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近代革命の社会力学(連載第69回)

2020-02-05 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(8)立憲帝政への保守的収斂
 革命政権として発足した明治政府は、当初憲法も議会もない専制的な統治を行い、「有司専制」の批判を招いたが、これを善解すれば、大規模な革命プロセスの最初期段階では革命遂行上必然的な移行期集中制とみなすことができる。実際のところ、明治政府も1875年の時点で「立憲政体の詔」を発し、漸進的に立憲体制を整備することを確認しており、「有司専制」を恒久化するような意図はなかった。
 とはいえ、立憲政体の詔における「立憲」とは多分にして修辞的であり、この段階では太政官(行政)、元老院・地方官会議(立法)、大審院(司法)という大雑把な権力分担体制が導入されたにとどまり、それには近代的な意味の憲法の裏付けは何らなかった。
 明治維新では、従来数百年にわたり連綿と続いてきた封建的な社会組織を根底から解体・変革することが指向されたため、非立憲的な移行期集中制が20年以上にわたり遷延したことが特徴である。そのため、1880年代の明治政府は自由民権運動の革命的激化という事態に直面することになった。
 これに対し、明治政府は数次にわたる言論統制の強化によって第二次革命の勃発を抑止する一方で、自由民権派の主張にもある程度譲歩し、国会開設を公約するとともに、近代憲法の起草作業に入る。このプロセスは、後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文が主導した。
 憲法起草の予備的な検討が始まった1882年当時、欧米における参照可能な立憲体制としてはアメリカやフランスが最も先進的であったが、いずれも君主を戴かない大統領共和制であり、明治政府が絶対前提とする天皇制とは適合しないものであった。
 君主制の枠内で君主の権限を極力制約し、独自的な民主主義の道を歩む体制として、英国の立憲君主制という参照項もあった。当時の大英帝国はビクトリア朝全盛期であり、大隈重信のように英国式立憲君主制を支持する元勲も存在したが、明治政府指導部の大勢を占めるには至らなかった。
 これには英国が慣習法優位の不文憲法国であり、参照可能な憲法典が存在しないという事情もあったろうが、それ以上に、幕末尊王運動以来、天皇制を革命の正当化根拠としてきた明治藩閥支配層にとっては、君主の権限が大幅に制約される英国式立憲君主制には体制維持上の不安があったものと推察される。
 そこで、1871年にドイツ帝国として統一を主導したプロイセンが注目された。ここでは憲法起草を主導したビスマルク宰相の名にちなんで「ビスマルク憲法」とも呼ばれる憲法が施行されていたが、これは皇帝が臣民に下賜する欽定憲法の性格を持っており、天皇制とも適合的であった。
 ドイツ帝国憲法における皇帝は幅広い権限を持つとはいえ、皇帝独裁の絶対君主制とも異なり、普通選挙制の議会を伴いつつ、皇帝の権限が憲法的に歯止められる立憲帝政という保守的な立憲体制であることも、明治政府指導部には魅力であった。
 こうして、ドイツ帝国憲法を参照項としつつ、1883年から憲法起草が本格的に始動していくが、最初の草案が完成するのにおよそ四年を要している。その間、1885年には太政官制に代わる内閣制度が先行的に設置され、伊藤が初代内閣総理大臣に就任、名実ともに彼が明治政府首班の座に就く。
 そのうえで、伊藤の主導により1888年に最終的な憲法成案が完成、これを新設の天皇諮問機関である枢密院での審議にかけて、翌年、ようやく「大日本憲法発布の詔勅」に漕ぎ着ける。そして、翌1890年の第一回衆議院議員選挙を経た第一回帝国議会の召集に合わせ、憲法施行に至った。
 これをもって、革命としての明治維新は一段落し、ここから先は大日本帝国としての展開期となる。結局のところ、日本近代化革命としての明治維新は、ドイツ流の立憲帝政へと保守的に収斂され、基本的にはこの体制が「国体」として第二次世界大戦での敗戦まで半世紀余り継続されていくのであった。
 しかし、この体制は神聖不可侵と明記される超越的存在の天皇の権限が憲法的に根拠づけられるという内在的矛盾を含んでいたうえ、行政府である内閣が令外の官よろしく憲法外制度であったこと、統帥権が天皇に専属し、内閣も議会も戦争政策から排除されていたことなど、立憲体制としては根本的な欠陥があり、そのことが帝国主義的な膨張の中で、最終的に敗戦による体制崩壊という帰結を導くのである。

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