれた存在なのだから、俗世のことなどどうして気にかけようか、と発言しており、『荘子』の代表的な注釈である晋の郭象の注では、聖人とされる堯や舜の政治上の功績は、本当は聖なる神人である堯や舜の真の姿の塵や垢にすぎないのだ、と解釈していることを指摘し、不比等の漢詩に見える「聖塵」はこうした議論を踏まえているとしています。
 
 つまり、不比等のこの詩は、元日の荘重な宮中儀礼に示される儒教的な聖帝のもとでの太平の世を称えることで始まっているものの、『荘子』や六朝時代に流行した玄学的な『荘子』解釈にもとづき、そうした素晴らしい儒教の聖人の治世よりも『荘子』などが説く「無為自然の治」の方が上だと見ているのです。不比等が律令制確立のために努力したことは事実であるものの、教養ある大臣としては、現在の天皇は人為的な努力に努める儒教の聖帝ではなく、その真の姿はさらに優れた無為自然の神人なのであって、この目出度い泰平の治世ですらその「聖なる塵」にすぎないという形で今上天皇をそうした神人になぞらえて讃えているのです。

 つまり、今上天皇を『荘子』の図式の中でとらえているのです。しかも、これは天皇の命によって元日に提示した公式な祝賀の漢詩です。当時は、天皇も臣下たちも、そうした趣味を共有していたということになります。律令による政治だけを最上のものとしていたわけではありません。胡志昴氏の論文は最近のものですが、右の漢詩に老荘的な要素が見えることは、何十年も前から指摘されていました。

 以上のことから、不比等は儒教派、長屋王はもっぱら道教・神仙好み、道慈は儒家嫌いの僧と規定したうえで、彼らが儒仏道の聖人としての聖徳太子像を創造したとする大山氏の説は、自説にとって好ましくない資料を切り捨てたうえで作り上げられた割り切りすぎの図式であることが知られます。大山氏の「聖徳太子非実在説」は、自説にとって不利な資料に真っ向から向き合い、そうした資料たちと格闘する中で生まれてきた学説ではないのです。そのような大山氏が、大山説を根底から崩すことになる森博達さんの批判などを無視し続けているのは、当然のことでしょう。

【2010年8月22日 追記】

大山氏は長屋王の道教志向の面を強調するばかりで、仏教信仰に言及しないと書いた件ですが、氏の最初の関連論文である「「聖徳太子」研究の再検討(下)」(『弘前大学国史研究』101号、1996年・10月)、および同論文を収録した『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)では、長屋王は空想的だっとし、「多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れたのはそれ故であったし」という一文だけが仏教信仰に触れています。しかし、長屋王の「多宝仏や弥勒の信仰」に関する氏の議論は誤りですので、別に論じることにします。


大山誠一説における仏教理解の問題点

2010年06月20日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山誠一氏の最新刊、『天孫降臨の夢』(2009年)によれば、氏はインドが好きで、「三回ほどインド各地の安ホテルを転々としながら旅をした」ことがある由。氏は、「そのたびに思うのだが、日本に仏教徒と称する人は大勢いるが、仏教を理解している人はいないのではないか」と書いています(75頁)。 

 私自身は、インド仏教を理解できずにいるうちの一人ですので、何も言えませんが、インドを旅すると、その強烈な宗教風土に衝撃を受け、現在の日本仏教との違いに愕然とさせられることは事実ですね。聖地ベナレスにある大学に留学し、ガンジス河のほとりに下宿して7年間暮らしたある先輩などは、すっかりインドになじんでしまったため、日本に帰国したらカルチャーショックをおこしてしまい、息苦しくなってインドに逃げ帰ったりヨーロッパを回ったりを繰り返し、1年半くらいして、ようやく日本に軟着陸するに至ったほどです。 

 インドに接して受ける衝撃は、日本が仏教を受容する時期においても同様であったことでしょう。中国や朝鮮諸国を経て東アジア風に変容していたとはいえ、インド由来の外来文化である仏教を受容するに当たっては、驚きも大きかったでしょうし、様々な反発や誤解や日本風な変容もなされたはずです。では、インド好きの日本古代史研究者である大山氏は、インドとは異なる東アジア諸国の仏教と、それを受容した頃の日本の仏教について、どのように理解しているでしょうか。 

  大山氏の道教関連諸説を批判した拙論では、聖徳太子非実在説の出発点となった研究書、『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)所載の論文について検討しましたが、今回は、研究者でない方々が最も目にしやすい本、すなわち、2005年に角川ソフィア文庫の1冊として出された『聖徳太子と日本人--天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像--』(角川書店)を取り上げ、そこに見られる大山氏の仏教理解について検討してみます。同書が述べているように、「聖徳太子関係記事の大部分は、仏教関係である」(95頁)以上、その当時の中国・朝鮮の仏教や日本の仏教のあり方をわきまえていないと、そうした記事は理解できないからです。

 なお、同書は、2001年に風媒社から刊行された『聖徳太子と日本人』に一部加筆したものであって、一般向けにわかりやすく述べた書物ですが、道慈の役割に関しては、上記の研究書とほとんど同じ主張がなされています。

  まず、同書の「仏教関係記事--道慈の構想」の節では、大山氏は、『日本書紀』の仏教関係記事の代表として、馬子と守屋の合戦の際、厩戸皇子が白膠木で四天王の像を作って髪に置き、敵を倒すことができれば四天王のために寺塔を建てようと誓い、戦勝後に四天王寺を建立して守屋の奴(やっこ)の半分と宅を施入した、とする伝承をあげています。そして、「この話の中に、歴史的事実と思われるのは、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたということだけで、聖徳太子に関する部分には、真実は皆無である」(95頁)と断言します。十四歳の少年の行動としては不自然であるうえ、四天王寺は難波吉士氏の氏寺であって、考古学から見てもその建立年代は事件より半世紀ほど後であり、本来の寺名は地名の荒陵寺(あらはかでら)であって、四天王寺という名称は早くても天武朝以後だから、というのがその理由です。

  しかし、そう断言できるでしょうか? 徹底して疑うのであれば、そうした合戦が本当にあったのか、本当に馬子が主導して守屋を滅ぼしたのか、そもそも蘇我馬子は本当に実在したのか、などについても疑うことが可能でしょう。それらが歴史的事実であることを示す同時代の木簡や墓誌や合戦跡などは、これまで報告されていませんので。

 それはともかく、合戦があって馬子が勝ったとする『日本書紀』を信ずることにした場合、『日本書紀』のその箇所には、馬子は「泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子・春日皇子」などの皇子たちや有力な豪族たちとともに軍勢を率いて戦った、と書かれています。これは「歴史的事実」なのでしょうか。ほかの皇子が参戦したのは事実であって、ようやく三番目に名前が出てきた厩戸皇子の部分だけ捏造なのでしょうか。『日本書紀』では、厩戸皇子は「随軍後(軍の後に随へり)」と記されているのみであって、軍陣の先頭に立って勇敢に戦った、などとはまったく書かれていませんが。

  仏教は、当時にあっては最新・最強の技術です。大山氏は、当時における仏教の最大の推進者は蘇我馬子だとしています。それは前からの有力な説の一つであって私も賛成ですが、馬子が熱心な仏教信者であったとすれば、仏教による戦勝祈願をしても不思議はありません。『日本霊異記』などでは、七世紀半ばすぎに百済救援のために派兵されるに当たって、「無事に帰ってこられたら、神たちのために伽藍を建てます」と誓っている例が見られます。

  仏教では、信者を守ってくれる武神の代表と言えば、四天王です。『日本書紀』によれば、守屋軍に敗北しそうになったのを見た厩戸皇子は、「護世四王」、つまり四天王に造寺を誓い、馬子は「諸天王・大神王」に、つまりはそれ以外の神々に造寺を誓って戦勝を祈願したことになっていますが、これは不自然であり、一つの誓願を二つに分けて厩戸皇子と馬子に割り振ったように見えることは、大昔に指摘した通りです(「憲法十七条」が想定している争乱」、『印度学仏教学研究』41巻1号、1992年12月)。

 つまり、まだ少年であった太子が戦場で白膠木を刻んで四天王の像を作り……といった描写は後代の伝承ないし潤色であるにせよ、戦いにあたって馬子が四天王などに戦勝を祈願をした可能性はあるのです。しかも、『日本書紀』やその他の金石文などを見る限りでは、古代日本にあっては、誓願は多くの人がすればするほど効力が強まると信じられていた形跡があります。ということは、馬子主導で誓願がなされ、馬子側の皇子たちや有力豪族たちのうちの仏教信者もそれに従ってそれぞれ造寺や造像などの誓願をした可能性も無いとは言えません。誓願なら、少年でも可能でしょう。

 誓願していないかもしれませんが、誓願した可能性は「皆無である」、と断言するだけの資料を私たちは持っていないのです。また、いつ頃施入されたかは不明であるものの、厩戸皇子が建立した斑鳩寺の後身である法隆寺が物部氏の旧領地を所有していたことは、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』が記する通りです。

 大山氏はその他の著書でも、誓願に着目していませんが、新羅においても、仏教が普及するようになったのは、王女の病気を外国僧が誓願によって治したことがきっかけと伝えられています。古代の東アジア仏教、とりわけ中国周辺諸国の仏教を支えていた大きな柱の一つは、誓願の威力であり、誓願を考慮しないと当時の仏教の姿は見えてきません。信心の強さを重視するようになるのは、もっと後の時代になってからです。

 次に、大山氏は、四天王寺は摂津の渡来系氏族である難波吉士氏の氏寺であり、建立年代もこの事件の半世紀ほど後のこととされているから、上の話はありえないとします。しかし、四天王寺は移築の問題もあって不明な点が多く、その初期の歴史は完全には解明されていません。難波吉士氏の氏寺であるというのは、そうした説もあるという程度に留めるべきでしょう。また、瓦の研究によれば、現在の四天王寺については、創建は最初期の寺々より遅れるのは事実であるものの、飛鳥寺→豊浦寺→法隆寺→四天王寺、という順序で瓦当范や工人が移動しており、この四寺が密接な関係にあったことが明らかになっています。そのような四天王寺を、地方の一豪族の氏寺と見てすますことはできません。

 本来の寺名は荒陵寺であって、四天王寺という名称は天武朝以後だというのも、よく分からない議論です。寺というのは、どこの国でも正式名称と俗称がある場合が多いものです。「新宿住友ビルディング」のことを、「三角ビル」と呼ぶようなものですね。各地に「あじさい寺」と呼ばれる寺がたくさんあるのも同様の例です。「金光明四天王護国之寺」と額に書かれている奈良の東大寺は、「東のおおてら」とも呼ばれていましたが、最新技術をつぎこんだ大変な工事の後で壮大な完成供養がなされる場合、「この寺を、あらはかでらと名づく」などと宣言するはずがありません。そんな不吉な和風の名ではなく、仏教用語に基づく堂々たる漢字の寺名が付けられたはずであり、その寺を普段はその土地の名などの俗称で呼ぶのは不思議でありません。漢字による寺名も、後に何度も変更されるのはよくあることですが。

 大山氏は、この四天王祈願の話が作られたのは、四天王信仰、それも「道慈がもたらした義浄訳『最勝王経』にもとづく信仰」を「普及させるため」であったと推定します。氏は、四天王信仰は、「天武朝頃に新羅から伝わり、……天武・持統朝に尊重されたようである」ものの、「本格的には、道慈が『最勝王経』をもたらしてからである」と断言しています(96頁)。しかし、仏教教理に関する論議が盛んであった梁が滅び、陳が建国されると、陳では前代の反省もあって『金光明経』による護国信仰が盛んになります。また、隋唐期には『金光明経』による放生儀礼も盛んになります。 日本に仏教を伝えた百済は、梁や陳など南朝の仏教を手本としていましたので、『金光明経』もその四天王信仰も早い時期に日本に伝わったはずです。

 実際、再建された法隆寺金堂に似ておりながら形式がより古い玉虫厨子に、『金光明経』の捨身飼虎の説話が描かれていることは有名ですし、七世紀半ば前後に活躍した渡来系氏族の山口大口費が、法隆寺金堂の広目天像を作って光背に刻銘しているうえ、大山氏も認めているように、天武・持統朝には、『金光明経』を宮中や諸国で講説させています。また、唐訳の『金光明最勝王経』については、道慈以前にもたらされていたとする説もあります。

 それにも拘わらず、大山氏は、日本の四天王信仰が「本格的」になるのは、『金光明経』の最新訳である『金光明最勝王経』を道慈がもたらしてからなのであるから、道慈が「馬子と守屋の戦争の描写に手を入れ、聖徳太子を利用して四天王信仰を広めようとしたのであろう」(96頁)と結論づけます。これは、道慈の役割を強調するために、美術資料を含む現存資料を無視した強引な論法です。

  四天王への祈願が描かれる守屋との合戦の記事は、漢文の誤用・奇用が目立つため、中国に16年も滞在して活躍し、美文を好んでいた道慈が手を入れたとは、とうてい考えられないことは、これまでに指摘されている通りです。また、『日本書紀』の仏教伝来の記事などが、最新の『金光明最勝王経』の表現を用いていることは事実ですが、そうした箇所をいくつも指摘された小島憲之先生も、例をあげているのは巻21までであって、巻22の推古紀中の太子関連記述については、引用を示しておられません。道慈が最新の『最勝王経』をもたらして活用したのであれば、どうして、最も重要な箇所を描く際に『最勝王経』の表現を用いないのでしょう。

 『日本書紀』の仏教関係記事に関する大山氏の誤解ないし強引な論法はほかにも多いのですが、その典型は、厩戸皇子が講義したと記される『勝鬘経』について、「三論系の難解な経典である」(99頁)と明言していることでしょう。しかし、三論宗のインドにおける先駆である中観派は、『般若経』や『中論』に基づいて「空」を強調する学派であり、一方、『勝鬘経』は、人々は煩悩に覆われた形で如来の清浄なる智恵を持っているとして、「有」の面を強調する如来蔵思想系統の経典です。『勝鬘経』は中国では南地・北地ともに流行し、地論宗を中心にして多くの注釈が書かれましたが、南北の諸説を統合していろいろな経典の注釈を書いた中国三論宗の大成者、吉蔵の包括的な注釈である『勝鬘宝窟』が登場すると、他の注釈は読まれなくなりました。ただ、三論宗が『勝鬘経』を特別に尊重していたり、三論宗が中心となって『勝鬘経』を伝えていたりしたわけではなく、『勝鬘経』は「三論系」とは言えません。  

 こうしたきわめて初歩的な間違いがなされるのは、道慈は「三論宗と深く関わっている」(100頁)以上、その道慈が太子の講経を捏造するとなれば、三論系の経典を講義したことにするはずだ、と大山氏が思い込んでいたためでしょう。大山氏は、断定的な物言いをする際は、インド仏教史や中国仏教史の概説書などを確認したうえで書くべきでした。なお、推古紀の『勝鬘経』講説の箇所では、「三日説竟之(三日にして説き竟[お]へつ)」となっており、朝鮮俗漢文や日本の漢文でよく用いられる中止・終止の「之」が用いられています。つまり、和習です。中国で16年間も学んだ道慈の筆とは思われません。

 初歩的な誤りと言えば、「三論系の難解な経典」という行のすぐ前の箇所で、「憲法十七条」の「篤く三宝を敬へ」について説明する際、三宝のうちの僧宝の「僧」とは、「本来は僧伽[サンガ]といい、数人の比丘(出家した男の僧)が、戒律を共有しながら一緒に修行する集団のこと」(99頁)だと述べているのもその一つです。僧宝の定義は時代や系統によって異なっており、現前僧伽については律蔵では四人以上の少人数でも僧伽と認めていますが、上のような説明の仕方では、何十人もが住む大きな寺の僧たちや、尼たちの集団は僧伽ではないことになってしまいます。また、同一地域に住んで説戒などに参加しさえしていれば、普段は異なるところで活動していてもよいのですから、「一緒に修行する集団」というのも、誤解を招きやすい表現です。「三宝」は、仏教の基本となる重要概念だけに、自説を述べるうえで都合の良い面だけを本来の意味のように説明するのは困りものです。

  次に、続く「薨日をめぐる謎--玄奘三蔵と聖徳太子」の節で説かれる日本の弥勒信仰に関する大山氏の見解も、きわめて特異なものです。日本に仏教を伝えた百済では、七世紀初め頃に国王の寺として壮大な弥勒寺が建立されています。となれば、日本にも、かなり早い時期に弥勒信仰が入ったと考えるのが自然でしょう。実際、『日本書紀』では敏達天皇十三年(584)条には、百済から来た鹿深臣が弥勒の石像を有していたという記事が見えます。また、日本に現存する奈良以前の仏像には、朝鮮渡来のものも日本作成ものも含め、弥勒像が少なくありません。教理と結びついた信仰にしても、盛んになるのは玄奘系の法相宗を学んだ留学僧たちが帰国してから、つまり、天智朝以後あたりからとするのが通説です。ところが、大山氏は、弥勒信仰の場合も「本格的な信仰は道慈によって広まったのである」(101頁)と述べています。しかし、道慈の帰国は718年であって、弥勒寺の建立から100年以上後のことです。

 つまり、大山氏は、最新の中国仏教を競って取り入れていた朝鮮諸国の仏教を無視し、また「~の本格的な導入は、道慈による」という言い方を用いることにより、奈良以前の日本仏教の様々な事柄を、実質としては道慈以後の現象だとみなそうとするのです。そうなると、道慈は日本仏教史における超重要人物、ということになります。

 大山氏は、『日本書紀』の聖徳太子像を作り上げる際の道慈の役割を強調しますが、それが事実なら、道慈は、718年12月に帰国してから720年5月に『日本書紀』が天皇に奉呈されるまでの間に、実に多くの仕事をしたことになります。帰国時の様々な報告事業や、書の名手たちが30巻を慎重に清書する時間なども考慮したら、実質は1年ほどでしょうか。 

 道慈は、その短い期間に『日本書紀』30巻の草稿を読み、儒教志向の不比等と道教好きの長屋王の意向を反映・調整しつつ(「和」せしめつつ?)聖徳太子関係の記述を書いて太子を儒教・仏教・道教の聖人に仕立て、仏教公伝や守屋との合戦などの仏教関係の記事もほとんどを書き、さらに大山氏によれば「「天壌無窮の神敕」といった神話に関わる記事も、彼の手になっている」(117頁)というのですから、『日本書紀』全体の編集方針を大幅に改めたことになります。聖徳太子を思わせるほど超人的です。

 いわば、大山氏は、超人的な聖徳太子の実在を否定し、儒仏道の三教に通じていたという道慈の超人的な活躍で置き換えたのです。大山説にあっては、説明に困るような事態が出てくると、いつも「実は道慈が……」という形で説明がなされて解決されます。

 そこまで道慈が自由に捏造しえたのであれば、『日本書紀』の聖徳太子像には、僧侶である道慈の仏教観が反映していて当然でしょう。しかし、道慈については、『般若経』類を重んじる三論宗の学問に通じ、唐では『仁王般若経』を講義する一人に選ばれ、帰国後は『大般若経』を尊重していたうえ、その著作である『愚志』では戒律の遵守を強調しているにもかかわらず、『日本書紀』に描かれている聖徳太子は、『般若経』とも戒律ともまったく無縁なのです。なぜなのでしょう?

  私が道慈であれば、「太子はいつも高句麗の慧慈と『大品般若経』について語りあっており、夢の中で正しい解釈を得て、慧慈に教えた」とか、「太子は、幼い頃から五戒十善を固く守り、父である用明天皇が重病となった時は、病気平癒を願って不眠不休で『大品般若経』を書写した」とか、「新羅との緊張が高まった際、太子が宮中で護国経典である『仁王般若経』を講義したところ、新羅の王宮の上に雲に乗った多数の兵士が現れたため、新羅王は驚いて仏像を送ってきた」などと書きまくりたいところです。

  納得しがたいことは他にも沢山あります。「薨日をめぐる謎--玄奘三蔵と聖徳太子」の項では、『日本書紀』が厩戸皇子の亡くなった日を二月五日としている理由について、大山氏は、道慈が尊敬していた唐の道宣が書いた『続高僧伝』では、強い弥勒信仰を持っていた玄奘が二月五日に亡くなっているため、とします。玄奘は「中国仏教史上最大の人物であり」、「まさしく、仏教界の聖人であった」(102~3頁)のだから、聖人である聖徳太子にふさわしいということで、二月五日が選ばれたというのです。

 しかし、玄奘は「中国仏教史上最大の人物」でしょうか? 中国や台湾の僧尼に尋ねたら、最大の人物は、おそらく、南宗禅の確立者であって今日の中国仏教の基を築いた(とされる)六祖恵能だと答えるのではないでしょうか。恵能の説法は『六祖壇経』となっていて経典に準ずる扱いをされていることが示すように、恵能は仏扱いです。教理の雄大さという点では、天台大師も有力な候補でしょう。また、浄土信者の間では、念佛結社である白蓮社を組織した東晋の慧遠を最も崇敬する人が昔から少なくありません。

 それに対して、玄奘はあくまでも三蔵法師であって、偉大な翻訳僧・学僧です。当時から現在に至るまで非常に尊敬されてきましたが、生き仏とか肉身菩薩などとして崇拝されたわけではありません。中国仏教研究者としては、「中国仏教史上最大の人物」とか「まさしく、仏教界の聖人」といった言い方には、違和感を覚えます。聖徳太子の薨日になぞらえるなら、釈尊の亡くなった日とか、観音の化身とされた高僧などの亡くなった日の方がふさわしいでしょう。実際、仏教熱心な中国の皇帝は、如来になぞらえられたり、菩薩天子と称されたりしたのであって、聖徳太子にしても、後には観音(の化身)として信仰されています。玄奘三蔵は有名ではありますが、聖人とされる皇帝などと重ね合わされるようなタイプではありません。

  さらに、玄奘が亡くなったのは、白村江の戦いの翌年(664年)だったのだから、道慈が718年に帰国するまで「彼の死が日本に伝わらなかったのであろう」(103頁)とするに至っては、ただただ驚きです。道慈の帰国以前にも、704年に栗田真人らの遣唐使が帰国しています。また、『日本書紀』編纂時期に漢学者として活躍した山田史三方(御方)にしても、若い頃に僧侶として新羅に留学していますし、他にも高句麗留学の僧が唐を経て帰っていたり、百済や高句麗の僧侶が本国滅亡後に日本に渡ってきた例もかなりあります。

 この当時、長安で翻訳された経典は、最も短い場合はふた月ほどで新羅に届いています。逆に、新羅の元暁の著作などは中国でも読まれており、敦煌の写本中からさえ見つかっています。7世紀半ばから8世紀半ばにかけて、中国と朝鮮の仏教の交流は非常に盛んであり、軍事的に対立していた時期でさえ、仏教の相互影響は続いていました。その朝鮮諸国から仏教を導入した日本は、遣隋使・遣唐使を送るようになった後も、朝鮮諸国からも猛烈な勢いで仏教を吸収し続けており、行き来した船の数は、遣隋使・遣唐使よりはるかに多数に及びます。それなのに、664年の玄奘の死は、718年に道慈が帰国するまでの54年もの間、日本にまったく伝わらなかったのでしょうか。

  この辺でやめておきますが、唐代仏教の新しい情報はすべて道慈がもたらしたように書きがちな大山氏の仏教認識には、問題が非常に多いのです。大山氏は、『日本書紀』の仏教関係記事を理解するのに必要な仏教の知識が十分でないうえ、道慈述作説を主張しようとしてきわめて偏った記述を行なっている、というのが実際のところです。

【追記 2011年2月12日】 大山氏が四天王寺という名称は早くても天武朝以後とするのは、天武天皇八年夏四月乙卯の条に「この日、諸寺の名を定む」とあるのを、地名に基づく寺名を仏教風な名前に変えさせたものと解釈する福山敏男説に基づくのでしょう。福山説は仮説であって、證明されているわけではありません。また、誰かが亡くなった後に邸宅を改めたような寺と、堂々たる伽藍とは区別すべきでしょう。

「道教と古代日本文化」ブームの聖徳太子論の誤り: 間違いを放置して良いか

2010年06月10日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 拙論「聖徳太子伝承中のいわゆる『道教的』要素」(『東方宗教』115号、2010年5月)は、「いわゆる」という語が示しているように、「道教的だと称している人たちもいるが、実際には違う」ということを明らかにしようと試みたものです。昨年の日本道教学会の学術大会で発表した内容に少々訂正を加えました。趣旨は変わっていません。

  発表では、「徳」の下に「仁・礼・信・義・智」の形で五常を配する冠位十二階の特異な順序は、六朝時代に成立した道教経典、『太霄琅書』に基づくとする福永光司先生の論文、「聖徳太子の冠位十二階--徳と仁・礼・信・義・智の序列について--」(福永『道教と日本文化』、人文書院、1982年)を取り上げて批判しました。『太霄琅書』から自説に都合の良い箇所だけを切り貼りしており、しかも、原文のうち三箇所も省略しておりながら、「……」や(中略)などによってそれを示していないことを指摘したのです。「卒論なら落第です」とまで言ってしまいました。発表終了後、質問はまったくありませんでした。

 言葉がきつすぎたなと反省していたところ、大会終了後の懇親会では、関東・関西の研究者たちが次々に話しかけて来て、「よく発表してくれた。福永先生のあの論文や、ブームの頃のいろんな人の論文は、私も前から無理な議論が多いと思っていた」とか、「どんどん書いてほしい」などと言うので驚きました。「そう思っていたなら、自分で書いてくださいよ」と答えたところ、「まあ、いろいろあって書きにくいので、関係のない仏教学のあなたが書いてくれると有り難い」とのことでした。発表の前半を占めていた大山誠一説批判については、「その通りでしょ」ということで、あっけない反応ばかりであったのも意外でした。 

 中でも私がショックを受けたのは、福永先生の『太霄琅書』の引用の仕方がフェアでないことは、私の新発見と思って発表したところ、「実は自分も気がついていた」と言った関西の研究者が2人いたことです。ということは、他にも道蔵で原文に当たって省略に気づいていた人や、噂によって知っていた人などが何人もいるのでしょう。

 1981年に雑誌に発表され、翌年、『道教と日本文化』に収録されたその論文は、刊行されてからほぼ30年たちます。その間、ある程度の数の道教研究者たちが、冠位十二階に関する福永先生の引用の仕方は不適切であり、福永説は成り立たないということを知っておりながら、遠慮して論文などで指摘してこなかったため、日本史学などのかなりの数の研究者がこの説を道教学の権威による指摘として引用してきたのです。

 (大山氏は、福永先生の道教理解の影響を大きく受けておりながら、冠位十二階に関する福永説には触れていません。太子関連の道教関連記述は、道教にも通じていた道慈が書いたとしていたうえ、冠位十二階は中国の史書にも記されているため、実在しない聖徳太子ではなく、蘇我馬子の制定だとしているせいでしょうか)

  「道教と古代日本文化」ブームは、日本独自と思われていたことを、儒教・仏教以外の中国の様々な宗教・思想・技術などの影響という観点から見直そうとした点では、意義のあるものでした。当時のそうした論文の中には、現在でも通用する重要な指摘をした諸論文も含まれています。古代日本では神仙思想が盛んでしたし、道教が中国仏教に取り入れられ、時には偽経にまでなったものが、日本や朝鮮では仏教として受容されて大きな影響を与えた例が多いこと、医学書などは道教と関係の深い書物が次々に輸入されていることなどは事実ですので、今後もそうした面の研究が進められるべきです。

 ただ、「あれも道教、これも道教」という粗雑な議論が多かったのも事実です。福永先生は、道教を含む中国の宗教・思想研究において大きな功績をあげ、多くの研究者を育てた大物ですが、新たな分野を開拓した人に良くありがちなように、自分が研究している対象が、つまりは道教がいかに広範で重要なものか、いかに中国と日本に多大な影響を与えたかを強調しすぎる傾向がありました。その功罪はきちんと明らかにすべきでしょう。

  私の大山誠一説批判については、「問題が多いことは、研究者の世界では知られているのだから、わざわざ論じなくても良いのではないか」といった声があることは承知しています。しかし、明らかに誤っている説がマスコミでしばしば最近の学界の定説のようにとりあげられ、一般の人に影響を与えている以上、放置していれば、福永先生の冠位十二階説の場合と同様、あるいはそれ以上の弊害が生ずるのではないかと案じられました。そこで、聖徳太子については、『日本書紀』では「聖」として描かれており、史実としては信頼できない記述も多いことは事実であるものの、まだまだ研究を重ねる必要があり、大山氏の架空説のような形で断定的なことを言える段階ではないことを、このブログを通じて指摘していくことにした次第です。

 なお、「道教と古代日本文化」ブームの問題点ということで、上田正昭先生と上山春平先生についても、聖徳太子関連記述と道教の結びつきに関する説を批判させて頂きましたが、聖徳太子については東アジアの観点から検討すべきだ、とする上田先生の姿勢には共感しています。個々の説についても上田説に賛成する点が少なくありません。ただ、最近の上田先生の聖徳太子論は、かつてより史料批判がやや甘くなっているようにも感じられます。


大山誠一「聖徳太子架空説」の誤り

2010年06月09日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 日本道教学会の学会誌、『東方宗教』の最新号がやっと届きました。奥付は例年並みに「平成二十二年五月五日 印刷」で「五月十日 発行」となっていますが、実際に届いたのは一昨日(6月7日)、抜刷とPDF入りのCD-ROMが届いたのは昨日です。

  もっとも、私の勤務先の学部の論集などは、かつては奥付にある発行月日より半年遅れで配布などということもしばしばだったとか。私自身にしても、SAT(大蔵経テキストデータベース研究会)の何十人もの仲間たちで苦労して作り上げた大正大蔵経の電子データを初めてインターネット公開した際は、技術担当の師茂樹さんと、連日、睡眠不足気味で作業したものの、約束していた年度内公開より10時間ほど遅れてしまったため、当時のホームページには「3月31日34時公開」などと表示したものでした。あれは誤入力ではなかったんです。最近でさえこれですから、まして古代の聖徳太子関連文献となったら……。

 それはともかく、道教と言えば、1980年代に大流行した「道教と古代日本文化」ブーム、なつかしいですね。あの頃は、「あれも道教、これも道教」という論文が氾濫したため、日の当たらない場所で地道に道教研究をやってきた日本道教学会の老先生たちは、顔をしかめていました。ブームのもとで盛んにそうした論文を書いていた一人が道教学会に入会を希望してきた際は、「あんなデタラメなことばかり書く奴など、絶対に認めん!」と大反対する長老理事もおり、大変だったことを思い出します(当時、学会の事務局は私が助手をしていた研究室にあったため、私は道教学会の雑用係をやっていました)。

 学会理事長をしておられた楠山春樹先生は、「そういう困った人だからこそ、学会に入ってもらって勉強してもらう必要があるんじゃないですか」と、いかにも楠山先生らしい『老子』風な調整術によって長老理事を説得し、なんとか入会を認めさせたことでした。

 つまり、「道教と古代日本文化」ブームのもとで活躍した人たちの多くは、長らく道教を研究してきた専門家や中国思想の研究者ではなく、他分野の研究者だったのです。福永光司先生は例外であってすぐれた中国学者であり、道教学会の会員でしたが、研究生活の後半期になってから道教研究に打ち込むようになり、いわゆる「教団道教」だけでなく、道教に取り込まれる中国の宗教的な思想や神秘的な方術であれば「広い意味での道教」と見なす独特な、言い換えればかなり強引な道教論を展開していたこともあってか、福永先生は道教学会とは距離を置いていました。ブームに急に参戦するようになった人の多くは、そうした福永先生の著書や論文を教科書として道教の勉強を始め、福永流の「道教」の影響を日本史の中に探し始めた、というのが実情でしょう。

(私は、某大学での福永先生の集中講義を拝聴し、打ち上げの会にも出させていただいたのですが、道教文献に関する恐るべき博識と魅力有る講義ぶりが印象的でした。優れた弟子が輩出したのは当然です。福永先生の功績の一つは、多くの優秀な道教研究者を育てたことでしょう。ただ、福永先生から中国学の訓練を受けたお弟子さんたちからは、「道教と古代日本文化」ブームの方向を本業とする人は出ておらず、いずれも着実な中国道教研究者になっているのが面白いところです)

 その「道教と古代日本文化」ブームは、行き過ぎが反省された結果、10数年ほどで沈静化しました。最近では、神仙思想、老荘思想、(教団)道教、中国の神秘的な種々の思想や技術、民間信仰、中国仏教に取り込まれた神仙思想や道教の要素、などの違いと重なりに注意しつつ、文献や文物に即して実証的に道教の影響を検討する研究者が増えています。むろん、ブーム当時にあっても、そのような地道な研究をしていた研究者は、少ないながらも存在していました。

  一方、そうしたブームが終わる頃になってから「あれも道教、これも道教」という形の道教影響説を主張し始め、現在でも同じ論調を守っているのが、「聖徳太子は実在しない」とする大山誠一氏です。大山氏は、『日本書紀』に見られる聖人としての聖徳太子像は、律令制のもとで中国の聖天子に匹敵するような模範的な天皇像を示すため、儒教的な政治をめざした藤原不比等と、道教好きの長屋王と、唐から帰国したばかりの学僧である道慈の三人によって『日本書紀』編纂の最終段階で創られたものであり、儒仏道の三教に通じていた道慈が任されて聖徳太子関連の記述を執筆したとしていることは有名です。

  この主張のうち、道教に関する議論は現在ではさらに大雑把になっており、昨年11月に刊行された氏の『天孫降臨の夢--藤原不比等のプロジェクト--』(NHKブックス、日本放送出版協会、2009年)では、長屋王は讖緯思想に傾倒していたとしたうえで、「讖緯思想は、広く道教思想あるいは神仙思想と考えてよいであろう」(57頁)と述べています。しかし、讖緯説は広い意味で道教だという言い方は福永流であって問題であるうえ、讖緯思想は広い意味では神仙思想と考えてよいなどというのは、中国思想史の常識をわきまえない、まったくの珍説です。

 というより、そもそも長屋王が道教に傾倒していたことを示す資料はなく、不比等と長屋王と道慈の三人が『日本書紀』編纂に関わって最終構想を固めたことを示す資料もなく、道慈が実際に太子関連記述を書いたという資料もないのです。

  このうち、長屋王が道教に傾倒していたというのは、「道教と古代日本文化」ブームの典型の一つである新川登亀男さんの長屋王論、「奈良時代の道教と仏教--長屋王の世界観--」(速水侑編『論集日本佛教史 第二巻  奈良時代』、雄山閣、1986年)を有力な根拠としたものです。

 不比等亡き後、権勢を誇っていた長屋王は、藤原氏の策謀によって妻子たちもろとも滅亡に追い込まれますが、反国家的な「左道」を奉じているという口実で長屋王が断罪されたのは、神亀五年五月十五日の長屋王の発願に基づいて書写された『大般若経』の跋文が道教的な世界観を示しており、長屋王の父母である高市皇子とその妃を頂点とする神霊の秩序こそが皇統を護るとして天皇より上に位置づけ、長屋王自身もその秩序に加わることを願っていたためであった、というのが新川さんの推測です。

  新川さんは後になると、道教の定義を曖昧にしたまま安易に道教の影響を説くやり方の問題点を指摘するようになりましたが、長屋王と道教の関係については、ブームが終わっている1999年に刊行された著書、『道教をめぐる攻防--日本の君主、道士の法を崇めず』(大修館書店)でも、右の論文とほぼ同じ主張をしています。

  しかし、長屋王のこの願文が道教的世界観に基づく特異な霊的秩序を説くとするのは、多くの読み間違いに基づく強引な解釈であって成り立たないことは、一昨日届いた『東方宗教』115号掲載の拙論、「聖徳太子伝承中のいわゆる「道教的」要素」で指摘した通りです(「関連論文コーナー」にもリンクを貼っておきます)。新川さんは様々な分野で活躍しており、最近出された『聖徳太子の歴史学』(講談社、2007年)も有意義な著作ですが、「道教と古代日本文化」ブームのもとで書いた道教関連の諸論文は、いずれも問題があり、とりわけこの長屋王論文は間違いの多いものです。

  大山氏は、新川さんのこの誤った長屋王観を受け入れたうえで、その願文を書いたのは、長屋王に接近していた道慈だとしています。しかし、国家を傾ける「左道」だと攻撃されて長屋王が自殺に追い込まれるような道教的願文を道慈が書いたとしたら、神亀六年2月の長屋王事件の後、天平と改元した同年8月に藤原光明子の立后が実現し、10月にその道慈が律師に任命されて仏教界の指導者となったことを、どう説明するのでしょう。

 道慈については「藤原寺」、すなわち興福寺に身を置いていた時期があり、少なくとも帰国後は興福寺にいて藤原氏寄りの立場をとり続けていたとするのが、森下和貴子氏の「藤原寺考--律師道慈をめぐって--」(『美術史研究』第26冊、1987年)ですが、大山氏は、多くの研究者に引用されているこの森下論文に言及したことがありません。

  もう一つ決定的に重要なのは、倭習の問題です。『日本書紀』の聖徳太子関連記述には倭習が多く、唐に16年も留学した道慈の文章ではありえないことは、森博達さんが早くに指摘していました。中国語の音韻学の専門家であって倭習にも注意を向け、区分論によって『日本書紀』研究を画期的に進展させた森さんは、「日本書紀の研究方法と今後の課題」(梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』、大和書房、2002年)において、大山説は「根拠のない憶説」ばかりであり、「空想」「妄想」にすぎないとして厳しく批判されたのです。

  道慈述作説は、大山説の要めとなる重要なものであって、これが崩れると大山氏の聖徳太子虚構説全体が崩壊してしまいますが、大山氏は森さんの批判には一切答えていません。また、森さん以外にも、大山説に対する説得力ある批判は数多くなされています。たとえば、聖徳太子は『日本書紀』では理想の天皇像ではなく、理想の皇太子像として描かれているのではないかという、遠山美都男氏と本間満氏の反論もその一つです。確かに、理想的な天皇像を示すために聖徳太子という素晴らしい「皇太子」を造形したというのは、あまりにも不自然でしょう。  

 理想的な天皇像というなら、森田悌氏が「最近の聖徳太子研究--大山・吉村両氏の近著によせて--」(『弘前大学國史研究』112号、2002年3月)で指摘しているように、仁政を行なった「聖帝」として『日本書紀』が絶讃している仁徳天皇こそ最もふさわしいはずです。実際、仁徳天皇は、後世の天皇たちによって模範として仰がれてきました。仏教との関わりが必要であれば、天智天皇・天武天皇の父であって、初の勅願寺院である百済大寺を建立した舒明天皇あたりを、若い頃から儒教や仏教に通じ、仏教流布の最大功績者であった聖天子として描くことも可能だったでしょう。

 上記の『聖徳太子の実像と幻像』には、大山説に賛同する人、大山説の一部を認めて一部には反対する人の他に、強い調子で批判した田中嗣人氏や上田正昭氏の議論なども掲載されています。また、森田氏も、大山氏の議論のうちのいくつかの部分を評価しつつ、聖徳太子架空説全体については「誠に奇妙な所見」と批判し、ジャーナリズムの一部が架空説を当然視している風潮を訂正することを目的の一つとして『推古朝と聖徳太子』(岩田書院、2005年)を発表しています。これ以外にも、複数の分野の研究者たちによって批判がなされています。

  それにもかかわらず、先に触れた大山氏の『天孫降臨の夢』では、序にあたる「はじめに」において、「学問的な根拠をあげた反論は皆無であり、すでに<聖徳太子は実在しない>という理解は学界内外に定着したと言ってよいと思う」と述べ、「あとがき」でも、「何しろ、学問的反論は皆無なのである」と断言しています。大山氏は以前から同様の発言をしていますが、これは「聖徳太子非実在説」にならって「学問的反論非実在説」と呼びたいほど驚きの説です。また、反論しない第一線の研究者たちの中には、「大山説については取りあげるまでもない」と突き放している人も少なくありません。

  確かに、大山説には、想像に基づく部分が多いうえ、美術史の研究成果は一切考慮しないと公言するなど、強引な議論が目立つことは事実です。とはいえ、複数の著作において太子虚構説を批判してきた遠山氏の次のような評言も忘れることはできません。

  「『日本書紀』編纂者が種々の原史料にもとづきながら、聖徳太子を通じて一定の歴史像を描き、それを同時代や後世に向かって発信しようとしたことを明らかにした点は正当に評価されねばならない。大山氏の『聖徳太子非実在説』の学説としての意義はこの点にあると考える。『聖徳太子非実在説』は、その本質において『日本書紀』論だったのである。」(遠山美都男「「聖徳太子非実在説」とは何か」、『歴史読本』52巻14号、2007年12月)。

 つまり、「理想の天皇像」説のように認めがたい主張も多いものの、従来の研究のように、『日本書紀』の聖徳太子関連記述のうち、どの部分が史実でどの部分が伝説か、といった方向で研究するのではなく、『日本書紀』全体は聖徳太子をどのような人物として造形しようとしていたのか、それはどのような理由によるのか、といった視点から検討を試みた点に意義がある、とするのです。確かに、その点は遠山氏の指摘される通り有意義な試みですし、他にも「『書紀』は権威付けには主に高句麗を利用する傾向がある」と述べた箇所など、いくつかの点については、私も重要な指摘と認めています。

  大山説のうちのそうした点が着目されず、無視される場合が多いのは、「何しろ、学問的反論は皆無なのである」といった断言が示すように、自説を打ち出すばかりで批判に誠実に対応しないことも一因になっているように思われます。聖徳太子は『日本書紀』編纂の最終段階で創造されたのであり、実在したのは厩戸王という王族にすぎない、というを主張を十年以上展開しておりながら、その肝心の『日本書紀』では「聖徳太子」という表現は用いていないばかりか、大山説では太子関連資料を大量に捏造したとされる光明皇后や行信すら「聖徳太子」という呼称を用いておらず、「厩戸王」という呼称にいたっては現存文献にまったく見られないことなどについて、きちんと説明してこなかったことも、感心できない点です。「厩戸王」という呼び方は、聖徳太子伝承を疑った太子研究の古典である小倉豊文『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸社、1963年。増訂版は1972年。感動の名著です)が、「厩戸王」というのが生前の呼称でないか、としているのが初出ではないでしょうか。 それが教科書にまで載るようになったのは不思議な話です。

 大山氏は、聖徳太子の事跡を疑った先学として津田左右吉の名をしきりに挙げるものの、「憲法十七条」は天武朝ころの製作と見る津田説を正しく紹介せず、『日本書紀』完成時期の編纂者が「憲法十七条」を作ったと津田が述べているかのような書き方をするのも問題です。また、論証のし方は全面的に異なっているにせよ、「聖徳太子はいなかった」という主張や馬子が大王だったという推論自体は、「聖徳太子は実在しない」と説く大山説が登場する以前からなされており、本も出ているにもかかわらず、そうした人たちはアカデミズムに属さず、学界では取り上げられないタイプの民間史家や小説家などであるためか、大山氏がまったく言及していない点も気になります。こうした問題点は他にも沢山あります。大山説が無視されがちであるのは、それ相応の理由があるのです。

  あるいは、「根拠をあげた反論」は皆無だと大山氏が言うのは、聖徳太子の「実在」を示す木簡のような具体的な証拠を示さなければ「学問的反論」とはみなさない、ということなのかもしれません。しかし、 『日本書紀』が厩戸皇子を神格化し、聖人であることを異様なまでに強調して描いているのは確かですが、聖徳太子は実在せず、その事績とされるものは実は蘇我馬子の事績だったと主張する大山氏にしても、そうした様々な推測をする際の主な情報源は、氏自身が捏造だらけだとする『日本書紀』です。石舞台古墳を発掘し直し、馬子の活動を詳しく誌した墓誌銘を発見したわけではありません。

 つまり、自分でもやっていないことを、大山説を批判する研究者たちに要求しているのであって、論証の不備を指摘する批判を謙虚に受け止めて自説を訂正しつつより正しい方向をめざす、という学問態度をとっていないのです。ただ、森さんの批判以後、大山氏を中心とする『日本書紀』研究のグループの人たちは、「聖徳太子関連の記述の多くは、道慈自身が書いたのではなく、道慈はプロデューサー的な役割を果たしたのだろう」という方向に変化したと聞きました。

 大山氏も、最新の『天孫降臨の夢』では、かつてのように太子関連の記述はすべて道慈が書いたと明言していません。「儒教関係は藤原不比等、道教関係は長屋王、そして太子関係記事の大部分を占める仏教関係と中国的聖天子としての表現は道慈と考えてよいであろう」と述べ、「ほかにもさまざまな人が参加したかもしれないが、重要なのは、『日本書紀』の記述の方向性を示しうるリーダーの存在である」(57頁)として、そのリーダーは不比等・長屋王・道慈の三人であることは明らかだとしています。曖昧な形でプロデューサー説の方向にシフトしつつあるのでしょうか。

  しかし、今回の拙論では、森さんが挙げた用例以外の倭習の例を多数示し、道慈作として伝えられている文章との違いを指摘しました。特に、大山氏が道教的な箇所中で最も重要とし、儒教派の不比等と道教派の長屋王の立場の相違を道慈が巧みに調整して書いたとする片岡山飢人説話については、いかに倭習が多いかを詳しく示しておきました。誰が書いたにせよ、太子関連記述に漢文の初歩的な誤用や奇用がこれほど沢山残されているとなると、16年間も中国で学んだリーダーさんは、いったい何をしていたんでしょう? 「記述の方向性を示し」ただけで、担当者たちが倭習だらけの漢文で書いた本文を実際に読んでチェックすることはなかった、ということなのでしょうか。

  また、このブログの続編記事で紹介するように、今回の拙論では、大山説の有力な根拠となった新川論文ばかりでなく、「道教と古代日本文化」ブームのきっかけとなった福永光司・上田正昭・上山春平『道教と古代の天皇制』(徳間書店、1978年)、福永光司『道教と日本文化』(人文書院、1982年)などに見える聖徳太子と道教を結びつける解釈についても、ほとんどすべて間違いであること、特に福永先生の主張は問題であることを明らかにしておきました。他に大山氏の架空説の有力な根拠の一つは、『勝鬘経義疏』に関する藤枝晃先生の中国撰述説でしたが、これが誤りであることは、当ブログの「三経義疏中国撰述説は終わり」「三経義疏中国撰述説は終わり(続)」で既に報告した通りです。

  つまり、大山誠一氏の「聖徳太子架空説」は、前提からして間違っていたのです。

 なお、私は大山説を認めないといっても、実証的な立場から大山説の論証の不備を指摘しているだけのことです。『日本書紀』の記述をそのまま信じて聖徳太子を礼讃し、大山氏の非実在説を論難する人たちとは立場が異なります。

 津田左右吉博士を攻撃した国家主義的な聖徳太子礼讃者たちの思想的系譜については、公開講演「聖徳太子論争はなぜ熱くなるのか」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』第40号、2007年5月)で明らかにしておきました。私は聖徳太子に関する津田博士の個々の説には反対であることが多いものの、津田博士が開設された研究室で学んだ身であって、学風の一部は継いでいるつもりです。


【追記 2010年11月5日】
大山氏が津田左右吉説を歪めていることについては、「津田左右吉説の歪曲」および「津田左右吉説の歪曲(続)」で詳しく述べましたが、問題山積であり、特に続篇の記事については、書いているうちに大山氏の論文作成法の粗雑さが良く分かりました。また、津田左右吉説に対する国家主義者たちの攻撃についても、当時の文部省の姿勢を含めて、詳しく書いておきました。


「天寿国繍帳」多至波奈大女郎=架空人物説の創唱者

2010年05月26日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 山尾幸久先生は、『聖徳太子の実像と幻像』所載の論考では、大山誠一氏の説を意義有る問題提起として高く評価しつつ、個々の主張についてはかなり厳しく批判されています。とりわけ、「天寿国繍帳」は光明皇后の「情念の所産」であって多至波奈大女郎は架空の人物だという説については、「驚天動地である」として疑問を列挙されました。むろん、大山氏の新説と見ての対応です。
 
 実際、大山氏は、複数の著書や論文で光明皇后「情念の所産」説を述べており、聖徳太子の薨日を二月五日とする『日本書紀』に反して、二月二十二日説が定着したのも、天平八年のこの日に光明皇后が道慈らを招いて大がかりな『法華経』講読法会を行ない、後の聖徳太子御忌(聖霊会)の先駆をなしたためとしていますが、先行学説があるとは書いていません。

 しかし、藪田嘉一郎氏の論文、「聖徳太子薨日信仰の形成」では、「天寿国繍帳」を作らせたのは光明皇后であると断言しています。そして、大山氏と同様に、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘も聖武朝の成立とし、銘文に述べられているのは「太子の王后の心情によそえた光明皇后のそれであると思われる」と明言し、多至波奈(橘)大女郎には光明皇后の母である「橘犬養宿禰三千代の連想もあった」と推測しています。この他にも、大山説と共通する点がいくつか見えています。

 大山氏は、薨日を二十二日にしたのは長屋王を謀略で滅ぼした二十月十二日を考慮した光明皇后の作為とするのに対し、藪田氏は二月二十二日を「真の薨日」とするなど、いくつかの点で違いがあり、大山氏は藪田氏の論文は読んでいないようです。ただ、藪田論文は、目につきにくい雑誌にわかりにくい題名で掲載されていたわけではなく、「聖徳太子薨日信仰の形成」というそのものずばりの題名で、この分野の中心学術誌であった『聖徳太子研究』誌の第6号(昭和46年11月)に掲載されています。

 太子の薨日について議論するのであれば、当然読んでおくべきでした。また、偶然、考えが一致しただけであって、藪田論文に後になって気づいたとしても、自分の主張中の重要な論点について似た説を述べている先行論文があれば、必ず触れるべきでしょう。