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近代革命の社会力学(連載第68回)

2020-02-04 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(7)自由民権運動の対抗
 明治政府の革命的な政策展開の結果、明治の最初の十年ほどの間に、民間の地主と政商資本家に加え、権力を握る藩閥政治家という新興ブルジョワ階級トリオが誕生するが、このうち、地主階級―多くは江戸時代以来の豪農層―は、権力から疎外されていた一方、地租改正により税の負担が増し、政府への不満を募らせていた。
 一方で、明治元勲の中からも、板垣退助のように、政府から離脱し、事実上の野党勢力を形成する者も現れた。板垣が下野した直接の理由は、征韓論派として権力闘争に敗れたことにあったが、彼はそれ以前から、議会政治論者として公論を張っていた。
 ちなみに、板垣は国内政治においては自由民権運動の始祖とみなされているが、対外的には征韓論者だったように、最初の近代帝国主義者でもあり、晩年には大日本帝国最初の植民地となった台湾で、「同化主義」を謳う団体の設立に協力もしている。
 ともあれ、板垣らが開始した自由民権運動は当初、実りのないものだった。当時の明治政府にとっては旧来の社会体制を変革する革命的事業に手いっぱいで、議会の開設など立憲政治の道具立てを整備するだけの余裕も、思想的な成熟もなかったからである。
 転機は、大久保利通暗殺後の1880年、議会開設を目的とする政治団体・国会期成同盟が結成されてからである。これを機に、板垣らの民権活動家と地主階級が結びつく。この時期の自由民権運動を「豪農民権」とも称するように、地主豪農層は、地租問題への不満を胸に、参政の意思を強めていたのである。
 このような自由民権運動の高揚を契機として、板垣を中心とする自由党と大隈重信を中心とする立憲改進党という二つの近代政党が相次いで結党された。ともに立憲主義政党ではあるが、自由党のほうが急進的で、内部には過激派を抱えていた。
 近代政党は活動資金源を確保するため、一面では金権政党でもあるから、自由党・立憲改進党ともども財閥と結んでいた。そうした政党との結びつきを介して新興の財閥資本家も自由民権運動に参画したと言えるが、運動全体を見渡すと、ブルジョワ・トリオの中で資本家の影は薄い。
 これは、明治初期の資本家層は政商として、まさに政府、ひいては藩閥政治家と深く結ばれ、特権を与えられていたせいで、非公式ながらも事実上参政を果たしており、議会開設への意思はさほど強くもなかったことによると考えられる。
 他方、議会開設の圧力に直面した藩閥政治家層は、こうした場合の定番的な反応として、言論弾圧策で応じた。その一方で、1881年には「国会開設の詔」を発して運動の慰撫を図った。ただし、開設年次は十年近くも先の1890年という公約であり、事実上の国会開設延期策であった。
 こうした政府の技巧的な硬軟両様策に対し、自由党内過激派は、1881年以降、関東近辺から東海、東北に至る広い範囲でテロ手法による「激化事件」を引き起こし、その存在を誇示した。こうしたことが原因となり、路線対立が激化した自由党は1884年にわずか三年で解党、あおりで、より穏健な立憲改進党も分裂した。
 こうして、自由民権運動はブルジョワ革命に進展することなく、不発に終わりかけた。その状況を救ったのは、自由党幹部でもあった後藤象二郎の呼びかけによる「大同団結運動」であった。これは来る国会開設に備え、自由民権派全体の再結集と統一行動を目指したものであった。
 1886年のこの呼びかけに刺激される形で、翌年には後に衆議院議長となる片岡健吉を中心とする高知県民権派が①言論の自由②地租軽減③外交回復の三点を求める建白書を当時の立法部であった元老院に提出する「三大事件建白運動」が高揚した。
 この三点のうち、外交回復は欧米との不平等条約の改正を求めるもので、自由民権運動とは直接関係がないが、1886年に明治政府が条約改正に失敗し、これに反発する学生など知識層が抗議デモを起こす事態となっていたことを反映したもので、こうした外交問題を介して、近代知識人階級も運動に参入し始めていた。
 一般的には、自由民権運動再燃に危機感を強めた政府が保安条例を制定し、言論弾圧に乗り出し、運動はまたも挫折したとされている。事の経緯はそうだが、この後、1889年には大日本帝国憲法の制定、翌年には公約通り国会開設と進展があり、86年‐87年の運動の再高揚は政府の政治日程にも影響を及ぼしたと考えられる。

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