画家レンブラントは1606年にこのライデンで生まれた。路地を入ると生誕地とされるところにある新しい建物にプレートがかかっていた↓
そこから見える風車は、レンブラントの両親の持っていた風車を1990年代に復元したもの↓
小さな広場には、少年のレンブラント?
イーゼルの上にある絵は自画像なのか、レンブラントの母なのか?
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[Sand stone gate)は、かつて「自警団門」とよばれていた場所↓
レンブラントの描いた自警団は、17世紀から18世紀には多くの町で組織されていた。
スペインからの独立直後には、治安を守る国家的組織が未発達で、市民が自ら武装していたのだろう。
その場にあった解説によると、「1795年に自警団はその軍隊的な性格を失った」とある。ちょうどフランス革命でナポレオンの軍隊が占領した時期にあたる。
ちかくにあるライデン大学が管理する建物は、かつて貧窮院だった
小さな橋を渡ると、フリースラントの旗を出したパン屋さんが角にあった↓
フリースラントはオランダの北部。独自の言語と習慣を今もとどめている「オランダの中の異国」だという。今日の午後はそのフリースラントの首都レーワルデンへ行くので、ちょっと気になって立ち寄った。
どれも甘いパンや焼き菓子(いくつか買って食べました)。しかし、「これがフリースラントの!」というような感じはひとつもなくすぎる(笑)
↑お店の前の運河をはさんでたつ家。よくあるのだけれど、オランダらしく、つい撮ってしまう。
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●ラッペンブルフ通りは13世紀後半に掘られた運河がある。
オランダの黄金時代17世紀には裕福な人々が屋敷をかまえた。今でもその名残は感じられる↓風景はあまりかわっていないようだ
スペインからの独立を実質的に果たし、プロテスタント国としてカトリック的な宗教観に縛られない国となったオランダでは、当時の先進的な学問の本が出版されていた。イタリアでは「地動説」で宗教裁判にかけられたガリレオの、他国なら御禁制の本も、ライデン大学は印刷した。
ガリレオの地動説に影響を受けたフランス人哲学者デカルトは、1640年にこの通りの23番地に住んでいた※現地の解説版より
人間の存在理由を、神ではなく自分自身であると規定したデカルトでも、オランダならば宗教界からの弾圧を受けずに住むことができたのである。
19世紀になって、このラッペンブルフ通りに住んだ日本ゆかりの人物がシーボルト。日本を追放された三十代はじめの彼が住んだ家が、今は記念館になっている。★シーボルトハウスには、彼が持ち帰った大量の品々の一部が今でも収蔵されている↓医師であった彼はアジアの医療である鍼灸に興味をもち、人体模型とともにその知識を持ち帰った↓
同時期に出島の商館長が作成していた辞書↓
ただの「犬の剥製」に見えるけれど、博物館の日本語解説を聴くと、シーボルトと、愛犬「さくら」の関係が見えてきた↓
※こちらに書きました↓
記念館ではちょうど古い地図に描かれた日本の展覧会をやっていた↓
シーボルトは日本の地図を持ち出そうとしていたことで追放になった。
****★ライデン大学の植物園と日本庭園
オランダで最初に創設された、王家の方々も通った名門。
ヨーロッパでは大学は特定のキャンパスではなく町中の様々な建物を利用している場合が多い。ライデンもその典型。市民も、我々のような旅人でも、ひろく利用することができる。植物園の一角へ↓
シーボルトが日本から持ち帰って植えた木々が、今でも枝をひろげている↓
小さな日本庭園にある記念胸像↓
なぜか菅原道真の↓
日本関係だけでなく、歴史的な植物研究についての解説がされている。16世紀にミツバチの研究をした学者の功績を再現したコーナーに、昔ながらの養蜂が再現されていた↓
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ライデンには1608年にイギリスから移住してきた清教徒の一団が住んだ。彼らは十年ほどは宗教的に自由なオランダで暮らしたけれど、外国人の移民たちには厳しい環境だったのだろう。1920年にはいったん自国に戻り、プリマスから新天地アメリカを目指したのだった。その記念プレートが置かれている↓
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この13世紀からの四角い塔(左の六角形の部分は15世紀)のあるたてものでは裁判が行われ、前庭では窓から判事の見守る中、公開処刑が行われていた↓
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レンブラントが十歳から十四歳まで通ったラテン学校があった建物↓
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市庁舎↓
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運河の上にかかる橋↓
その屋根裏には小麦が貯蔵されていた↓
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●要塞
スペインからの独立戦争中の1574年、半年にわたって包囲されたライデンの住民がたてこもったという円形の要塞が丘の上にある↓
内部には深い井戸が掘られていて籠城を可能にした↓
ついに堤防を決壊させて、包囲していたスペイン軍を追い払うという市民にも打撃をあたえないでは済まない方法をとった。
オランダ総督となる沈黙候ウィレムは、その行為をたたえて褒美を与えることにした。
ライデン市民は、オランダで最初の大学の設立を要請し、ここからライデンの発展がはじまったのだった。