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近代革命の社会力学(連載第71回)

2020-02-11 | 〆近代革命の社会力学

十 ブラジル共和革命

(2)ペドロ2世の革新的治世
 ブラジル帝国第2代皇帝にして最後の皇帝ともなるペドロ2世は、父帝から譲位されて帝位に就いたときはわずか5歳であったため、当然にも摂政なくしては統治できなかった。しかし、ペドロは早熟だったようで、14歳の時には親政を開始した。
 父帝の在位は1822年の建国から31年の生前譲位までであったから、結局、ブラジル帝国の存続期間の大半はペドロ2世の治世であり、ブラジル帝国≒ペドロ朝と言っても過言でない。この帝国の特徴は、政体上は「帝政」ながら、一足先に独立し、共和制を確立していた周辺の旧スペイン植民地諸国より自由であるということだった。
 そのうえ、ペドロ2世はブラジル生まれであり、本家が支配するポルトガルをはじめ、まだ専制的な要素を残した欧州君主制社会を知らずに育ったため、欧州的な君主像にとらわれることなく、新しいスタイルの統治を試みることができた。
 といっても、ペドロは思想上は確固とした西欧近代主義者であり、未開発状態だったブラジルを近代国家として成長させることに並々ならぬ決意で臨んでいた。工業化や鉄道敷設などの公共事業のほか、電話やタイプライターなど当時は「最先端」だった機器を自ら率先して使用してみせ、国民の範とした。
 一方で、好戦的なナショナリストとしての顔を見せたのは、治世中期のいわゆる三国同盟戦争である。この戦争の経緯は複雑であるが、緩衝国ウルグアイをめぐって、アルゼンチンを加えた三国同盟を結成してパラグアイを壊滅させた戦争で、ブラジルは勝利したとはいえ、数万人の戦死者を出す犠牲を払った。
 6年に及んだこの戦争の影響は大きく、経済的には戦費を英国から借款したことで、対英従属性が強まった一方、戦勝に貢献した軍の近代化と政治的な発言力の強化という権力構造の変異をもたらした。このことは、後に軍主導での共和革命の伏線となる。
 さしあたり、戦争が終結した1870年時点でのペドロ2世の権力基盤は安定であった。しかし、共和制アルゼンチンとの同盟関係から、軍部を中心にこの頃から共和思想が浸透し、これがオーギュスト・コントの実証主義哲学の流行と結ぶ形で、後の共和革命の思想的な支柱を成すようになったと見られる。
 しかし、ペドロが最も革新的だったのは、奴隷制廃止政策であった。奴隷制は南米周辺諸国ではすでに廃止済み、北米でもリンカーンによる奴隷解放宣言により奴隷制は終焉していたが、コーヒープランテーションの大規模農園制に支えられたブラジルでは、なおも奴隷制は経済の根幹であった。
 奴隷制護持論が根強いことを承知のペドロとしても、漸進的な廃止政策の道を選び、1871年に、さしあたりは奴隷女性が産んだ子どもを自由人とする限定的な奴隷解放から着手した。しかし、治世晩期、しばしば摂政を務め、存命中の嫡男のいないペドロから次期皇帝に指名されていたイザベル皇女は父よりも進歩的で、1888年、摂政として奴隷制を全廃する黄金法に署名した。
 この時点での奴隷制廃止は両アメリカ大陸でも最後列であり、アメリカ全体ではもはや特に進歩的とも言えなかったにもかかわらず、保守的な奴隷農園主たちは強く反発した。奇妙なことに、このような奴隷制護持論の反動が、共和革命の直接的な動因となるのである。

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