旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

音楽家たちの暮らした家々を見学して、夜はオペラ「ドン・ジョヴァンニ」

2018-01-17 14:41:43 | オーストリア
○モーツァルトが「フィガロの結婚」を作曲した家は、シュテファン大聖堂のすぐ裏手の路地にある↓

↓突き当たりのアーチのあるところがそれ↓

以前は「フィガロハウス」という名前だった。
モーツァルトはウィーンに滞在した十一年間に十三ヵ所に住んだが、ここはそのうち唯一残されている場所↓
だが、その建物全部ではなく、彼が借りて住んだのはそのうちほんの二部屋なのだが↓

三階ぜんぶが「モーツァルトハウス」とされている。
※すぐとなりの建物の中庭を見るほうが、18世紀後半の様子が感じられるかもしれない↓

「こうした中庭に面した回廊のことを『パウラッチェン』と呼びます。これは外国語のようです。」と解説された。
調べてみると、もともとはボヘミアあたりからの言葉のよう↓
※こちらの方のブログに語源の解説がありました
日本でも中庭を「パティオ」と呼ぶ方がおしゃれな感じがする。
ウィーンの人々もそう感じて「パウラッチェン」という言葉を使うようになっていたのかもしれない。
外国から入ってきた文化・言語に自分たちの言葉の新しい名前を付けるか、外来語としてそのまま使うか、いつも問われるところです。

内部はシンプルな展示室が続く↓

かつて住んだ部屋だけ、こういう装飾が復元してある↓

もちろんお土産も売っている。雨が降ってきたから傘を買いましょ↓どっちの色がいいかしらん?

↓大聖堂の後ろ手にある、モーツァルトのお棺が運び出された穴↓



***
昼食は老舗のグリーヒェンバイゼルにて↓

****
午後、町の外へむかってバスを走らせる。
なんだか面白い建物がみえてきた↓
ウィーンの歴史的町並には似つかわしくないが、この建物はなかなか面白い。
フンデルトワッサーの設計したゴミ焼却場であります↓

**
午後いちばんで今は町の中になってしまった「シューベルトの生家」へ↓

父親はここで学校の先生をしていた↓この中庭の一回右奥が教室だったのだそうだ↓

この時代の普通の生き方としては、父や兄たちのように教師になるのだろうが、音楽の才能をみとめられて音楽を志した↓
いつもいつもかけていたメガネ、本物です↓

寝るときもはずさなかったので、友人たちがメガネケースを隠してしまったのだそうな↓
シューベルトの歌は同時代にすでに皆に愛されていた↓下はシューベルトの歌のための集いなのだそうだ

「友人を大事にするひとだったようです」とガイドさんのコメント、なるほど、そうなのだろう。でなければ、いかに良い曲をつくる人であっても本人を招いてこういう集まりはおこなわれなかっただろう。
三十年そこそこの人生ではあったが、幸せな瞬間もたくさんあったにちがいない。
***
「ベートーベンの遺書の家」は、もっと郊外のホイリゲ地区にある。
新酒の時期には団体バスもたくさんやってくる酒蔵街も近い。


衰えゆく聴覚をはっきり自覚したのは、この教会の鐘が揺れているのに音が聞えないということだったという↓

そして、「遺書」と呼ばれるようになる手紙を書いたという。
↓この家にも中庭がある↓元はパン屋だったのだそうだ

ここもまた、全部がベートーベンの借りた家ではなかったが、今では全部が記念館になっている。
ベートーベンが散歩していた時の杖といつも持ち歩いていたコンパスなどはあるが、当時の住んだ雰囲気はまったくない。そういうものを再現しようとしていない↓

****
四時半にはホテルに戻る。オペラ「ドン・ジョバンニ」は19時から22時半までの長丁場。しっかり体力を回復させて臨まねば↓

★こちらに「ドン・ジョヴァンニ」観劇記、簡単に載せました




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ウィーン到着、音楽家の墓地と旧市街エリア

2018-01-16 18:42:26 | オーストリア
雨のチューリヒで乗り継いで午後7時にはウィーンの空港に到着した↓

ウィーンのシュベッヒャート空港は市内から南東に13キロほど。三十分かからず、8時過ぎにホテルに到着できた。

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翌朝、曇ってはいるが気温は+8℃ほど、この時期のウィーンなら暖かいと言ってよい。朝いちばんで「ウィーン中央墓地」へ↓
↓二番塔門から入る↓

ここはヨーロッパでも屈指の大きさで2㎢ほどあるが、それほど古い墓地ではない。
19世紀、ウィーンの街の城壁を取り壊し町全体を再編成した際に出現した。
映画「第三の男」のエンディングで使われた並木道はこの墓地のモノだとか↓


「音楽家セクション」の見取り図↓モーツァルトを真ん中にきれいに並んでいる↓

墓地が出来るより前のモーツァルトがなぜこの墓地に?


実は音楽家たちの墓は、それ以前別々の場所に眠っていたものをわざわざここに改葬したのです。
それでなければ、こんなに並びませんよね。
※モーツァルトは実際の遺体がどれだか特定できなかったので、記念碑だけを建立。

○ベートーベンはメトロノームのカタチをしていると言われる↓


○シューベルトは崇拝するベートーベンのとなりへ 


○左は「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス(息子のほう)、右であたまを抱えているのがブラームス


○ラデツキー行進曲で有名なヨハン・シュトラウス(父のほう)の墓はこれ↓

皇帝からの覚えは父の方が良く、↓墓碑に「K u K」という称号がつけられている↓

これは「カイザー(皇帝)と王(ケーニッヒ)」の音楽家、という意味。公式の称号を賜っていたわけだ。
「ワルツ王」の息子の作品群は、当時は「軽い音楽」とみなされていたのでしょうか。
息子の髭が皇帝のそれに似ているのは、ちょっとでも親近感をもってもらいたかったから、という説も伺いました(^.^)

○無調音楽のアーノルド・シェーンベルグの墓↓ジョン・ケージの師匠と言えば分かりやすいかもしれない

彼は1951年没だから、最初からここが墓だったのだろう。

墓地の中央にそびえるカール・ボロメオ教会↓

すぐ前は政治家たちのセクション。
国連事務総長まで務めたワルトハイム氏の墓もあるそうだ。

ここはいまでも、お金さえあれば新しい墓を手に入れられる。こんなのもありました↓


***ウィーンの旧市街すぐ手前に、「ソ連軍兵士の像」がある↓

第二次大戦末期にウィーンの町を「解放」した記念碑で、これはウィーン市が勝手に取り壊したりできない↑

リンク通りへもどってくる↓正面ケルントナー通りの奥にシュテファン大聖堂の尖塔が見える↓


○国会議事堂↓

○モーツァルト像↓

○市庁舎↓

○皇帝が暗殺の危機を脱した記念に建てられたボーティーフ教会↓


****クリスマスと新年の飾りがまだ残されている↓


この手の自転車、近頃どこの年でも見かけますね↓


●シュテファン大聖堂
塔はもともと二つの予定だったが↓先までできたのは一本だけ

すぐそばには1970年代に建設許可が出されたというモダンなビルが↓今なら絶対許可されないでしょう↓




○15世紀末説教壇の彫刻が秀逸↓手袋をはめた手の表現の迫真


手すりのところに悪と善のせめぎあいを象徴する動物↓

この説教壇の作者は、長年アントン・ピルグリムとされてきたが、近年の研究でニコラス・ゲアハルトによると改められた。
ニコラス・ゲアハルトの作品、だいぶ以前にストラスブールの寒い夜に入った博物館で出会ったのを思い出す。
おもわぬところでつながった(^.^)

○フリードリヒ三世の墓↓

大聖堂の右奥に安置された巨大な石棺は、15世紀はじめにハプスブルグ家が皇帝位を世襲する元になったフリードリヒ三世のもの。
半世紀以上帝位にあり、その間にライバルはどんどん先だってしまった。
78歳で没し、息子のマクシミリアンが跡を継ぐときにはハプスブルグ家の支配は盤石となっていった。
長生きすれば良いことがある、という見本みたいな人物。

○大聖堂外壁に刻まれた「05」の文字↓この意味は?

オーストリアはドイツ語表記だと Österreich ⇒最初の文字が「oウムラウト」。
「oウムラウト」は「OE」と表記することができる。
最初の文字はゼロではなくてアルファベットの「O」オー。
次は、アルファベットの五番目の文字「E」
これは、第二次大戦中にオーストリアの独立を求める暗号だった。

もともとは描かれただけだったが、2000年以降に多くの人が触りすぎて消えそうになったので彫り込んだのだとガイドさんのお話。それを保護すべくガラスのカバーがかけられ、今では足元に解説文まで付託されておりました。

*****
昼食を、老舗レストランのグリーフェンバイゼルで食べて、午後はベートーベンの遺書の家など見学へ。
夜にはオペラ「ドン・ジョヴァンニ」観覧です。


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