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共産論(連載第28回)

2019-04-18 | 〆共産論[増訂版]

第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

共産主義社会はその本質上、誰もが日常の衣食住や医療・介護にも不安を抱くことなく暮らしていくことのできる安心な福祉社会である。なぜそんなことが可能になるのか。


(1)財源なき福祉は絵空事ではない

◇福祉国家の矛盾
  はじめに確認しておくと、いわゆる福祉は決して共産主義の専売特許というわけでなく、よく理想化される北欧諸国のように、むしろ資本主義の枠内における労働者階級の窮乏化防止の意味合い―第1章で論じたように、それは厚化粧した資本主義の姿でもあった―が強いと言ってもよい。
 しかし、そうした資本主義的な福祉には一つの決定的な限界がある。それは福祉の担い手が国家であるということ―福祉国家―に由来する。国家は福祉財源を税収に依存する。つまりは福祉財源の大半を賃労働者、すなわちあの賃奴の所得に依存する。賃奴≒税奴たるゆえんであった。
 それでも、右肩上がりの高度成長・蓄積期で賃金上昇率も高い時期には国家の税収も伸び、安定した福祉政策を実行して賃奴たちの生活水準を引き上げてやる余力―しょせんそれは税金の還元サービスにすぎないのではあるが―も生まれる。理想化された北欧の「高度福祉国家」も、おおむね1970年代中ごろ―長くとっても1980年代―までの高度成長・蓄積期がその黄金時代であった。
 やがてオイルショックを契機に、先発資本主義諸国では黄金の“古き良き時代”が終わり、成長鈍化・グローバル競争の時代に入ってくると、労働者の賃金所得も伸び悩み、国家も税収不足に陥り始め、そこへ新自由主義=資本至上主義の「小さな政府」ドグマも介在して福祉国家は揺らぎ始める。
 このように、資本主義的福祉国家とは、大衆が経済成長・資本蓄積の恩恵に浴して福祉をさほど必要としないときには充実し、低成長・経済危機の時代にあって大衆が切実に福祉を必要とするときには行き詰まるという矛盾を抱えているものである。
 福祉国家再建の必要性が叫ばれることもあるが、財源の壁は厚い。増税が不可避であるが、資本主義国家はそうした場合、資本よりも労働に負担を転嫁する術を心得ているから、法人税増よりは消費税増のような「庶民増税」に手を着けること必定である。政府がそうした増税策をもってしてもまかなえないほどの財政赤字を抱えているとなれば、福祉国家の再建どころではない、国家そのものの存亡という危機にも直面する。

◇二つの「福祉社会」
 アメリカは個人の自由を最重視するイデオロギーから、福祉国家という概念の受容を拒否してきた。そのため、大恐慌に直面した1930年代のローズヴェルト政権が社会保障の制度を導入した際には、国民の社会契約そのものを見直すという含意から、ニューディール政策と称されることとなった。
 とはいえ、アメリカにおいて福祉国家は禁句であり、ニューディール政策施行後も、資本主義的な自助原則に変更はない。しかし、その反面、福祉サービスの多くを互助の精神に基づき、民間のボランティア団体や営利性を帯びた福祉事業体が担い、国家による福祉サービスの欠如を補っている。
 そうした点では、福祉国家という観念そのものを拒否する自助原則の米国は、互助的な民間サービス中心の、ある意味からすれば「共産主義的な」福祉を実践していると言えなくはない。
 しかし、それはあくまでも外面的な近似性にすぎず、その本質はむろん共産主義とは異なっている。アメリカの民間福祉は基本的に福祉サービスを富裕者の寄付や営利的な収益事業に委ねる福祉資本主義の実践にほかならない。
 これに対して、国家が廃止される共産主義社会の福祉は国家中心でないことは論理上当然としても、篤志的または営利的な民間福祉に丸投げするのでもない、言葉の真の意味での福祉社会を軸とするものとなる。
 具体的には、生活関連行政の中心を担う市町村と地域医療の拠点となる中間自治体としての地域圏が福祉の最前線として、ともども連携しながらサービスを提供していく。その点で公的福祉の性格は強いが、民間福祉をすべて公的に接収してしまうわけではない。
 共産主義社会では、民間福祉団体や民間病院はすべて無償ボランティア組織に純化される。これは、共産主義社会において賃労働制が廃止されることに伴う必然の結果である。それらの民間ボランティア組織は市町村または地域圏に登録され、その監督を受けながら各々特色あるサービスを無償で提供していくことになる。

◇無償の福祉
 このように言えば、果たして高度な福祉サービスがボランティア依存で実現するだろうかとの懐疑を招くかもしれない。しかし、福祉とは本来ボランティア精神を本旨とするものではなかっただろうか。
 もっとも、医師のような高度専門職までが無報酬のボランティア化されたのでは医師志望者が激減し、決定的な医師不足を招くのではないかとの懸念には一理あるかもしれない。
 なるほど今日の医師はその高収入が魅力となって多くの志望者を惹きつけている可能性もあるが、果たしてそれが医師という職本来の姿なのか。多くの非営利的な職能までもが儲け主義の準商人化されてしまう資本主義の下ではなかなか理解しにくいことではあるが、本来医師とは病気の治療と予防を専門とする公共的な職能のはずであった。
 これは次章の論題である教育とも関わることであるが、共産主義社会ではそうした公共的職能としての意識の高い者が医師であり得るような医学教育システムが導入されるであろう。
 いずれにせよ、共産主義的福祉は、公的福祉か民間福祉かを問わず、貨幣制度の廃止に由来する無償性に支えられた共助のシステムという特質を強く帯びるが、その最大の強みは財源―公共的な「資本」とも呼び得る―という不安定要素から解き放たれることであると言える。
 すなわち共産主義社会では、すべての福祉主体がカネの心配をせずして真に必要なサービスを十分に提供することを可能にする、そうした意味で「財源なき福祉」が絵空事でなく実現するわけである。

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