ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産法の体系(連載第23回)

2020-04-11 | 〆共産法の体系[新訂版]

第5章 経済法の体系

(6)土地管理法
 経済法に関連して、特に取り出して検討を要するのは、土地問題である。持続可能的計画経済を基軸とする共産主義社会において、土地は無主の自然物として扱われる。すなわち、法的には私人であれ、公共体であれ、土地はおよそ所有権の対象とならない(拙稿参照)。
 しかし、各領域圏は土地の持続可能な計画的利用を目的として、土地管理権を保持する。この土地管理権は一個の公共団体である領域圏に帰属する公的権利であるので、市民法の規律対象には含まれない。具体的には、経済法の一環である土地法に規定される。
 土地管理権は所有権のように譲渡可能なものではなく、領域圏は恒久的に土地管理権を保持することが義務付けられ、それが譲渡されるのは領域圏内の一部土地が他の領域圏に帰属することになった場合だけである。
 こうして土地に所有権は成立しないとはいえ、土地上の建造物に関しては私人のほか、企業体、公共体の所有権が成立する。典型的には、個人の私宅である。この場合、領域圏が宅地として区画・開放する土地について、個人と領域圏の間で土地利用契約を締結することになる。
 この契約は無償の使用貸借契約の性質を持つが、管理権を持つ領域圏との契約という特殊性から、やはり土地法によって規律される。そこでは、住宅所有者の居住の安定を基本に、原則として使用貸借期限は無期限とし、借地権の相続も認められる。
 他方、企業体や地方自治体など公共体との土地使用貸借契約については、建造物の用途に応じて期限の有無が決まり、期限付きの場合であっても、契約解除の正当な理由がない限り、更新されていくことになる。
 なお、およそ土地利用権者はその利用権を無断で他人に譲渡・転貸等することは許されず、そのような無断行為は契約解除の正当な理由となるばかりか、領域圏の土地管理権を侵害する経済犯罪として立件されることにもなる。

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共産法の体系(連載第22回)

2020-04-11 | 〆共産法の体系[新訂版]

第4章 経済法の体系

(5)労働関係法
 本章(1)で、共産主義的経済法の体系には労働関係法が包含されることを指摘した。共産主義的企業組織にあっては労働と経営とが結合しているためである。その点で、労働と経営の分離を前提とする資本主義的な労働関係法は、労働者個人の権利を擁護する個別的労働法と労働組合の組織や権利について定める集団的労働法とに分かれることが多い。
 このように労働者が企業の外部で組合を結成して団結しなければ労働者の権利が十全に守られないということが、まさに資本主義的な経営と労働の分離の結果でもあるわけであるが、共産主義的企業組織は、前回整理したとおり、共同決定型にせよ、自主管理型にせよ、企業組織内部に労働者機関が常置されるので、それとは別に組合のような外部団体を基本的に必要としないのである。
 その結果、いわゆる労働者の団結権と呼ばれるものもことさらに観念されることはない。ただし、このことは団結の禁止を意味しない。むしろ団結権は共同決定権や自主管理権の内に含み込まれるような形になると言えるであろう。
 さらに、いわゆる労働三権の中でも最も先鋭的な争議権も必要なくなる。共同決定なり自主決定なりが機能する限り、争議行為に発展するような労使紛争事態はそもそも発生しないはずだからである。仮に万が一深刻な労働紛争が発生した場合でも、企業組織内に設置される第三者仲裁委員会で裁定すれば足りるであろう。
 かくして、共産主義的労働関係法はいわゆる個別的労働法がそのすべてを占めることになるが、同時に、それは狭義の労働基準法に限局されず、労働安全衛生法や雇用差別禁止法のような労働環境法制も包括された統合法となる。
 そもそも貨幣経済が廃される共産主義社会では賃労働は存在せず、すべては無償労働である。従って、労働基準といえばほぼ賃金問題が占めている資本主義的労働基準とは根本的に異なり、共産主義的労働基準は労働時間規制を中核としながら、安全衛生やハラスメント行為防止などの職場環境規制がそれに付随することになる。
 その結果、労働基準監督のあり方も大きく変わり、資本主義下におけるように強制捜査権まで備えた警察型の労働基準監督制度は必要なくなり、労働護民監のような人権救済型のより司法的な労働紛争解決制度が発達していくことになる。

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共産法の体系(連載第21回)

2020-04-10 | 〆共産法の体系[新訂版]

第4章 経済法の体系

(4)企業組織法
 共産主義的経済法の三番目の柱は、共産主義的企業組織のあり方について定める企業組織法である。企業組織法は、資本主義的法制で言えばほぼ会社法に対応するものであるが、共産主義社会にはもとより株式会社に代表されるような営利会社は存在しない。
 従って、共産主義的企業組織の法的な性質は社団法人であるが、営利法人ではなく、非営利的な生産法人である。生産法人には法人格が付与され、法の認める範囲内で一定の権利も保障される。
 共産主義的企業組織法の大きな特徴としては、労働者組織法を内包していることが挙げられる。すなわち、共産主義的企業組織では労働者自主管理または労使共同決定がその運営の基本理念とされるので、それに対応した内部的な労働者機関が常置されるのである。
 共産主義的企業組織として具体的にいかなるものがあるかについては、すでに『持続可能的計画経済論』(特に第4章)にて論及してあるので、ここでは法的な観点からの総まとめにとどめる。
 共産主義的企業組織を法的に分類すると、大きく社会的所有企業と自主管理企業とに分けられ、前者には生産事業機構、後者には生産協同組合が該当する。運営方法から言えば、規模の大きな生産事業機構が共同決定企業に相当する。計画経済が適用されるのは前者の社会的所有企業‐生産事業機構に限局される。
 後者の自主管理企業‐生産協同組合は計画外の自由な生産活動に従事し、ここでは物々交換も行なわれるため、その限りで営利企業に近い性格を持つが、株式会社のように利益を会社所有者としての株主に配分するという法的な意味での営利性は持たないことは、上述のとおりである。
 この両者の中間的な形態として、生産企業法人がある。これは計画外生産に従事する点では生産協同組合に近いが、大規模なため自主管理が技術的に困難であることから、生産事業機構に準じた共同決定型の内部機構を持つ大企業である。
 また生産協同組合よりも小規模な零細事業組織として協同労働集団(グループ)があるが、これは法人でなく、労働者の集団である。ただし公的に登録されている限り、事業展開に当たっては便宜上法人格に準じた一個の法的集団としての資格が与えられる。

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近代革命の社会力学(連載第91回)

2020-04-08 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(3)イラン立憲革命

〈3‐3〉第二議会と列強の反革命介入
 1906年末にイラン初の近代憲法に署名したモザッファロッディーン・シャーはすでに病床にあり、明けて1907年1月に死去したため、モハンマド・アリー・シャーが跡を継いだ。元来から反動的な彼は、立憲制に否定的であったため、即位するや、父が署名した新憲法の廃止を宣言した。
 その際、モハンマド・アリー・シャーは革命派内部の党争を有利に利用することができた。革命派内部に、伝統的なイスラーム法(シャリーア)に基づく立憲制を主張する保守派と近代憲法を擁護する革新派の対立関係が生じていたからである。
 こうした革命派内部の対立が各地で衝突に発展すると、モハンマド・アリー・シャーは事実上の宗主国であったロシアとイギリスの支援を受け、1908年、議会を砲撃して解散に追い込んだ。このクーデターはしかし、一時的な成功しか収めなかった。クーデターに対して、地方の民衆会議が抵抗を開始したからである。
 アンジョマンと呼ばれたこれら民衆会議の拠点となったのは、北西部の都市タブリーズであった。タブリーズのアンジョマンは第一議会の時代から事実上の自治体制を築き、独自の警察・司法権まで行使する存在になっていたからである。同時に、タブリーズ・アンジョマンは社会主義的な傾向を強め、イランでも最も革新的であった。
 王権側がタブリーズに鎮圧軍を差し向け、包囲戦を展開すると、アンジョマン側は階級横断的な義勇軍を組織して抗戦した。王権側がその鎮圧に手こずる中、各地のアンジョマンがタブリーズに続いて蜂起した。1909年には、これら革命勢力がテヘランに進軍すると、モハンマド・アリー・シャーはロシアへ亡命した。
 しかし、立憲革命第二期を画するこの民衆革命は一気呵成にカージャール朝を打倒する共和革命とはならず、引き続いてモハンマド・アリー・シャーの息子アフマド・シャー が即位しつつ、第二議会が開設された。第二議会は、階級別制限選挙かつテヘラン偏重の定数不均衡選挙によった第一議会の欠陥を正し、より民主的な議会制度となった。
 その結果として、議席の過半数を宗教指導者、地主、官僚などが占めるブルジョワ議会の性格を強め、革命を収束させる方向に動いた。これに対し、政教分離や農地改革などの急進的な政策を掲げる革新派が対立し、その対立は議会外でのテロリズムを助長した。このような内紛は、革命の進展には大きなマイナスであった。
 しかし、最終的な打撃となったのは、最大課題であった王朝の財政破綻を立て直すべく、アメリカ人のモルガン・シャスターを財務総監に招聘するという奇策であった。
 シャスターは、アメリカ支配下のキューバやフィリピンで税関長を務めた経験のある法律家であり、効率的な徴税機関や王族領地の接収などを断行しようとするも、ロシアの強い反対にあった。
 1911年、ロシアはシャスターの罷免を要求し、イラン北部に侵攻、第二議会を閉鎖するという挙に出た。実は、ロシアは第二議会開設前の1907年にライバルのイギリスと西アジア方面の権益分割を約する英露協商を締結し、イランに関しては北部をロシア、南部をイギリスの勢力圏とする合意を交わしていた。
 1911年のイラン侵攻はこうした協商に基づく軍事行動であり、イギリスの黙認の下に実行されたものであった。こうして、イラン立憲革命は列強の反革命介入により、終焉したのである。以後、カージャール朝自体は1925年まで持続するが、ロシアの支配の下で形骸化していった。
 民衆革命の成功例かに見えたイラン立憲革命がこのように外圧によって挫折する結果に終わったのは、宗教的なバックボーンが強い風土の中、革命派内部の対立を止揚できなかったことに加え、共和革命に進展させることをせず、王朝の背後にある列強の支配にも抵抗せず、内政問題にのみ集中するという革命派の政略のまずさもあっただろう。

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近代革命の社会力学(連載第90回)

2020-04-07 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(3)イラン立憲革命

〈3‐2〉第一議会の開設と憲法制定
 1905年末に始まったイラン立憲革命は 1911年にかけてかなり時間をかけたプロセスを辿ったことを特色とするが、その過程は大きく二つの時期に区分することができる。最初は、1906年の第一議会開設とその下での近代憲法が制定されるまでの時期である。
 1905年頃のイランの政治経済状況を見ると、日露戦争の影響によるロシアからの輸入激減と首都テヘランでの物価高騰で商人層も庶民層も苦境に陥っていた。一方、政治的には半世紀近く君臨した専制的なナーセロッディーン・シャーを継いだモザッファロッディーン・シャーの下、王権が弱体化していた。
 1905年末、砂糖の価格引き下げに抗議する商人と宗教指導者が民衆を率いて決起したが、親政府派によって暴力的に介入されたため、決起集団は聖域である霊廟へ避難し、一か月近く立てこもった。この後、政府側との妥協が成立し、改革策を討議する協議会の設置で合意した。
 しかし、政府側は時間稼ぎのため、協議会の設置を遅らせ、その間に反政府派の懐柔と分断を画策していた。これに業を煮やした反政府派の非難が強まると、政府は反体制派説教師の検挙という弾圧で応じた。このことに抗議する民衆が蜂起したが、政府側は武力鎮圧と兵糧攻めで鎮圧を図った。
 こうした騒乱を避けて、商人や宗教指導者を含む反政府派は、治外法権のイギリス公使館へ避難するという挙に出た。その数、1万人を超え、首都テヘランでは事実上のゼネスト状態となった。この第二次籠城はまだ革命としては未成立であったが、籠城集団が一種の革命組織に近い形となっていたため、未然革命の段階に達したとみなされる。
 今回は、籠城集団が要求する国民協議会の設置に応じない限り、籠城を解けないとみた政府は、ようやく設置に応じ、1906年8月にはモザッファロッディーン・シャーが立憲詔書を発布したことで、イギリス公使館の籠城が解除された。
 第一次籠城の際に交渉の焦点となった協議会は「アダーラト・ハーネ」(正義院)と呼ばれ、イスラ―ム色の強い合議体が想定されていたが、第二次籠城の結果、設置が決まった協議会は選挙された議員で構成される近代的な議会制度に近い構想によっていた。
 第一次籠城から第二次籠城の短い間に、新旧の思想交代が見られたことになるが、これは革命派の内部にも宗教指導者や説教師のようなイスラームの伝統に基づくグループと都市で台頭した近代的な思想を持つグループとがあり、革命の過程で後者が前面に出てきたことを示している。
 その結果、1906年9月にはイラン最初の公職選挙とそれに基づく議会(第一議会)が招集される運びとなったが、これは王族を筆頭とする六階級制に基づく制限選挙による中世の遺風を残した「議会」であるうえに、テヘラン選出議員が半数近くを占める定数不均衡が瞭然であった。そのため地方人士の不満を高め、第一議会に並立するある種の民衆会議の設立が相次ぐこととなった。
 とはいえ、第一議会は制憲議会としての役割を果たし、フランス人権宣言やベルギー憲法を参照したイラン史上初の近代憲法の制定を導いたのであった。その結果、二院制による国民議会の開設など、カージャール朝イランは立憲制という新たな歴史の段階に進むことになるはずであった。

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近代革命の社会力学(連載第89回)

2020-04-06 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(3)イラン立憲革命

〈3‐1〉属国化と革命機運
 近世イランは、異民族支配王朝であるカージャール朝とともに始まるが、カージャール朝は間もなく、コーカサスからイラン北部への南下政策を追求する帝政ロシアの脅威に直面する。その結果、カージャール朝イランは二次に及ぶ対ロシア戦争を通じてロシアに領土的譲歩を強いられ、最終的には治外法権まで認めさせられる結果となった。
 その後は、ロシアに対抗して西アジアへの進出を狙うイギリスからの圧力にも直面して、19世紀後半期のカージャール朝イランはロシアとイギリスの半植民地状態に置かれるようになった。特にイギリスの経済的進出は目覚ましく、経済的な権益を個人資本家が取得する動きが相次いだ。
 このような英国資本家への経済権益譲渡は、対外戦争のために恒常的な財政難にあったカージャール朝にとっても財政再建の打開策であったため、事実上国を切り売りするような卑屈な政策をあえて採ったのである。しかし、1890年、タバコ専売特権をイギリス人に付与したことは、広汎な抗議を呼び起こした。
 不利益を受けたタバコ商人のみならず、アフガニスタンまたはイランの生まれとされるジャマールッディーン・アフガーニーのような国際的ナショナリストの思想家も介入して、シーア派宗教指導者によって全国的な抵抗が呼びかけられた。その結果、イラン民衆が一斉に喫煙を中止するタバコ・ボイコット運動が隆起し、政府もイギリス人のタバコ利権を廃止するに至った。
 この運動そのものは特定の政策に対する抗議行動であって、革命ではないが、タバコという日用品をめぐって、近代イランにおける最初の民衆の覚醒を促した画期的な出来事であった。この運動はまた、イランにおける伝統的なシーア派宗教思想と近代思想とをつなぐ架け橋のような役割も果たしたと言えるが、その媒介者はアフガーニーのような新しい汎イスラーム主義の思想家であった。
 19世紀末のイランでは、同世紀後半期に体制主導で試みられた限定的な近代化改革によって生み出された近代思想の潮流も生じていたが、タバコボイコット運動以後、20世紀に向けて、イランにおいても、カージャール朝の専制に反対し、憲法制定を求める動きが生じ始める。
 1905年のロシア立憲革命は、イランを半植民地状態に置く仇国ロシアでの出来事ではあったが、同じように専制下にあったイラン民衆に対しても、強い印象を与える出来事であり、このことが直接ではないにせよ、同年のイラン立憲革命を触発する動因にはなったと考えられる。

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民衆保健学への展望

2020-04-05 | 時評

各種の感染症パンデミックに際して、前面に出てくる知的体系が公衆衛生学である。この学問は、広い意味では医学の系列だが、患者個人の治療法を研究し、実践する臨床医学とは異なり、公衆を対象とした保健衛生政策とその実施に関わる学術とされる。

そうした学術内容からして、公衆衛生学は政治行政との結びつきが強い。患者よりも為政者に向けた学術と言える。そのため、公衆衛生学は生命科学の一分野でありながら、科学より統治の学の色彩が強い。その結果、公衆衛生学は為政者に利用されやすい性格を否めない。

その歴史的な最悪の例が、ナチスの障碍者大量殺戮計画T4作戦である。これは、優生学という公衆衛生学の応用的亜種とも言えるもう一つの知的体系が前面に出て、劣等的遺伝子を根絶し強靭な遺伝子のみを残して健康的な国民を育成するという趣意から実行された犯罪的政策であった。

これは極端な例であるが、今回のCOVID-19対策に関しても、公衆衛生学は為政者の望みをかなえている。多くの国では、ウイルス封じ込めを理由とした外出禁止、移動制限、都市封鎖といった強権措置を発動したい為政者の望みに答え、それを有効な策として提言している。

他方、日本では五輪開催に最後まで執着し、業界利益を擁護する為政者の意志を忖度してか、経済活動に打撃を与える非常措置は回避しつつ、検査数を抑制し、統計上感染者数を低く保ち、「持ちこたえている」ように見せることに公衆衛生学が助力してきたのであるが、五輪延期決定を境に反転し、そうした統計操作自体が持ちこたえられなくなっている。

どちらが正しいかは問題ではない。強権措置をとって短期的な「封じ込め」に成功したとしても、完全にウイルスを撲滅できるわけではなく、新規患者数の減少というある種の統計操作による暫定的な解決をもたらすだけである。そこへ行きつくまでの外出制限の長期化は生産活動・社会活動の停止による窮乏を招き、その状態で何か月も持ちこたえられるはずはない。

他方、日本式寡少統計操作は、国民の油断を招き、不用意な対人接触による感染者を急増させている。ありがたくも温情ある政府がマスク二枚を国民に下賜しても、もはや事態の悪化にマスクは被せられない。

いずれにせよ、民衆は置き去りである。これを機に、公衆衛生学に代えて、為政者でなく、民衆に寄与する民衆保健学のような知的体系の台頭が要請される。民衆保健学は、臨床医学と同様に、科学的根拠を重視し、人々の暮らしを守りつつ、疾病の予防策を提示する学問であるべきである。

パンデミックに際しても、基本的な生産活動・社会活動を維持しながら、ウイルスに対して最も脆弱な人々を守るために有効な策を提示することである。現下の問題で言えば、リスクが高いとされる高齢者や基礎疾患の有病者、乳幼児を守るために有効な策の提示である。同時に、治療の最前線にいて、自身が感染しやすい病院スタッフの安全策も忘れてはならない。

公衆衛生学の歴史の長さとそれが持つ権威の壁を破ることは容易でないだろうが、今回の手ごわいCOVID-19パンデミックが民衆保健学の創出に向けた陣痛となることを願うものである。

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共産法の体系(連載第20回)

2020-04-03 | 〆共産法の体系[新訂版]

第4章 経済法の体系

(3)経済計画法②
 領域圏レベルの経済計画法の執行においては経済計画の遵守状況の監視と違反行為の摘発、中でも後者の摘発が重要である。この点で経済計画法違反の類型を考えてみると、それは大きく(A)計画違反と(B)計画外生産とに分かれる。
 古い型の計画経済にあっては、後者の計画外生産、すなわち「闇経済」の摘発が大きな課題とされていた。なぜなら、旧式の計画経済では経済活動全般の国有化が目指されたため、私的営業行為が広く犯罪行為とされたからである。
 しかし、環境的持続可能性を目的とする新たな環境計画経済にあって、計画経済が適用されるのは環境負荷的産業分野に限られるため、それ以外の経済活動は自由経済に委ねられる。それゆえ、計画外生産として摘発される行為も限定されることになるのである。
 計画違反は生産者側の違反と消費者側の違反とに分かれる。生産者側の違反は計画経済適用対象企業体が意図的に計画に反して過剰生産または過少生産する場合である。従って、意図的ではなく経営判断上の過失により過剰生産または過少生産が生じた場合は、企業組織法によって経営責任が問われることはあっても、経済計画法違反とはならないのである。
 消費者側の違反は、消費者(企業体を含む)が取得数量制限に違反して生産物を独占する場合である。その意味でこれを「独占禁止」と呼ぶこともできるが、もとより資本主義における市場独占規制としての独占禁止とはその意味を全く異にする。
 一方、計画外生産は、計画経済の対象領域に関して、自由生産企業が秘密裏に生産活動を行う場合である。これはある種の闇経済に当たるため、禁圧対象であるが、比較的稀なケースであろう。
 これら経済計画法の執行は、経済計画会議事務局に設置される法執行機関としての計画査察部によって行なわれる。計画査察部は立入り検査や強制捜査の権限をも持つ経済査察機関として機能する。
 経済計画法違反に対するペナルティーは経済計画会議の審問を通じて科せられ、違反にかかわった個人に対する業務資格停止や公民権停止が中心である。
 違反が組織ぐるみでも、計画対象企業は基幹的生産に関わるため、企業体そのものの解散はもとより、営業停止等のペナルティーも適当でない。計画外の自由企業の場合は、営業停止や強制解散のペナルティーもあり得る。

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共産法の体系(連載第19回)

2020-04-03 | 〆共産法の体系[新訂版]

第4章 経済法の体系

(2)経済計画法①
 経済法体系の第一部門は経済計画法であるが、世界共同体における地球全体の総枠的な経済計画をベースに、各領域圏における経済計画が策定されるという計画経済の二段階構造に対応して、その根拠法たる経済計画法も、世界法(条約)と領域圏法の二段階構造を採る。この構造は、環境法とも相似する。
 世界法としての世界経済計画法は、世共機関である世界計画経済機関が策定する総枠的経済計画の内実と策定プロセスを定めた条約法であり、これは世共を構成する全領域圏を法的に拘束する。
 対して、領域圏法としての経済計画法は世界経済計画法に基づく総枠的経済計画の枠内で各領域圏の経済計画会議が策定する領域圏レベルでの経済計画の内実と策定プロセスを定めた法であり、世界経済計画法の支分的な具体化法とも言えるものである。
 これら二段階の法に基づく経済計画の概要は既連載『持続可能的計画経済論』の中で詳論してあるので(特に第3章)、繰り返さず、本連載では特に経済計画法がまさに「法」たるゆえんでもある執行に関わる問題について触れたい。
 経済計画法はまさしく法規範であるが、同法に基づき策定された経済計画自体は法規範ではない。しかしそれは拘束力を持つ準則として経済計画主体を拘束するため、経済計画法は経済計画を実施するための執行プロセスを有する。
 経済計画法の執行も、上記の二段階構造に対応して、世界法レベルと領域圏法レベルとで段階が分かれる。世界法レベルでは世共が策定した総枠を各領域圏が遵守しているかどうかについて、先述した世界経済計画機関自身が監査を行なうことができる。
 他方、領域圏法レベルの執行は経済計画会議が策定した経済計画の遵守状況の監査と違反行為の摘発が中心となり、より強制的な手段をもってなされるが、これについてはいくつか特有の問題があるため、ここでいったん稿を改めることにする。

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共産法の体系(連載第18回)

2020-04-02 | 〆共産法の体系[新訂版]

第4章 経済法の体系

(1)共産主義的経済法の意義
 一般に経済法とは、経済体制のいかんを問わず、経済活動のあり方を規律する法体系である。資本主義体制下では、自由経済の基本となる独占禁止法を中核に、経済活動の規制に関わる諸法を広く含むことが多い。
 ただ、資本主義は所有権と売買契約を経済活動の法的土台とするため(いわゆる私的自治)、これらを規律する私法(民法)が法体系の出発点となり、経済法は二次的な法体系にとどまる。共産主義においても私的自治が妥当する領域は残されるので、私法に相当する市民法が別途制定されるが、その位置づけは経済法に劣後する。
 共産主義社会における経済法は、環境法に次いで重要な意義を担う。前章で見たように、共産法の体系上、環境法は最高法規の憲章に次ぐ優先性を持つので、経済法も環境法の規律下に置かれることになる。
 それは、大きく経済計画法・企業組織法・労働関係法の三つの分野に分けられる。筆頭の経済計画法は共産主義経済の基本となる計画経済のシステムを規律する法であり、共産主義的経済法体系の中核を成す。
 次いで、企業組織法は計画経済下での各種企業組織のあり方を規律する法であり、資本主義では会社法に相当するが、もとより共産主義社会に営利企業は存在しないため、企業組織は種別を問わず、非営利組織である。
 三つ目の労働関係法は労働基準法を中心とする労働者の権利を保障する法であるが、労働と経営の分離を前提とする資本主義的な労働法とは異なり、労働と経営の合致を本則とする共産主義経済にあっては(拙稿)、労働関係法も経済法の一分野に位置づけられる。
 実際の立法に当たっては、これら三分野はそれぞれが別個の法律として制定されるのではなく、すべてが一本の経済法典としてまとめられる。この点でも、多数の法典の集積・総称にすぎない資本主義的経済法とは大いに異なる。
 なお、経済法典とは別途、無主物たる土地の管理について定める土地管理法は、土地の利用権についても規律し、市民法と経済法の中間域にある法律だが、これも広い意味では経済法に含まれるので、本章で扱う。

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