ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産教育論(連載第50回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅸ 教育行政制度

(4)基礎教育教材開発機構  
 基礎教育教材開発機構(以下、教材機構と略す)は世界共同体専門機関である世界教育科学文化機関のガイドラインに準拠しつつ、各領域圏ごとに統一的な教材を開発・発行する民衆会議の専門機関である。言わば、公式の教科書発行機構である。  
 前節でも触れたように、教材機構は民衆会議の監督を受ける専門機関であるが、連合領域圏にあっては、教材機構を連合を構成する準領域圏民衆会議の専門機関として分権的に位置づけることも選択できる。いずれにせよ、教材機構は教育行政体系に組み込まれ、その運営委員(複数)は民衆会議教育委員会によって任免されるが、専門機関として独立性を有するから、民衆会議は教材の内容に関して介入することはできない。  
 一方、現場の教員は同機構が正式に発行した教材のみを使用しなければならず、民間発行にかかる教材や個人で作成した教材を用いてはならない。このような縛りは一見すると統制的だが、市民社会の担い手として共通的な素養の涵養を目的とする基礎教育課程においては、どの教員に付いたかにより生徒間に教育内容のばらつきが生じてはならないので、教材の統一が徹底されるのである。  
 こうした教材作成の唯一的な中枢機関として、教材機構は各科目ごとに教材開発グループを組織し、教材作成者には教員としての十分な経験を持つ者がそのつど選任される。つまり、教材作成者はその初版及び改訂版の作成ごとに選任され、同一人物が継続的に作成することはない。教材内容の惰性化を避けるためである。  
 ちなみに、教材作成者は必ず教員経験者でなければならず、研究者を充てることはできない。基礎教育課程の教材は研究素材ではないから、教員経験のある者が作成することが最もふさわしいからである。研究者の正当な役割は監修業務にある。  
 すなわち教材作成者が作成した各科目教材の素案は、当該科目に関連する熟練した研究者の入念な監修を経て、現時点での学問的な知見に照らして適格な内容を備えているかどうかのチェックを受けなければならない。その目的のため、各科目ごとに専門研究者から成る監修委員会が設置され、監修業務を担う。
 こうして専門研究者の監修に基づき、必要な補正が加えられたうえで教材が完成し、発行される。なお、以前述べたとおり、基礎教育課程の科目の多くが通信制で提供されるので、教材のほとんどは紙書籍ではなく、電子書籍やその他の電子文書の形で末端提供されることになる。

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共産教育論(連載第49回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅸ 教育行政制度

(3)教育人事評議会と基礎教育センター  
 教育人事評議会(以下、人事評議会という)は、基礎教育課程教員の採用と配置を司る民衆会議教育委員会の合議体の下部機関である。人事評議会がどの圏域に属するかは、領域圏により異なる。一般的に言えば、小さな領域圏では領域圏、大きな領域圏では分権化され、地方圏または準領域圏となるだろう。  
 いずれにせよ、人事評議会は公正さを旨とする人事に関わることから、その個別の業務に関しては中立性を保持し、民衆会議による介入はいかなる形態であれ、許されない。  
 なお、人事評議会は教員の採用及び配置のみを司り、免許試験は教員免許試験管理機構が担当する。教員免許試験管理機構は統一的な教員免許試験の管理に特化した機関として、統合型領域圏では領域圏に、連合領域圏では準領域圏に属する。  
 一方、教員に対する懲戒処分は、人事評議会から独立した教員処分審査会の専権である。これも民衆会議下部機関の一つであるが、懲戒に当たる事実の認定と処分の決定という準司法的な任務を持つことから、審査官の過半数は法律家でなくてはならない。
 人事評議会によって採用された教員は、基礎教育センターに配置される。同センターは既存の教育制度で言えば学校に類似した施設であるが、教室を備えたいわゆる「学校」ではなく、原則的に通信制で提供される基礎教育の総合的なサポートセンターの性格を持つ。  
 基礎教育課程の教員はすべて科目分担制であるから、科目ごとにグループを形成する。各グループは所属教員から互選された一名の責任教員が統括し、センター全体はセンター長が統括する。センター長は校長に相当するような立場にあり、人事評議会の推薦に基づき民衆会議教育委員会が任期付きで任命する。  
 基礎教育センターの運営はセンター長と各科目グループの責任教員、事務系職員の代表者一名で構成する運営委員会によって行なわれる。運営委員会に加わらない一般の教員も、個別の案件ごとに委員会に出席し、意見を述べる権利を有する。  
 また各基礎教育センターは、当該センターの担当生徒の保護者の中から少なくとも三名、保護者以外の市民の中から少なくとも一名を外部委員として任命しなければならない。外部委員は常に運営委員会に出席し、意見を述べる権利を有する。

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共産教育論(連載第48回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅸ 教育行政制度

(2)領域圏内教育行政  
 世界共同体専門機関である世界教育科学文化機関の提示する規準に沿いつつ、各領域圏の実情に合った教育行政の要となるのは、民衆会議である。共産主義社会には政府機構が存在せず、行政機能もすべて民衆会議が直接所管するところ、教育行政もその例外ではない。  
 具体的には、領域圏民衆会議の常任委員会である教育委員会―名称は種々想定できるが、ここでは最も簡明な名称を採用する―が領域圏全体の教育行政の要となる。領域圏の民衆会議教育委員会は、領域圏内の教育制度全般の設計を担当するが、連邦型の連合領域圏では通常、教育制度は連合を構成する準領域圏の権限であるから、連合民衆会議の教育委員会の役割は限定され、準領域圏民衆会議の教育委員会が中心的な役割を担うであろう。  
 統合型領域圏にあっても、地方自治制度の下では、教育行政は地方圏が実務的な中心となる。このように、教育委員会は教育行政に関する権限を持つ各圏域の民衆会議に重層的に設置され、世界規準に準拠しつつ全体が有機的に機能していくことになる。  
 これら教育委員会はどの圏域のそれであっても、行政官庁としての教育委員会とは異なり、民衆会議の一委員会であると同時に、行政機関としての機能を併せ持っている。従って、教育委員長は教育担当閣僚ないし教育長のような地位にあると言える。  
 各圏域の教育委員会には、重要な下部機関ないし専門機関が置かれる。下部機関の代表例は、教員人事評議会と教員処分審査会である。前者は教員の採用と配置を司る機関であり、後者は教員の懲戒処分を決する機関である。
 専門機関の代表例としては、教員免許試験管理機構と基礎教育教材開発機構がある。前者は教員免許試験の作成及び実施を業務とする機構であり、後者は世界教育科学文化機関のガイドラインに準拠しつつ、領域圏ごとに統一的な教材を開発・発行する機関である(拙稿参照)。

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共産教育論(連載第47回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅸ 教育行政制度

(1)コスモポリタン教育行政  
 公教育が制度的に整備されるにつれ、教育は教師の個人的な営為を離れ、行政的に運営されるようになるが、共産主義的な教育行政は、その完成された段階においてはコスモポリタンな体系を取る。すなわち、教育行政の大元は地球全域を束ねる世界共同体である。  
 共産主義的教育は、前章までに見てきたように、特定の民族文化に則るのではなく、世界市民として普遍的に涵養されるべき素養の体得を目指して行なわれるため、世界共同体においてその基本的な規準やメソッドの開発と普及が図られなければならない。  
 もっとも、教育はその性質上、各民族文化から完全にこれを分離することは難しいのではあるが、共産主義的教育は民族文化に従属するのでなく、科学教育を中心として、民族的な相違を超えた普遍性を追求することを特色とするのである。  
 とはいえ、世界共同体が一元的な教育管理機関として全世界の教育を直接統制するというような集権主義的な教育行政は健全でも現実的でもないので、コスモポリタンな教育行政機関は世界共同体の内部機関ではなく、一定の独立性を持った専門機関として定立されることが望ましい。  
 その点、現行の国際連合専門機関の一つである国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)は、世界共同体の下でも、例えば「世界教育科学文化機関」として、その主要な機能を継承再編することができると考えられる。
 ただし、この新たに再編される専門機関は、より明確に教育行政機関としての性格を持ち、とりわけ基礎教育課程におけるカリキュラムや教材に関する世界規準を提示するという重要な役割を担うことになる。さらには、教員養成課程や教員免許制度のあり方などに関しても、同様である。  
 世界共同体を構成する各領域圏は、こうした世界規準に沿って、それぞれ自主的に領域圏内の教育行政を運営していくことになるが、専門機関では各領域圏の教育行政が世界規準に準拠しているかどうかにつき定期的に検証する独立視学官を派遣し、問題点があれば改善勧告することができる。  
 また専門機関は、教育制度の発展が遅れている領域圏に対しては、教育制度の設計を支援する教育弁務官と現場で実際にモデル教育に当たる教育指導員を派遣して、教育制度の整備普及を直接に援助するなど、国連時代よりも踏み込んだ実効的な教育援助を提供する。

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共産教育論(連載第46回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅷ 課外教育体系 

(4)成年者向け私的学習組織  
 半日労働(4時間労働)が基本となる共産主義社会では、終日労働から解放された成年者の生涯教育の機会が実質的に保障されるが、Ⅵで見たように、そこでは多目的大学校と専門職学院が大きな役割を果たすことになる。
 このうち、すべてが公立の多目的大学校とは異なり、専門職学院には私立も認可されるが、専門職学院の認可基準は厳しく、カリキュラムや教員の配置に関する厳格な基準をクリアしなければならないため、私立の専門職学院といえども公的性格が強く、ここで言う私的学習組織には該当しない。 
 なお、学科試験は課さないものの、段階的な面接を通じた選抜的なアドミッションが行なわれる専門職学院の「受験」対策的な予備校が設立される可能性は否定されないが、それらは民間有志が運営する私塾的な組織にとどまる。
 一方、多目的大学校と専門職学院ではカバーし切れない種々の専門技能の習得に特化した学校としての専門技能学校にも認可基準はあるが、その基準は比較的緩やかで、設立・運営者の自由裁量の余地が広いため、これら専門技能学校は成年者向け私的学習組織の中心的なものとなるであろう。  
 それ以外の成年者向け私的学習組織としては、学術研究センターが研究活動の社会還元を目的として一般市民向けに設ける無料市民講座がある。この場合、センター自体が公立であっても、任意の市民講座は私塾のような私的学習組織の性格を持つ。  
 その他、民間人が各種文武の特技などを伝授するために私塾を設けることも自由であるが、これは未成年者向けの習い事を目的とする私的学習組織の成年者版のようなものとなるだろう。  
 ちなみに、政治思想の学習を目的とする政治塾のようなものもある種の私的学習組織として設立は自由であるが、社会に働きかける具体的な政治活動を伴う場合は、学習組織を超えた政治結社とみなされることになる。
 なお、共産主義社会に特有の代議制度である民衆会議の代議員免許試験対策の予備校のようなものが設立される可能性もあるが、緩やかな免許試験にすぎず、選抜試験ではないため、社会的ニーズは限定的であろう。

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共産論(連載第25回)

2019-04-08 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(4)官僚制が真に打破される

◇立法・行政機能の統合
  現代国家はその体制のいかんを問わず巨大な官僚制を擁するようになっており、暗黙のうちに民主主義と等置される議会制にあっても、議会審議の舞台裏を仕切る官僚制のために蝕まれ、表層だけの「看板民主主義」と化している。
 そこで官僚制の打破がスローガンとしては唱えられるが空文句に終わりがちなのは、「権力分立」の考えの下に立法とは別個に行政を観念するからである。
 行政とは単に立法府の制定した法律を機械的に執行するだけの権力作用ではなく、まさに「政を行う」より総合的な権力作用であって、そこには立法の前提となる政策立案から法案作成の権限まで含まれ得る。そのため、立法府(議会)の立法能力の欠如とあいまって、行政官僚が自立化し、行政府(政府)の法案提出権を通じて官僚が事実上立法権を簒奪するに至るのである。かくして、議員はラバー・スタンパーと化していく。(※)
 このような事態を打破するためとして、大統領や首相(地方自治体であれば首長)といった総裁職の政治主導権を大幅に強化することは、まさに「ボス政治」の極致であって、執行権独裁・ファシズムへつながる道である。
 そうではなく、古典的な権力分立の構造そのものにメスを入れ、民衆会議の下に立法と行政とを統合していくことが「真の民主主義」の道である。
 とはいえ、外見上の構制の点で、民衆会議と議会には類似点も多い。例えば民衆会議にも多くの諸国の議会と同様、政策分野ごとに常任委員会と個別問題に対応するための特別委員会が設置される。
 議会制度と異なる点は、政策立案や法案提出をする政府が存在しないため、案件の発議はすべて代議員自らが行い、具体的な政策立案から法案作成に至るまで常任委員会または特別委員会が中心的に担うことである。
 それを可能とするべく、各委員会には常勤・非常勤の専門調査員が多数配置され、以上のプロセスを強力にサポートする。これら専門調査員は研究者や法律家、その他の各種実務家といった個別の政策や法令に通じた専門家の中から幅広く任用される。
 議会制度との決定的な違いは、民衆会議が立法機能に加えて行政機能も持つことである。つまり、法執行機関を含むすべての行政機関は民衆会議の下部機関として関連する常設委員会の管轄下に置かれ、委員長はこれらの機関を指揮監督する責任を負う。
 民衆会議各委員会の委員長は一種の閣僚的な役割を果たし、全委員長及び民衆会議正副議長で構成する合議体である「政務理事会」が民衆会議の執行部を構成する。
 この政務理事会は現在の国家制度で言えば内閣に近いが、単なる行政機関ではなく、民衆会議の議事日程の調整なども担う中枢機関である。ただし、政務理事会には首相に相当するような筆頭職は置かず、民衆会議議長が会務を司る。
 以上のような民衆会議の基本構制は全土・地方とも共通である。なお、民衆会議の下に立法・行政機能が統合される以上、民衆会議は単なる立法府以上のものであるから、それは会期制を採らない常設機関でなければならない。
 また民衆会議の任務の多さに照らせば、代議員定数は全土・地方とも現在の議会の議員定数と比べてもはるかに多数であることを要する。この点、貨幣経済の廃止が財政難からの定数削減という本末転倒の必要を失わせるのである。念のため付言すれば、民衆会議代議員は全土・地方どのレベルにおいても完全に無報酬である。

※行政府に法案提出権を認めず、法案すべてが議員立法として成立する米国の議会制度には、民衆会議制度に近い面も認められる。しかし、反面、米国の立法過程では業界利益を代表する圧力団体とその代理人たるロビーイストが暗躍する。このように利権団体の性格を持つ圧力団体が立法過程を支配することも、官僚制とは別ルートによる民主主義の空洞化の一形態であると言える。

◇法律と政策ガイドライン
  民衆会議の立法機能は現在の議会のそれと大差あるわけではなく、やはり法律の制定が中心である。ただ、先述したように、街区を除く地方自治体の民衆会議も、その権限に属する事項に関してれっきとした法律を制定することができることは、議会制度との相違点である。
 ところで現代国家は一般的に「法治国家」を自称するため、あらゆる政策を法律化しようとする衝動が強い。この法律こそ、その形式的な立法技術に通じている官僚たちの最大の武器なのである。いかなる政策も最後は法律化しなければならないとなれば、しょせんは官僚天下である。
 しかしすべての政策を法律化しなければならないというのは大きな思い込みである。実際のところ、法律化が必要なのは司法関連分野のように権力行使を適正に規律しなければならないような分野を筆頭として、そう膨大ではない。特に一般民生に関わる分野では、形式的な法律化がかえって政策展開の柔軟性を失わせる場合すらある。
 そこであえて法律化を必要としない場合や法律化が適切でない場合は、法律に代えて「政策ガイドライン」という手段による。「政策ガイドライン」とは、一定の政策の遂行に関する準則を定めた規範文書の一種であり、法律とは異なるが、法律に近い手続きによって民衆会議が制定・改廃するものである。このガイドラインには法律ほどの拘束力はないが、単なる指針でもなく、担当公務員に対しては職務忠実義務の内容を成す規範性を有するのである。
 ただ、法律と政策ガイドラインのいずれによるにせよ、民衆会議は第一段階から自力で練り上げていかなければならないことに変わりはない。そのために民衆会議の立法手続きは議会のそれよりも精緻を極めるであろう。以下、その一例を示す。
 まずすべては代議員(最低三人以上)の発議から始まるが、発議は必ず発議者たる代議員の所属する委員会に対してなされる。発議を受けた委員会では最初に「予備審議」(非公開)を行って、発議内容をそもそも法律化ないしガイドライン化すべきか、すべきとしてもいずれが妥当かを審議する。
 そこで法律化またはガイドライン化すべきとの決議を得た場合は、発議者と他の代議員及び外部の専門家を加えた「立法調査パネル」を設置する。同パネルは外部の幅広い有識者に対して文書による意見照会を行い、その内容を検討しつつ調査報告書を作成する。この報告書は一般に公開されたうえ、担当の小委員会で審議にかけ採否を決する。
 可決された場合、同報告書に基づいて法案またはガイドライン案を作成する。法案の場合は民衆会議法制局で形式的な文言や表現の正誤、他の法令との整合性などの精査を受け、必要な修正を加えて正式に法案化したうえ委員会審議にかける。ガイドライン案の場合も、法律との整合性などに関して法制局の精査を経て委員会審議にかける。
 政策ガイドラインは、委員会で可決されれば、それで有効に成立する。この点が、法律との最大の相違点となる。法案の場合は、委員会で可決された後、事前に全代議員に全文が配付され、回覧に付されたうえで本会議にかけられる。
 今日、委員会中心主義を採る議会の本会議はほとんど儀式と化しているが、民衆会議の本会議は最終的な総括審議の場として重要である。そこでは発議した代議員との間で質疑応答が交わされたうえ、単純に可決か否決かではなく、委員会への差し戻し・修正という議決も認められる。
 差し戻しの場合は質疑応答で出された意見を添えて委員会へ持ち帰られ、修正するか継続審議とするかが採決される。修正案を作成する場合は、再度立法調査パネルを設置して上述の手続きを繰り返す。

◇一般市民提案
 以上は民衆会議の原則的な立法手続きのあらましであったが、民衆主権を旨とする共産主義社会では一般市民提案(イニシアティブ)による立法も促進される。この点、地方自治のレベルでは従来から直接請求の制度などが発達してきているが、共産主義はこの方向をいっそうプッシュするであろう。
 これに対して、全土のレベルでは全土的な利害に関わる大きな政策を扱うことから、直接請求を制度化することは困難であり、ここでは請願制度の強化が目指される。ブルジョワ国家への請願はお上への願い事にすぎないが、民衆会議体制の下での請願は一般市民提案の有力な手段となる。
 その場合、正式の請願は有効性が証明できる所定数の署名をもってする必要はあるが、適法に請願された案件については、民衆会議の常任委員会の一つである「請願委員会」が受理したうえ、該当の委員会へ回付すべき案件かどうかを採決する。回付が議決された場合には、該当の委員会において法律化またはガイドライン化すべきかどうかの「予備審議」を行う。その後の手続きは上述した立法手続きに準ずるが、この場合の立法調査パネルは該当する委員会または小委員会の委員長を中心に構成する。
 以上の請願制度をいわゆる陳情やロビー活動と混同してはならない。議会制度の下で盛行する陳情やロビー活動はまさにブルジョワ階級の利益共同体たるブルジョワ国家にふさわしく、利害関係を持つ者たちが自分たちに有利な法律を制定させるための利権拡大運動にほかならない。
 民衆会議体制にあっては利害当事者による代議員に対する直接的な陳情、ロビー活動は法律をもって一切禁止される。およそ法律の制定を望む者は前述した請願や直接請求の方法によることを要し、かつそれが唯一のルートである。

◇官僚制の解体・転換
 かくして民衆会議体制の下では中央省庁や都道府県庁、市町村役場といった官僚制の牙城はすべて解体されることとなるが、以上のような民衆会議の仕組みからすれば、官僚制なしに社会の運営は可能だと確信できるはずである。 
 旧官僚制諸機関は基本的にすべて政策調査機関または単なる行政サービス機関に転換される。政策調査機関とは、各政策分野ごとに設立される民衆会議直属のシンクタンクであって(例えば環境政策研究所、交通政策研究所等々)、民衆会議の政策立案、立法にあたって代議員や委員会の求めに応じて必要な情報や統計などを提供する任務を負う。その中核スタッフは一種の研究職であって、官僚のように法案作成に関与することはなく、政策の当否について発言することもない。こうしたシンクタンクは、地方の民衆会議にも相似的に設置される。

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共産教育論(連載第45回)

2019-04-08 | 〆共産教育論

Ⅷ 課外教育体系 

(3)未成年者向け私的学習組織  
 共産主義的な課外教育体系における未成年者向けの私的学習組織としては、いわゆる習い事の各種学習組織がある。広い意味では、前回見たスポーツクラブもそこに含まれるが、ここではスポーツ以外の学習組織を扱う。  
 このような私的学習組織は、習い事の数だけあり得るというほかないが、それらはいずれも民間人によって自由な形式で運営される。資本主義社会ではしばしばこうした私的学習組織も株式会社のような営利企業として法人格を有しているが、貨幣経済が存在しない共産主義社会では私的学習組織が営利企業化することはなく、法人格を持つこともない。  
 すなわち、こうした私的学習組織はすべてその運営者がボランティアで任意に指導する私塾のような性格のものであり(ただし、助手や職員を雇用する場合は、労働法の適用を受ける。)、学習者もまた自身の関心と適性に応じて任意に通学するだけである。   
 その点、発達した資本主義社会では労働者階級にも経済的な余裕が生じ、親の指示で子どもが多数の有償の習い事をさせられるような風潮が見られるが、共産主義社会ではそのような風潮には歯止めがかかるだろう。なぜなら、無償の私的学習組織は自ずとその数も限られるからである。反面、営利主義と無縁な限られた私的学習組織はその指導の質や熱意においては高いレベルが保証されるはずである。  
 一方、教科学習の補習を目的としたいわゆる学習塾のようなものは、そもそも社会的なニーズがほぼ存在しない。すでに見たように、共産主義的な13か年一貫制の基礎教育課程は通信制をベースとする個別指導を旨としており、集団的な学校教育に伴いがちな「落ちこぼれ」を生まないよう配慮されているからである。  
 なお、入学試験によって分断されず、かつ大学のような選抜的高等教育制度も持たない13か年一貫制の公教育制度において、受験指導に特化した受験予備校のような学習組織のニーズも存在しないことは明らかである。

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共産論(連載第24回a)

2019-04-06 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(3)「真の民主主義」が実現する(続)

◇「ボス政治」からの脱却
 このようにして政治が非職業化されることによって、従来体制のいかんを問わず世界ではびこってきた「ボス政治」―政党幹部層が政治過程を壟断する政治慣習―からの脱却も実現するだろう。
 今日、各界で“強力なリーダー”を待望するリーダーシップ論が盛行し、なかでも政治の世界においては定番的論題となっている。人間は強力なリーダー=ボスなくしては動かないという信念(思い込み)は依然世界中で根強い。
 しかし、複雑化した人間社会にあって、単独ですべての物事を掌握し指導できるような超人は存在し得ない。“強力なリーダー”は幻であるか、途方もない圧政者であるかのいずれかでしかない。人類は猿より進化した霊長類であると豪語するが、ボスなくしては何一つできないならば、人類はまだ猿的段階を脱していないことになるであろう。現実にはボスなどいない方がかえって人間社会、とりわけ政治はうまく運営されていくのである。
 この点、民衆会議体制には大統領や首相、自治体首長に相当するような総裁職は一切置かれない。つまり、民衆会議には一人ですべてを束ねるようなリーダーは存在しないのである。
 そもそも、民衆会議体制の下では「ボス政治」の舞台となっている政党政治―この際、一党制か多党制かは重要な問題ではない―も一掃される。民衆会議体制の下での政党は他の任意的な政治団体と何ら区別されることなく平和的・合法的な活動の自由が保障されるが、代議員抽選制により政党ベースで民衆会議に参加することはできなくなる。
 そのことによって、一党制か多党制かを問わず、政党ボスに牛耳られてきた政治過程を民衆の手に移すことができるのである。それはまた、依然として世界に根強い男性中心の政治のあり方―政党ボスの大半は男性であるからして―をも変え、女性代議員の増加を保証するであろう。こうした新しい共産主義的民主主義のあり方を、月並みな表現ながら、「真の民主主義」と呼ぶこととする。 
 その点、伝統的に―まだ伝統となっていない諸国も残されているが―、議会制を民主主義と等置して「議会制民主主義」と表現することが定着しており、筆者自身、慣例に従いこの用語を使用してきたが、厳正にみれば、議会制のようないわゆる間接民主主義は「真の民主主義」に到達しておらず、「偽りの民主主義」とまでは言わないが、「疑似民主主義」とでも呼ぶべきものである。

◇多数決‐少数決制
 「真の民主主義」の顕現である民衆会議制度は、議決の方法に関しても、大きな革新を見せる。既存の議会制度では多数決が絶対原理とされている。しかし、少数意見を切り捨てにして、数の力で押し切るのは「真の民主主義」のあり方ではなく、多数派独裁にほからない。
 もっとも、法案やその他の議案について討議の末、最終的に議決するに際して、多数決を原則とする点では、合議体である民衆会議においても同様である。しかし、党派政治からも、ボス政治からも解放されている民衆会議は、多数決原理を絶対化しない。
 すなわち、多数決に際して票差が5パーセント未満にとどまる僅差の場合は否決とみなされ、僅差による多数決を容認しない。このような場合は、5パーセント未満の僅差まで迫った少数意見を尊重する趣旨からである。
 一方、5パーセント以上の差で多数決がなされた場合でも、出席代議員の3分の1 以上が反対票を投じたならば、多数決は暫定可決とし、3年後に再度採決にかける。これによって、将来、反対票に集約された少数意見が多数意見に転じ、新たな決議がなされる余地を開けておく趣旨である。
 その場合、暫定可決された法案は法律としていったん施行はされるが、3年後の再採決の結果、今度は否決されれば、当該法律は速やかに廃止されることになる。
 このように、多数決を原則としながらも少数意見を尊重する革新的な議決原則を多数決‐少数決制を呼んでおきたい。なお、ここで言う少数決とは多数決の対立概念ではなく、両立概念であることは、如上の論からも理解されるであろう。

◇大衆迎合の禁止
 「真の民主主義」と似て非なるものとして、大衆迎合政治がある。大衆迎合政治は、大衆におもねり、あるいは積極的に煽り、世論を操作して、偽りの多数意見を作り出す多数派独裁政治の一種であり、「真の民主主義」からは程遠いものである。それゆえ、大衆迎合政治から危険な独裁者が誕生する事例も、歴史上枚挙にいとまない。
 民衆会議は、こうした大衆迎合政治の対極にある制度である。そのことは単に理念としてのみならず、代議員が民衆会議において発議・討議・議決するに当たり、世論調査を実施したり、または外部の世論調査を参照すること外部のマスメディアの論調やインターネット上の匿名言説に影響されたりすることの禁止という行動規範として担保される。
 世論調査を民主主義を担保する科学的な手法とみなす向きもあり、実際、議会政治ではしばしば世論調査結果があたかも国民の意志のごとくに扱われることもあるが、世論調査はその利用者が得たい結果が得られるように質問内容や回答の集計が仕組まれており、科学的に装われた大衆迎合の手段にすぎない。
 民衆会議代議員はひとたび抽選され、就任すれば、外部からの影響を遮断したうえで、民衆会議が定める参照・照会の手続きに従ってのみ自律的に考案し、発議・討議・議決に参加しなければならず、これに違反することは、代議員規範の違反となるのである。

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共産論(連載第24回)

2019-04-04 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(3)「真の民主主義」が実現する

◇「選挙信仰」からの覚醒
 先に民衆会議は議会でも政党でもないと述べた。それは国家が廃止される共産主義に特有の代議的な社会運営団体である。代議的という限りでは議会に似るが、投票による選挙制を採らない点でいわゆる議会制とは決定的に異なるのである。
 今日、議会制が定着した諸国では選挙制度に対する一つの「信仰」が広く共有されている。選挙こそは民主主義の神髄だ、と。そのような「信仰」からすれば、選挙制を否認する民衆会議体制は本質的に“反民主的”であるということになりかねない。
 たしかに選挙、特に身分や財産、性別による差別のない普通選挙制度は旧時代の世襲による王侯貴族政治に比べれば政治参加の階級的な枠を拡大した点で歴史的な功績があることを認めなければ不公平というものであろう。
 しかし、その普通選挙によって選出された議員らをよく見れば、かれらは市井の人などではなく、ほとんどは有産階級に属する旦那衆である―近年は女将衆の姿も見かけられるが―という事実も、もはや周知のことであろう。
 とりわけ政党政治の下では、政党が選挙の候補者選定を通じて選挙前に非公式な人選を済ませてしまうので、政党にコネクションを持たない者はあらかじめ排除されるように仕組まれている。政党と関わりのない者が選挙に立候補しようにも資金の壁は厚く、しょせんそれも有産者の道楽のようなものとならざるを得ない。
 このような普通選挙制度は選挙権の拡大を実現しはしたものの、被選挙権の方は事実上有産階級に限定されたままだと言って過言でない。そうであればこそ、普通選挙によりながら政治を事実上の世襲的家業として独占する政治門閥さえも形成されていくのである。しかし、歴史的に見て普通選挙運動自体が王侯貴族階級に対するブルジョワジーの階級闘争であったことを考えれば、闘争に勝利したブルジョワジー自身が成り上がり的に貴族化していくのも必然的な流れではあっただろう。
 それでも、と問われるかもしれない。選挙によってこそ有権者の審判が示されるのであり、選挙の当選者は世襲であると否とを問わず民主主義的に「聖別」されているのではないか、と。それこそまさに「選挙信仰」の核を成す神話である。
 しかし、選挙で候補者が「聖別」される要素は人格識見か政策か。答えはそのどちらでもない。“顔”である。ここで“顔”とは何か。人脈という意味の“顔”も大切だが、それ以上に知名度、そして容貌の“顔”もある。近年のメディア主導による過度に視覚的表象に頼った選挙運動は、技巧的なイメージ戦略を発達させ、選挙をますます人気投票的な一大イベントに仕立ている。従って、立候補者がいかに人格識見に秀で、立派な公約を掲げてもイメージ戦略に失敗すれば落選すると覚悟しなければならない。
 こうしたイメージ至上選挙の行き着く先は、メディアを通じた巧みな大衆操作でのし上がる煽動政治家の出現であるという懸念も決して杞憂とは言えない。この点で、卓越した扇動家ヒトラーに率いられたナチスが政権を獲得した手段がクーデターでも革命でもなく、「民主的」なワイマール共和国下の議会選挙であったという事実は今でも歴史的に重要な教訓である。
 こうしてみると、選挙が民主主義を無条件に保証すると単純には言えないことがわかる。むしろ選挙なぞ金銭の授受があろうとなかろうと、しょせんはすべて宣伝と買収であって商取引の政治版にすぎないのでは?あるいはまた、カネとコネを持つ野心的な旦那&女将衆の就職活動にすぎないのではないか?このように一度突き放してみれば、根強い「選挙信仰」から覚めることもできるのではないだろうか。

◇代議員抽選制
 国会議員をはじめ、公選政治家の無知無能ぶりを嘆く声は今日、世界中で聞かれる。特に立法府に所属する議員はロー・メーカー(法製造者)を称するが、現実のかれらは―政府に法案提出権が認められていない米国の議員を例外として―政府提出法案に可決のゴム印を押すだけのラバー・スタンパー(ゴム印押捺者)と化している。
 それもそのはず、選挙というプロセスは候補者たちの政策立案・立法の力量を測るテストにはならないからである。選挙に当選しても自力では法案一本作れない力量不足のロー・メーカーがいても何ら不思議はない。
 その点、民衆会議の代議員は代議員免許試験に合格し、免許を取得した者の中から公募・抽選される(選抜抽選制)。この試験は全土及び地方の代議員―いずれも一本の共通資格―として活動するうえで必要な政策立案、立法技術、政治倫理といった基礎科目に加えて、政治・法律、経済・環境の基幹政策、さらに福祉・医療、教育・文化など個別の主要な政策分野に関する基本的かつ総合的な素養を問うものであって、この試験の合格者であれば代議員として十分に活動できる保証がある。
 試験といっても、記憶依存の詰め込み試験ではなく、テキスト等の持込・参照を認め、情報の取捨選択と批判的思考力を試し、その難易度も大多数の人が二、三度の受験で確実に合格できるレベルに設定されるから、少数エリート選抜となる恐れもない。
 こうして代議員免許試験に合格した者は公式の代議員免許取得者名簿に登録され、そこから全土と地方の各圏域民衆会議代議員として任期付きで公募・抽選されることになる。
 このような制度を採用すれば、選挙制度における被選挙年齢のような年齢制限も必要ない。それどころか15歳の代議員免許取得者のほうが51歳の代議員免許未取得者よりも代議員に適任ということにさえなる。同様に海外出身の代議員免許取得者のほうがネイティブの代議員免許未取得者よりも代議員に適任であるから、一定年数の継続的居住要件を課しつつ海外出身者にも代議員資格を認めてさしつかえない。
 なお、代議員抽選に際して選挙制度における選挙区のような区割りは観念されない。全土民衆会議であれば領域圏(例えば日本)全域から定数に達するまで単純に抽選すればよく、地方の各圏民衆会議についても同様である。このように単純な抽選制とすることにより、選挙制度の下における議員のように、代議員が自身の地元へ利益誘導を図る“口利き屋”として暗躍することもなくなるのである。

◇非職業としての政治
 代議員抽選制から生じるより重要な帰結として、代議員の地位が「職業」ではなくなることが挙げられる。これも議会制との大きな相違点である。
 議会制の下でも議員の任期は一般に数年程度に短く区切られていながら、選挙地盤という独特の「資産」のゆえに連続的多選が可能であることから、政治が固定的な職業と化し、ひいては政治を家業化した世襲政治門閥の形成にもつながるのである。その結果、議会政治は貴族政治の性質を帯びるようになる。
 これに対して、代議員抽選制においては偶然と幸運に左右される抽選で連続的に当選する確率は低いため、代議員のローテーションも早く、代議員の地位は固定職とならない。
 そのうえ、民衆会議代議員はすべての圏域で兼職が認められるから(前章で見たように、共産主義社会における労働時間の大幅な短縮がそれを可能とする)、今日の職業政治家がそうであるように、庶民生活感覚を失った特権階級に堕することもない。
 つまりウェーバーの著名な主著のタイトルをもじれば、「職業としての政治」ならぬ「非職業としての政治」が実現する。本来、政治は社会的動物としての人間たる我々全員の共通事務なのだから、政治の非職業化こそが正道なのである。

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犯則と処遇(連載第41回)

2019-04-03 | 犯則と処遇

35 現行犯人の制圧について

 現行犯人の制圧は、被疑者の身柄拘束に関する原則の例外を成す。段階を踏み、令状を請求するいとまがないため、犯行現場で即時に身柄を確保する必要があるからである。現行犯の制圧は捜査員など法的な権限が認められた法執行者が行なうことが原則である。

 法執行者が到着する以前にその場に居合わせた一般人が現行犯人を取り押さえることも認められるが、これを法的及び技術的にも訓練を受けた正式の法執行者による現行犯逮捕と同列に扱うことはできず、あくまでも一般人による事実上の取り押さえ行為にすぎない。  
 そのように一般人が現行犯人を事実上制圧した場合は、直ちに緊急通報し、然るべき法執行者に犯人の身柄を引き渡さなければならない。もし通報せず、一般人が随意の場所で犯人の捕縛を継続するなら、不法拘束の犯則行為であり、拘束者が現行犯となる。

 一方、現行犯人が拘束を免れるため、現場から逃走することはがしばしば見られるが、そうした場合、捜査機関が事件発生を認知した時点から12時間以内であれば、逃亡中の犯人は現行犯とみなされてよいが、12時間を経過した場合は、非現行犯の扱いとなる。  
 このように現行性を脱した逃走中被疑者の場合、被疑事実を成す犯則行為が生命・身体を侵害する行為である場合は仮留置を省略し、人身保護監から即時勾留状を得て、身柄を確保することができる。この即時勾留は、仮留置なしに勾留できる例外となる。  
 しかし、逃走することなく制圧・拘束された現行犯人の身柄はまず仮留置される。その後の流れは前回見た被疑者の身柄拘束に関する原則に従う。

 ところで、現行犯人といえども、技術的に可能な限り、その生命を損なうことなく制圧すべきであるが、状況によっては、制圧者や被害者その他の第三者の生命・身体の安全を確保するため、犯人の生命を犠牲に供さざるを得ない場合がある。このような致死的実力行使は正当防衛の一般論に委ねることなく、法律をもって危険な現行犯人に対する最後の手段として明記しておく必要がある。  

 当然、そのような最後の手段の執行者は、法律に明記された権限ある者に限定され、状況的には、犯人が銃器その他殺傷力の強い武器で武装している場合または人質に危害を加える蓋然性が高い場合に限られる。それに加え、犯人に投降の意思がなく、制圧者や被害者その他の第三者の生命・身体の安全を確保しつつ、犯人を制圧することが困難な状況にあることを要する。また、その手段は、苦痛が長引かない即死可能な部位を狙う銃撃に限定される。

 致死的実力行使が実行された場合、人身保護監に直ちに報告されなければならない。報告を受けた人身保護監は必ず犯人の遺体の検視を命じたうえで、死因を明らかにし、致死的実力行使が法定の要件を満たしていたかどうかにつき、公開の審問を行なわなければならない。その結果、要件を満たしていないと判断した場合は、実力行使に関わった執行者や命じた上司は、訴追される。  
 なお、一般人が現行犯人を制圧する際に犯人を死に至らしめる可能性もあるが、そうした場合は致死的実力行使ではなく、正当防衛の一般論に従い、その要件の有無が捜査されることになる。

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犯則と処遇(連載第40回)

2019-04-02 | 犯則と処遇

34 被疑者の身柄拘束について

 「犯罪→刑罰」体系に基づく犯罪捜査は最終的に犯人を処罰することを目的としているため、捜査の段階から犯人を捕縛することへのこだわりが強い。このように刑罰が確定する前の段階における刑罰先取り的な身柄拘束―未決拘禁―は、極力最小限度のものであるべきとされながら、その原則が厳守されることは少ない。  
 「犯則→処遇」体系の下でも、犯則捜査段階での被疑者の身柄拘束は全面的には避けられないが、それは段階を追って、かつ必要不可欠な場合に限り、原則として所要の期間に限定される。

 具体的には、嫌疑の深まった被疑者に対して、まず移動制限命令が出される。移動制限命令とは捜査機関が指定した特定の地域内にとどまり、やむを得ず地域外へ移動する必要のあるときは、捜査機関に移動先や目的、期間等を届け出ることを被疑者に命じる措置である。そのうえで、捜査機関は任意に、または前出の出頭令状をもって被疑者を取り調べる。  
 これが捜査の本則ではあるが、被疑者が移動制限命令または出頭命令に従わない場合はじめて正式の身柄拘束となる。逆言すれば、こうした段階を踏んでいない限り、いきなり身柄拘束に及ぶことはできないということになる。

 正式の身柄拘束にも段階があり、まずは仮留置である。仮留置は人身保護監の発する令状によらず被疑者を拘束する措置である。仮留置をするには所定の幹部捜査員の発する仮留置令書を要し、かつその期間は身柄確保から24時間に限定され、仮留置中に取調べをすることは許されない。
 被疑者を仮留置した捜査機関は直ちに人身保護監に報告しなければならず、24時間を超えて身柄拘束をするには、人身保護監の発付する勾留状によらなければならない。

 勾留状の発付請求を受けた人身保護監は、捜査機関側と被疑者側双方が出席する公開の勾留審問を開き、勾留の理由を告げ、被疑者側の意見を聴く。被疑事実の根拠が弱い場合や被疑者側が今後、捜査に全面協力することを誓約した場合は勾留請求を却下する。  
 それ以外の場合は勾留状を発するが、勾留期間は30日に限定される。30日を経過すれば、勾留状は自動的に失効し、被疑者を釈放しなければならない。
 ただし、捜査機関は釈放に際し、逃亡防止のため、移動制限やGPS装置装着などの条件を付することができる。GPS装置を装着するには、人身保護監の許可を要する。被疑者がGPS装置を無断で取り外したり、釈放後に逃亡したりした場合は、改めて勾留状を得て拘束することができる。
 この再勾留の期間は無期限である。無期限再勾留に対し、被疑者側は保釈を請求できるが、保釈金によって担保することは許されない。 

 一方で、例外的に30日を超えて勾留を継続できる場合がある。この継続勾留には、被疑者に常習性または連続性が認められる場合や被疑者が第三者に報復をするおそれがある場合における防犯を目的とする防犯勾留と、被疑者に対する第三者による報復のおそれや被疑者の自殺のおそれが認められる場合に被疑者を保護することを目的とする保護勾留の二種がある。  
 これらの継続勾留も、改めて人身保護監による勾留審問と勾留状によらなければならないが、継続勾留の期間は無期限である。
 継続勾留に対する保釈は、保護勾留の場合にのみ認められる。防犯勾留の場合は、被疑者が入院加療を要する傷病を発症するなど人道上の理由がある場合に限り、人身保護監の許可によって一時的な停止が認められるのみである。

 正式に身柄を拘束された被疑者の拘束場所は独立した拘置所または捜査機関に付設された留置場であるが、後者の場合、捜査機関は警備を含めた留置場の物理的な管理権のみを有し、被疑者の身柄の管理権は人身保護監に属する。
 人身保護監は拘束施設における被疑者の処遇に対して責任を負い、被疑者の申立てに基づき調査した結果、不適切な処遇が認められば、直ちに改善を命じることができる。
 改善が見られない場合、人身保護監は人身保護令状を発して被疑者を即時に保釈するか、別施設に移送することができる。また拘束施設の看守が暴力行為などの人権侵害に及んでいた場合は、取調べの場合に準じ該当者を訴追することができる。

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