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近代革命の社会力学(連載第73回)

2020-02-17 | 〆近代革命の社会力学

十 ブラジル共和革命

(4)打ち続く内乱・内戦
 ブラジル共和革命はごくあっさりと成功し、革命から二年後の1891年にはブラジル初の共和制憲法が発布された。この憲法は主にアメリカ合衆国憲法を参照したもので、アメリカにならった分権型の連邦共和制が採択され、当時の南米にあっては民主的な内容を備えていた。
 ただ、この革命の背後にあった奴隷制農園主が望んでいた奴隷制の復活は結局、実らなかった。共和主義の知識人が主導した憲法制定過程では、反近代的な奴隷制を南北両アメリカ大陸でブラジルだけが維持するということはもはや時代が許さなかったのである。
 しかし、かれらが新生共和国に対して反乱を起こすことはなかった。かれらはポスト奴隷制の時代に素早く適応し、解放黒人奴隷を中心に多数の農業労働者を雇用する大農園主として自己再編し、第一共和政(しばしば旧共和政とも呼ばれる)の最大支持基盤となった。
 こうして滑り出しは順調すぎるほどに見えた第一共和政であったが、憲法発布後に、担い手を替えた王党派の反乱が相次ぎ、初期およそ十年は政情不安が打ち続くことになるのである。
 軍事クーデターの形を採ったため、革命の立役者となったデオドロ元帥が流れで初代大統領に選出されたが、彼は独裁志向が強く、しばしば憲法を軽視し、議会と対立した。それはデオドロ大統領が議会を解散したとき頂点に達し、海軍の反乱を引き起こした。
 その結果、デオドロは一年もたず辞任に追い込まれ、副大統領でやはり軍出身のフロリアーノ・ペイショトが大統領に昇格した。しかし、ペイショトは大統領が辞任した場合、二年以内の再選挙を義務付ける憲法規定に反して、大統領の座に居座り、前任者同様に独裁化したため、海軍が再び反乱を起こした。
 実のところ、軍部は一枚岩ではなく、海軍には王党派が多く、この第二次海軍反乱は幅広い王党派の支持を受け、93年から94年にかけて事実上の内戦に発展しかけたものの、ペイショト政権はどうにかこれを鎮圧した。
 海軍反乱と並行して、93年から95年にかけては、ブラジル南部で王党派が武装蜂起し、本格的な内戦となった。これには海軍将校のほか、一部反体制的な共和主義者や隣国ウルグアイの志願兵も加わり、大規模な内戦となった。
 反乱勢力は隣国アルゼンチンの一部や上述したウルグアイの勢力の支援を受けていたから、この内戦は不完全ながらも革命干渉戦争の性格をも持っていたと言える。
 この内戦渦中、ペイショトは大統領を辞任、94年3月の大統領選挙で、文民出身のプルデンテ・デ・モラエスが当選し、ブラジル史上初の直接選挙による文民大統領が誕生した。彼は就任後間もなく、反乱勢力と和平協定を急ぎ、内戦を終結させることに成功した。
 しかし、平和も束の間、今度は北東部で、宗教的な共同体カヌードスを形成していた3万人規模の集団が反乱を起こした。この集団はカトリック信仰をベースとしたカルト的な組織で、宗教性が強いものの、政治的には君主制の復活を求めた点では、王党派の一種であった。
 カヌードス民兵は農民で構成されていた。そうした素人集団にもかかわらず、信仰で結びついた集団は強力で、政府軍は鎮圧に手間取る。モラエス政権は最終的に絶滅作戦を選択し、カヌードス構成員2万5千人あまりを殺戮して、勝利を得た。この犠牲者数は、ブラジル史上の内戦中では現在に至るまで最大規模のものである。
 1897年に終結したこの凄惨な内戦を経て、ブラジル第一共和政はようやく安定に向かう。この後、王党派は、1902年にも当時推定皇位継承権者だったイザベル元皇女の次男ルイス・マリアを擁立して王政復古を狙う陰謀を企てたが、失敗に終わった。

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