ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第70回)

2020-02-10 | 〆近代革命の社会力学

十 ブラジル共和革命

(1)概観
 1871年におけるフランス・コミューン革命の悲惨な挫折は欧州に革命の冬の時代をもたらし、この先、少なくとも西欧圏における大規模な革命は、1917年ロシア革命に触発された連続革命としての1918年ドイツ革命まで待たなくてならない。
 代わって、19世紀末から20世紀初頭にかけては、革命の波がロシアや南欧を含めた非西欧圏に遷移する時代となる。そうした流れの嚆矢となったのは、1889年のブラジル共和革命である。これは、1822年以来続いてきたポルトガル王室分家を皇室とするブラジル帝国が廃止され、共和制に転換された事変である。
 時期としては、ちょうど日本の明治維新が憲法制定により一段落し、立憲帝政への歩みを始めた時期に相当するが、海を越えたブラジルでは一足先に樹立されていた立憲帝政が革命により打倒されるという逆向きの事象になる。
 ブラジル帝国は、ナポレオン軍によるポルトガル本国占領を受け、王室(ブラガンサ王家)が当時の植民地ブラジルへ亡命したことを契機として成立したもので、ナポレオン失墜後に王室が本国帰還した後、ポルトガル支配からの離脱を目指す在地勢力がブラジルに残った摂政王太子ドン・ペドロを擁立して独立したものである。
 そうしたある種の独立革命によって成立した経緯から、ブラジル帝国は当初より自由主義的な指向性を備えていた。特に本国の王位継承問題を解決するため帰還した父帝ドン・ペドロを継いだペドロ2世はリベラルな統治を行い、アメリカ大陸で最後まで残されていた奴隷制廃止に尽力した。
 実際、帝国と言いながらも、実質は立憲君主制に近いものであったが、広大な大陸領土を支配し、周辺国との領土戦争も起こし、上からの改革に熱心なペドロ2世は君主の権限をかなり権威主義的に行使したため、英国的な立憲君主制とは異なり、プロイセン的な立憲帝政に近いものだったと言える。
 そうした立憲帝政に対して起こされた1889年革命は、実態として軍主導の無血政変であり、民衆の参加がないものであった。その点では、革命というより軍事クーデターの性格が強いが、これ以後、共和制が確定したこと、政変後に王党派の決起や内戦も経験したことから、全体として革命の実質を備えた事変と評価できるものである。
 同時に、ブラジル共和革命は、近代的な国軍組織の整備を背景に、共和派職業軍人が革命プロセスを主導していくという20世紀の非欧州圏で続発する共和革命においてしばしば見られるようになる新たな近代革命の嚆矢とみなすことができるであろう。

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共産法の体系(連載第9回)

2020-02-07 | 〆共産法の体系[新訂版]

第2章 民衆会議憲章

(2)憲章の統一的構造
 共産主義社会における最高法規となる民衆会議憲章(以下、憲章という)が国家基本法としての憲法と大きく異なる点として、「国」ごとに基本法=憲法が個々独立に存在し、相互に「外国法」として法源から排除し合うのでなく、すべてが世界共同体における憲章―世界共同体憲章―を統一的な法源とすることがある。
 この世界共同体憲章(以下、世共憲章という)は、現行体制で言えば、国際連合憲章(国連憲章)に相当する、言わば「地球の憲法」である。
 ただ、国連憲章はあくまでも国連加盟国のみを拘束し、国家憲法に当然に優位するという性質のものでもなく、主権国家の連合体である国連の運営規則を定めた条約にとどまるという消極的な性質を帯びている。
 それに対し、世共憲章は文字通り、全地球的な最高規範であり、世共を構成する各領域圏に対して漏れなく適用される。各領域圏は世共憲章を法源として、それぞれ固有の民衆会議憲章を制定する。逆言すれば、各領域圏の憲章は世共憲章に違背することはできないという制約を受ける。
 このように、世共憲章及び領域圏憲章は、世共憲章を根本的な法源としながら、相互に関連し合う統一的な構造を持つ。ただし、世共憲章と領域圏憲章との関係は上下関係ではなく、世共憲章がその支分法としての領域圏憲章を包摂する包含関係に立つ。また、ある領域圏の憲章が直接に他の領域圏に適用されるものでもない。
 同様に、領域圏内の準領域圏(州に相当)及び地方自治体も、領域圏憲章を法源として固有の民衆会議憲章を制定することができる。
 このうち、準領域圏は現行連邦国家に近い連合型の領域圏を構成する統治体であり、広汎な自主権を有するため、固有の憲章を備えることは自然である。これに対し、統合型の領域圏における地方自治体も固有の憲章を持つのは、地方自治が深化する共産主義社会の特色である。
 このように、民衆会議憲章は、世共憲章を究極の法源としつつ、領域圏憲章及び準領域圏憲章・地方自治体憲章をも包含した統一的な法構造を持ち、その全体が有機的に関連し合いながら適用されていくため、国境線で適用対象を区切られた国内法と国境線を越えて適用される国際法という法の形式的な区分が単純には妥当しない。

*世界共同体憲章の私擬的な試案として、『世界共同体憲章試案』を参照されたい。

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共産法の体系(連載第8回)

2020-02-07 | 〆共産法の体系[新訂版]

第2章 民衆会議憲章

(1)国憲から民憲へ
 共産法においても、法は効力の優劣による階層構造を採るが、その内容はブルジョワ法とは異なる。近代的なブルジョワ法体系で頂点に立つのは憲法である。最高法規とも称されるゆえんである。
 ここで言う憲法とは、国家の基本法という趣意である。つまり、ブルジョワ憲法とは政治的な国家の存在を前提とするという意味では、国家憲法(国憲)である。
 まさにこの点に、しばしばブルジョワ憲法が国民から遊離し、国家支配層の統治及び体制維持の法的道具と化す危険が内在している。技巧的な「法解釈」を通して憲法条項を実質的に書き換える「解釈改憲」はそうした危険が最大限に発現したものであるが、そもそも憲法自体を制定時から支配層に都合よく制定することも十分可能である。
 そうした支配層の策動に対して、「国家権力を統制・抑制することを目的とする近代憲法の本旨に反する」という正当な批判がしばしば向けられるが、この「正論」が通用しづらいことも、ある意味では国憲の本質なのである。
 国憲は国家の基本法であるから、起草の中心となるのも国家支配層の代表者であり、一般国民が起草に関わることはない。国民主権に立脚した近代ブルジョワ憲法において、国民が「究極的な」憲法制定権者であると言われるのも、まさに「直接的」な制憲者は別にいて、一般国民は名義上の「主権者」として象徴的に祭り上げられていることを示唆している。
 そのため、近代ブルジョワ憲法は国家権力の統制・抑制に目的があると宣言してみたところで、国家支配層が自らの武器であるところの国家権力の統制・抑制を真剣に考慮するはずもないのである。かれらにとって、憲法は権力行使における伝家の宝刀である。
 以上に対して、共産法における最高法規はもはや国家憲法ではない。真の共産主義には国家という観念も制度も存在しないからである。
 共産主義社会における最高法規は、民衆が自らの社会を運営するに当たっての基本原則を定めた基本法=民衆憲法(民憲)であり、それは同時に、民衆代表機関としての民衆会議の運営規則=民衆会議憲章という形態を持つものである。

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近代革命の社会力学(連載第69回)

2020-02-05 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(8)立憲帝政への保守的収斂
 革命政権として発足した明治政府は、当初憲法も議会もない専制的な統治を行い、「有司専制」の批判を招いたが、これを善解すれば、大規模な革命プロセスの最初期段階では革命遂行上必然的な移行期集中制とみなすことができる。実際のところ、明治政府も1875年の時点で「立憲政体の詔」を発し、漸進的に立憲体制を整備することを確認しており、「有司専制」を恒久化するような意図はなかった。
 とはいえ、立憲政体の詔における「立憲」とは多分にして修辞的であり、この段階では太政官(行政)、元老院・地方官会議(立法)、大審院(司法)という大雑把な権力分担体制が導入されたにとどまり、それには近代的な意味の憲法の裏付けは何らなかった。
 明治維新では、従来数百年にわたり連綿と続いてきた封建的な社会組織を根底から解体・変革することが指向されたため、非立憲的な移行期集中制が20年以上にわたり遷延したことが特徴である。そのため、1880年代の明治政府は自由民権運動の革命的激化という事態に直面することになった。
 これに対し、明治政府は数次にわたる言論統制の強化によって第二次革命の勃発を抑止する一方で、自由民権派の主張にもある程度譲歩し、国会開設を公約するとともに、近代憲法の起草作業に入る。このプロセスは、後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文が主導した。
 憲法起草の予備的な検討が始まった1882年当時、欧米における参照可能な立憲体制としてはアメリカやフランスが最も先進的であったが、いずれも君主を戴かない大統領共和制であり、明治政府が絶対前提とする天皇制とは適合しないものであった。
 君主制の枠内で君主の権限を極力制約し、独自的な民主主義の道を歩む体制として、英国の立憲君主制という参照項もあった。当時の大英帝国はビクトリア朝全盛期であり、大隈重信のように英国式立憲君主制を支持する元勲も存在したが、明治政府指導部の大勢を占めるには至らなかった。
 これには英国が慣習法優位の不文憲法国であり、参照可能な憲法典が存在しないという事情もあったろうが、それ以上に、幕末尊王運動以来、天皇制を革命の正当化根拠としてきた明治藩閥支配層にとっては、君主の権限が大幅に制約される英国式立憲君主制には体制維持上の不安があったものと推察される。
 そこで、1871年にドイツ帝国として統一を主導したプロイセンが注目された。ここでは憲法起草を主導したビスマルク宰相の名にちなんで「ビスマルク憲法」とも呼ばれる憲法が施行されていたが、これは皇帝が臣民に下賜する欽定憲法の性格を持っており、天皇制とも適合的であった。
 ドイツ帝国憲法における皇帝は幅広い権限を持つとはいえ、皇帝独裁の絶対君主制とも異なり、普通選挙制の議会を伴いつつ、皇帝の権限が憲法的に歯止められる立憲帝政という保守的な立憲体制であることも、明治政府指導部には魅力であった。
 こうして、ドイツ帝国憲法を参照項としつつ、1883年から憲法起草が本格的に始動していくが、最初の草案が完成するのにおよそ四年を要している。その間、1885年には太政官制に代わる内閣制度が先行的に設置され、伊藤が初代内閣総理大臣に就任、名実ともに彼が明治政府首班の座に就く。
 そのうえで、伊藤の主導により1888年に最終的な憲法成案が完成、これを新設の天皇諮問機関である枢密院での審議にかけて、翌年、ようやく「大日本憲法発布の詔勅」に漕ぎ着ける。そして、翌1890年の第一回衆議院議員選挙を経た第一回帝国議会の召集に合わせ、憲法施行に至った。
 これをもって、革命としての明治維新は一段落し、ここから先は大日本帝国としての展開期となる。結局のところ、日本近代化革命としての明治維新は、ドイツ流の立憲帝政へと保守的に収斂され、基本的にはこの体制が「国体」として第二次世界大戦での敗戦まで半世紀余り継続されていくのであった。
 しかし、この体制は神聖不可侵と明記される超越的存在の天皇の権限が憲法的に根拠づけられるという内在的矛盾を含んでいたうえ、行政府である内閣が令外の官よろしく憲法外制度であったこと、統帥権が天皇に専属し、内閣も議会も戦争政策から排除されていたことなど、立憲体制としては根本的な欠陥があり、そのことが帝国主義的な膨張の中で、最終的に敗戦による体制崩壊という帰結を導くのである。

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近代革命の社会力学(連載第68回)

2020-02-04 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(7)自由民権運動の対抗
 明治政府の革命的な政策展開の結果、明治の最初の十年ほどの間に、民間の地主と政商資本家に加え、権力を握る藩閥政治家という新興ブルジョワ階級トリオが誕生するが、このうち、地主階級―多くは江戸時代以来の豪農層―は、権力から疎外されていた一方、地租改正により税の負担が増し、政府への不満を募らせていた。
 一方で、明治元勲の中からも、板垣退助のように、政府から離脱し、事実上の野党勢力を形成する者も現れた。板垣が下野した直接の理由は、征韓論派として権力闘争に敗れたことにあったが、彼はそれ以前から、議会政治論者として公論を張っていた。
 ちなみに、板垣は国内政治においては自由民権運動の始祖とみなされているが、対外的には征韓論者だったように、最初の近代帝国主義者でもあり、晩年には大日本帝国最初の植民地となった台湾で、「同化主義」を謳う団体の設立に協力もしている。
 ともあれ、板垣らが開始した自由民権運動は当初、実りのないものだった。当時の明治政府にとっては旧来の社会体制を変革する革命的事業に手いっぱいで、議会の開設など立憲政治の道具立てを整備するだけの余裕も、思想的な成熟もなかったからである。
 転機は、大久保利通暗殺後の1880年、議会開設を目的とする政治団体・国会期成同盟が結成されてからである。これを機に、板垣らの民権活動家と地主階級が結びつく。この時期の自由民権運動を「豪農民権」とも称するように、地主豪農層は、地租問題への不満を胸に、参政の意思を強めていたのである。
 このような自由民権運動の高揚を契機として、板垣を中心とする自由党と大隈重信を中心とする立憲改進党という二つの近代政党が相次いで結党された。ともに立憲主義政党ではあるが、自由党のほうが急進的で、内部には過激派を抱えていた。
 近代政党は活動資金源を確保するため、一面では金権政党でもあるから、自由党・立憲改進党ともども財閥と結んでいた。そうした政党との結びつきを介して新興の財閥資本家も自由民権運動に参画したと言えるが、運動全体を見渡すと、ブルジョワ・トリオの中で資本家の影は薄い。
 これは、明治初期の資本家層は政商として、まさに政府、ひいては藩閥政治家と深く結ばれ、特権を与えられていたせいで、非公式ながらも事実上参政を果たしており、議会開設への意思はさほど強くもなかったことによると考えられる。
 他方、議会開設の圧力に直面した藩閥政治家層は、こうした場合の定番的な反応として、言論弾圧策で応じた。その一方で、1881年には「国会開設の詔」を発して運動の慰撫を図った。ただし、開設年次は十年近くも先の1890年という公約であり、事実上の国会開設延期策であった。
 こうした政府の技巧的な硬軟両様策に対し、自由党内過激派は、1881年以降、関東近辺から東海、東北に至る広い範囲でテロ手法による「激化事件」を引き起こし、その存在を誇示した。こうしたことが原因となり、路線対立が激化した自由党は1884年にわずか三年で解党、あおりで、より穏健な立憲改進党も分裂した。
 こうして、自由民権運動はブルジョワ革命に進展することなく、不発に終わりかけた。その状況を救ったのは、自由党幹部でもあった後藤象二郎の呼びかけによる「大同団結運動」であった。これは来る国会開設に備え、自由民権派全体の再結集と統一行動を目指したものであった。
 1886年のこの呼びかけに刺激される形で、翌年には後に衆議院議長となる片岡健吉を中心とする高知県民権派が①言論の自由②地租軽減③外交回復の三点を求める建白書を当時の立法部であった元老院に提出する「三大事件建白運動」が高揚した。
 この三点のうち、外交回復は欧米との不平等条約の改正を求めるもので、自由民権運動とは直接関係がないが、1886年に明治政府が条約改正に失敗し、これに反発する学生など知識層が抗議デモを起こす事態となっていたことを反映したもので、こうした外交問題を介して、近代知識人階級も運動に参入し始めていた。
 一般的には、自由民権運動再燃に危機感を強めた政府が保安条例を制定し、言論弾圧に乗り出し、運動はまたも挫折したとされている。事の経緯はそうだが、この後、1889年には大日本帝国憲法の制定、翌年には公約通り国会開設と進展があり、86年‐87年の運動の再高揚は政府の政治日程にも影響を及ぼしたと考えられる。

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近代革命の社会力学(連載第67回)

2020-02-03 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(6)明治政府の革命的政策展開
 明治政府が単なる「改革」政権ではなく、「革命」政権であったことは、その政策展開の急進性に現れている。そもそも、明治政府にとっての最初かつ最大の課題は、過去数百年にわたり連綿と続いてきた武家支配の軍事的封建制を根本的に解体することであった。
 豊臣政権とそれを引き継いだ江戸幕府は、それ以前の領主支配的な封建制に重要な修正を加えて、中央権力による統制を強化し、中央集権制への橋渡しはしたが、封建制のバックボーンを根底から解体することには進まなかった。これに対して、明治政府はそうした岩盤的な古い社会組織そのものの解体を目指した。
 その第一歩が廃藩置県であった。これは単純な地方政治制度の改革にとどまらず、従来の領主支配制を解体し、中央集権的な地方行政制度へ転換することを意味していた。そのために、多くは戦国時代の封建的軍閥に沿革を持つ旧藩主層を罷免・排除し、官僚的な県知事に置き換えるとともに、軍閥の象徴たる城塞の破却を命じた。
 廃城に関しては、つとに江戸幕府による一国一城令に基づき、戦国時代を象徴する無数の城塞の大半は破却されていたが、明治政府は一国一城も許さず、原則廃城を目指したため、全国の城塞の大半がこの時期に破却された。こうした徹底策には旧藩主層の反乱基地となりかねない城塞を破壊するという革命防衛的な目的もあったろうが、西欧の近代革命でも例を見ない廃城政策は、明治政府が軍事的封建制の解体に並々ならぬ決意で臨んでいたことの証でもあった。
 さらに、近代的中央集権国家の物質的基盤となる貨幣による租税制度の導入も急務であった。明治維新以前の日本近世の税制は米による物納という旧式のものであり、これが農本的な封建制の物理的基盤であり、生命線を成していたから、ここにもメスを入れる必要があった。
 それが地租改正であるが、これも単なる税制改正を越えた革命的な変革を惹起した。まず耕作者ではなく、地券の発行により法的に認証された土地所有者を納税義務者としたため、ここに近代的所有権の観念が初めて刻印されることとなった。結果として、農民付きで領地を有する封建領主ではなく、土地所有権を有する地主が新たな階級として形成された。日本初のブルジョワ階級の誕生である。
 明治政府にとって、もう一つの課題は西欧的な資本主義経済体制の確立である。そのためには、従来、職人階級によって支えられてきた徒弟制による封建的手工業体制を転換し、資本に基づく大工業を興す必要があった。といっても、民間には原初的な資本を蓄積した資本家は大商人層を含めて皆無であったから、政府自身が国策として資本主義を推進する必要があった。
 そうした殖産興業政策の具現化として、多数の官営工場が設立された。これは、民間資本家を中心に発展した西欧的な資本主義とは異なり、国家自身が総資本家として経済を主導する国家資本主義の一形態である。しかし、明治の官営工場制度は後のロシア革命で見られた社会主義的な志向性を持つ国有企業とは異なり、いずれは民間払い下げを想定した過渡的な官営企業であった。
 そのため、後年、民営化の過程で、政府要人とのコネクションをもとに資本蓄積を図る政商と呼ばれるような政治的資本家の形成を促進し、かれらの中から日本近代資本主義における最初の民間資本家が輩出し、寡占的資本企業グループとしての財閥が形成されていった。
 そうした点では、革命としての明治維新は、ブルジョワ革命ではなく、ブルジョワ階級の創出へ向けた前ブルジョワ革命という意義を担ったと言えるだろう。そうだとすると、続く第二次革命として、本格的なブルジョワ革命のうねりが起きる可能性があった。

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続・持続可能的計画経済論(連載第12回)

2020-02-01 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第2章 計画化の基準原理

(5)物財バランス②:地産地消
 物財バランスにおける需給調整がその包括的基準原理とすれば、その分岐的基準原理として、地産地消がある。地産地消とは、地元で生産した物を地元で消費するという原理であり、同じ用語が、資本主義社会でも、主に農産物の生産と消費に関する一つのスローガンとして使用されることがある。
 資本主義社会で提示される地産地消の趣旨には不明確な点も多いが、公約数的には、生産者と生産地が明確な地場産農産物に対する郷土愛的な安心感といった消費者心理的な趣旨と、自由貿易による国際競争圧力にさらされる地方の農業基盤の防衛という農政的な趣旨が漠然と混ざり込んでいるようである。
 しかし、基本的に自由市場を前提とする資本主義体制下での地産地消は、生産者と消費者の任意に委ねられた一つのスローガンにすぎず、国際取引を含む広域遠隔流通を禁じるというような規範的な形で地産地消を施行することが実際にできるわけではない。よって、例えば日本の地方自治体レベルで2000年代から策定されるようになった「地産地消計画」も、経済計画としての計画ではなく、政策目標としての「計画」である。
 これに対して、持続可能的計画経済における地産地消は、地方ごとに策定される規範的な消費計画を規律する原理となるものである。従ってまた、その対象品目も農産物に限らず、衣食住に関わる日常必需的な物品に広く及ぶ。
 それは、総体的な需給調整としての物財バランスに対し、地方的な物財バランスの指標となるものでもあるから、経済計画の立案という観点から見れば、経済計画の地方分権化を結果する。従って、地産地消自体も、地方単位での需給調整の原理を内包しており、ここでも環境バランスに応じた生産容量の計算が厳密に行われる。
 ただし、旧ソ連で非効率な計画経済システムの改革の一環として試行された形式的な地方分権化とは異なり、持続可能的計画経済の本質を確保するための本質的な分権である。実際、地産地消が計画的に施行されることにより、主要な二酸化炭素排出源となる遠距離輸送が制限され、環境的な持続可能性にも資するところは大きい。そうした観点から見るなら、持続可能的計画経済における地産地消は、流通と分配に関する基準原理でもあると言える。
 このように、持続可能的計画経済における地産地消とは、グローバル資本主義に対抗する地場産業防衛の政策的スローガンでも、また計画経済システム改革の技術的な方策でもなく、持続可能的計画経済における本質的要請に由来する本質的な物財バランス基準の一つに位置付けられるものである。

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