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近代革命の社会力学(連載第90回)

2020-04-07 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(3)イラン立憲革命

〈3‐2〉第一議会の開設と憲法制定
 1905年末に始まったイラン立憲革命は 1911年にかけてかなり時間をかけたプロセスを辿ったことを特色とするが、その過程は大きく二つの時期に区分することができる。最初は、1906年の第一議会開設とその下での近代憲法が制定されるまでの時期である。
 1905年頃のイランの政治経済状況を見ると、日露戦争の影響によるロシアからの輸入激減と首都テヘランでの物価高騰で商人層も庶民層も苦境に陥っていた。一方、政治的には半世紀近く君臨した専制的なナーセロッディーン・シャーを継いだモザッファロッディーン・シャーの下、王権が弱体化していた。
 1905年末、砂糖の価格引き下げに抗議する商人と宗教指導者が民衆を率いて決起したが、親政府派によって暴力的に介入されたため、決起集団は聖域である霊廟へ避難し、一か月近く立てこもった。この後、政府側との妥協が成立し、改革策を討議する協議会の設置で合意した。
 しかし、政府側は時間稼ぎのため、協議会の設置を遅らせ、その間に反政府派の懐柔と分断を画策していた。これに業を煮やした反政府派の非難が強まると、政府は反体制派説教師の検挙という弾圧で応じた。このことに抗議する民衆が蜂起したが、政府側は武力鎮圧と兵糧攻めで鎮圧を図った。
 こうした騒乱を避けて、商人や宗教指導者を含む反政府派は、治外法権のイギリス公使館へ避難するという挙に出た。その数、1万人を超え、首都テヘランでは事実上のゼネスト状態となった。この第二次籠城はまだ革命としては未成立であったが、籠城集団が一種の革命組織に近い形となっていたため、未然革命の段階に達したとみなされる。
 今回は、籠城集団が要求する国民協議会の設置に応じない限り、籠城を解けないとみた政府は、ようやく設置に応じ、1906年8月にはモザッファロッディーン・シャーが立憲詔書を発布したことで、イギリス公使館の籠城が解除された。
 第一次籠城の際に交渉の焦点となった協議会は「アダーラト・ハーネ」(正義院)と呼ばれ、イスラ―ム色の強い合議体が想定されていたが、第二次籠城の結果、設置が決まった協議会は選挙された議員で構成される近代的な議会制度に近い構想によっていた。
 第一次籠城から第二次籠城の短い間に、新旧の思想交代が見られたことになるが、これは革命派の内部にも宗教指導者や説教師のようなイスラームの伝統に基づくグループと都市で台頭した近代的な思想を持つグループとがあり、革命の過程で後者が前面に出てきたことを示している。
 その結果、1906年9月にはイラン最初の公職選挙とそれに基づく議会(第一議会)が招集される運びとなったが、これは王族を筆頭とする六階級制に基づく制限選挙による中世の遺風を残した「議会」であるうえに、テヘラン選出議員が半数近くを占める定数不均衡が瞭然であった。そのため地方人士の不満を高め、第一議会に並立するある種の民衆会議の設立が相次ぐこととなった。
 とはいえ、第一議会は制憲議会としての役割を果たし、フランス人権宣言やベルギー憲法を参照したイラン史上初の近代憲法の制定を導いたのであった。その結果、二院制による国民議会の開設など、カージャール朝イランは立憲制という新たな歴史の段階に進むことになるはずであった。

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