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裏山ポタリング(1)                            -山城跡・馬場下通路-

2006年07月01日 | MTB[トレイルラン]
[7/9追記・修正] 私の勘違い、思い込みによって、間違いを記述しているところがありましたので、追記、修正致しました。[追記・末]

 普段から「フリーライド・ポタリング」と言ってるからには、たまにはポタリングらしく寄り道をしてみましょう。今回は、私のアパートの裏山ポタリングをしてみます。

 このブログでは、「裏山」と軽く言ってしまっていますが、標高238.5mの独立峰。独立峰に相応しく、東西3.1km、南北3.8kmの山城跡のある国の史跡であります。
 Webで軽く調べてみますと、1469年に新田一族であった岩松家純によって築城されたとあります。(1469年以前、平安時代末期には新田氏によって築かれた城の前身があり、新田義貞一族の滅亡と共に一時は廃城になったという説もあるようです。)

 その後、甲斐の武田氏・越後の上杉氏・相模の小田原北条氏などの戦国大名と、連携、敵対、攻防を繰り返しましたが、この山城は難攻不落を誇りました。1574年には五度に渡り上杉謙信の攻撃を受けましたが、持ちこたえています。
 しかし、1590年に豊臣秀吉の小田原征伐により、攻撃され落城。廃城となっています。(小田原征伐に「伴い」廃城かな?)
 攻撃による落城ではなく、1590年に豊臣秀吉の家臣らに城を接収されたが、管理されないまま廃城になったという解説もあります。

[7/9追記・修正] 攻防戦による「落城」ではなく、接収による「廃城」とのことです。[追記・末]

[7/9追記・修正] この史跡の価値について
 従来、「関東地方では戦国時代の城にこの様な石垣や石敷きはない」という定説であったようですが、この史跡の発掘により、この定説を覆す史跡となったようです。
 また、当時としては非常に大規模な山城であったようです。[追記・末]

[7/9追記・修正] この史跡の復元について
 戦国時代の史跡というと、苔むした遺構がチョロっと地面に露出しているというイメージで、ここで紹介したような復元された史跡を見ると興ざめする人も居るかもしれません。
 しかし、この復元は整備備によって、遺跡が壊れることのないよう、十分な手立てを講じた上で、施設の設置や復元整備等が実施され、綿密な調査に基づいた推定復元を行い、具体的な形として示すという方法を採っているようです。ちなみに、近年、史跡を理解するためには、「復元」(原寸大模型)が有効と考えられる様になってきているようです。また、この史跡の復元は、この復元方法の先駆けとなる事業のようです。
 私自身は、このような復元方法、税金の使い方には肯定的な考えです。歴史的な知識がないと、想像力だけで遺構の全体像を掴むのは難しいですし、これだけの史跡を崩れるに任せるにしとくのは、忍びないですからね。[追記・末]

[7/9追記・修正] 本史跡の場所と、
               参考にさせて頂いたHPについて
 「ローカルトレールは、Web上で公開しない。」という私のスタンスから、誠に勝手ながら本史跡の名称、場所などについては、本ブログでは明記しておりません。
 また、同様の理由により、参考にさせて頂いたHPも紹介しておりません。参考にさせて頂きながら紹介しないとは、何とも心苦しい限りです。
 そこで、「本史跡自体について知りたい。」というコメントを頂ければ、そのHPを紹介させて頂きたいと思います。(地元の方々には、写真を見ればバレバレなんですけどね。)[追記・末]

 と言う訳で、この城は一般的にイメージされる天守閣があるお城ではなく、戦国時代の戦闘向きの城、むしろ砦といったイメージのようです。(天守閣があったかどうか?それが判明しているのか?は、私には調べきれませんでした。)

[7/9追記・修正] 何らかの本城にふさわしい建物はあったのでしょうけど、江戸時代の城のような天守閣はなかったというのが、現在の見方のようです。[追記・末]
 
 なんか、このブログに似合わずアカデミックでしょ。

 廃城から400年以上経っているので、素人目には本来なら城跡と分からない状態だったのでしょうが、ここ十年ほどの発掘調査で、その構造の一部が判明し、その調査に基づき各構造物が綺麗に再現されています。
 何時行っても、ゴミ一つなく、掃除している人も見た事がないので、ここを訪れる方々のモラルの高さに感服します。(駐車場がある西城跡は、昼間は外回りのサラリーマンの休憩所、夜はアンチャン達の溜まり場になっているので、汚いです。)

「本城大手口」
Yamajiro_02s 傍らの説明看板には、本城大手口とありますが、走り易いシングルトラックにみえますね。この先がどうなってるかは見ていないので、今度行ってみよう。
 
[7/9追記・修正]  ここが大手口だったかどうか、はっきりしません。少なくとも私が参考にさせて頂いたHPには、ここに関する記述はありませんでした。[追記・末] 
 
「堀切」
Yamajiro_03s 防御施設の堀切です。尾根を鉛直方向に掘ってあります。
 これは下から眺めたところ。説明は次の項で。
 
「馬場下通路」
Yamajiro_15s
 これは本丸に通じる通路の説明看板の図です。いかにも山城らしい構造で面白いです。

Yamajiro_13s_1 この写真は、城側(防御側)の木橋の手前から馬場下通路を見た写真です。
 
 
Yamajiro_08s_1 この写真は、上の図の一番左がから城方向を眺めた写真です。
 つまり、攻撃側が馬場下通路までたどり着いた時、はじめて目にする光景です。攻撃側は奥に見える石垣(この上に構築物があったかどうかはわかりませんが)からの鉄砲や弓矢の集中攻撃を受けながら、手前の細い通路を前進することになります。
 石垣までたどり着いても、通路の右側は崖になっているので、石垣を盾にすることは難しいでしょう。できたとしても、左側も含めて数名が隠れられる程度でしょうか?

Yamajiro_09s_1 上の写真の石垣を抜けると、この光景が目に入ります。
 奥には1mほど高く設置してある木橋が見えます。更にその奥には、また石垣があります。
 今は右側に木がうっそうと繁っていますが、当時は視界(射界)を確保する為に切り払われていた事でしょう。私が防御側であればそうします。
 攻撃側は、ここでも集中砲火を受けながら前進を強いられることになります。

Yamajiro_06 写真と私のつたない文章では、位置関係が分かり難いでしょうから、説明看板のパース図を貼っときます。これなら写真との関係がわかるでしょ。(かな?)

Yamajiro_01s これは木橋手前から、立ち姿勢で城方向を撮った写真です。しゃがんで撮った訳ではありません。木橋は手前の地面より1m程高く設置してあるのです。
 もし木橋に登る階段や斜面が無かったとすると、攻撃側はここに登る時に隙を作ってしまう訳です。最も木橋の影に隠れることも出来るわけですが。

 Yamajiro_11s
 今度は防御側から見た写真です。
 木橋左側の石垣の上から、通路入り口方面を見た写真です。左側の木が無ければ射界が開けてます。
 木橋右側の階段は、集中砲火に耐えかねた攻撃側を、前記した堀切に降ろす階段です。なぜ逃げ道を作っておいたのでしょう?守る側としては、長い間攻撃されるより、逃げてもらった方が有り難いのかな?

[7/9追記・修正] この階段は、堀切を通って下の通路に繋がり、西城と実城域との連絡通路の本筋として利用したものと考えられてるようです。[追記・末]

Yamajiro_05s これは木橋谷側の石垣の上から堀切を見た写真です。上記の「堀切」の写真と丁度逆方向から眺めた写真になります。
 堀切に落ちた攻撃側は、ふりだしに戻ることになります。

Yamajiro_12s これは木橋を渡った石垣の裏にある建物跡。どんな建物が建っていたか分かりません。

 この日はここまで。暗くならないうちにトレールを下ることにします。
 どうです?なかなか面白い所でしょ。