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奴隷の世界歴史(連載第31回)

2017-11-28 | 〆奴隷の世界歴史

第四章 中世神学と奴隷制度

マムルークと女奴隷
 イスラーム奴隷制では奴隷の解放が宗教的にも善行として奨励されたことを述べたが、それを象徴する二つのカテゴリーがある。一つは、マムルーク―奴隷兵士(軍人)―である。
 マムルークは、元来「所有される者」を意味し、まさに奴隷の謂いであるが、これが専ら軍人を意味するようになったのは、イスラーム王朝の基礎を築いたアッバース朝下で、主として中央アジアのテュルク系民族の男性を奴隷として購入し、兵士・軍人として育成する制度が根付いたことによる。
 これらの奴隷軍人は幼少時に購入され、徹底した専門的軍事訓練を受け、やがては解放されて職業軍人となり、アッバース朝の軍団を率いる。アッバース朝の軍事力はこうしたマムルークに依存するようになったため、晩期になると、政治的な実力をつけたマムルークが跋扈し、カリフの廃立にも関与し、あるいは地方総督として半自立化したりし、王朝の衰亡要因となった。
 アッバース朝が形骸化した後、マムルーク軍団自身が王朝化し、エジプトのカイロを拠点にいわゆるマムルーク朝を形成する。マムルーク朝は「王朝」と称されるが、その君主たるスルターンは世襲制ではなく、実力者のマムルークがしばしばクーデターで座に就くという点では、軍閥政権の性格が強い体制であった。
 このように、解放奴隷がついには自ら王朝を樹立するという下克上的展開はイスラーム奴隷制ならではの事象であるが、それと並んで、女奴隷の独異性も注目される。
 イスラーム奴隷制において男奴隷と明確に役割が峻別された女奴隷は奴隷貿易でも選好され、イスラーム奴隷貿易では女奴隷の比率が高かったと言われる。その多くは有力者の家内奴隷として使役されたと見られるが、コーランでは特に女奴隷に教養を施し、解放し、妻にすることが善行として奨励されている。
 その結果、宗教上一夫多妻を認めるイスラーム社会では、女奴隷から有力者の妻となり子孫を残す道が開かれていた。その究極はカリフやスルターンの後宮―ハレム―の女奴隷であった。女奴隷が使役されるハレムの侍女は妃候補でもあり、カリフやスルターンに見初められれば、妃として王子を産み、ひいてはカリフやスルターンの生母として高い権威を持つ可能性もあった。
 こうしたハレム制度とマムルーク制度が結合した希少な例として、カイロ・マムルーク朝初代スルターンとして歴史に名を残したシャジャル・アッ‐ドゥッルがいる。テュルク系出自と見られる彼女はアッバース朝ハレムに奴隷侍女として仕えた後、有力マムルークであったサーリフに転贈され、子を産んだことで解放された。
 彼女は十字軍のカイロ侵攻時に急死した夫サーリフに代わって十字軍撃退の指揮を執ったことで評価され、マムルーク朝の樹立に際して初代スルターンに擁立されたのであった。


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