ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

世界共産党史(連載第15回)

2014-07-08 | 〆世界共産党史

第7章 アメリカ大陸への拡散

3:キューバ革命とその余波
 共産党が関わった出来事で、アメリカ大陸全般に最も強い余波を引きこしたのが、1959年のキューバ革命であった。キューバはアメリカ大陸部からは外れた島国であるが、地政学上はラテンアメリカに属する。
 ラテンアメリカ諸国の中では遅れて1902年にスペインから独立したキューバは、建国当初から共産主義者やアナーキストの活動が活発な革新的気風に満ちていたが、政治経済はスペインに勝利したアメリカに掌握され、事実上の属国状態となっていた。特に30年代から50年代にかけて断続的にバティスタの親米軍事独裁体制が敷かれ、その下でキューバのアメリカ従属は頂点に達した。
 キューバ共産党は1925年に結党されたが、40年代にバティスタ政権に参加したほか、44年には人民社会党と早くも改称するなど、急進性を喪失していた。
 こうした中、フィデル・カストロやその盟友のアルゼンチン人チェ・ゲバラに指導された青年革命組織・七月二十六日運動が53年以降、失敗を繰り返しながら数年にわたるゲリラ活動の末、59年に革命に成功、バティスタ政権を崩壊に追い込んだ。
 革命政権は当初、メキシコ革命と類似の農地改革を軸とした民族主義的な急進ブルジョワ革命の性格を示していたが、次第に社会主義的になり、米国系資本の国有化を打ち出すに至ってアメリカとの対立が決定的となると、ソ連に接近した。これは米ソ冷戦の新たな火種となり、62年には戦後最大の核戦争危機(キューバ危機)を誘発した。
 カストロ政権は61年に亡命キューバ人を使ったアメリカのケネディ政権によるキューバ侵攻転覆作戦を撃退すると、正式に社会主義化を宣言し、七月二十六日運動や人民社会党などが合同して統一革命機構を組織、これを母体に65年に改めて共産党が結党され、以後、キューバはソ連型の共産党一党支配体制となった。
 キューバ革命の大きな特徴は、大規模な武装革命に伴いがちな内戦が起きなかったことである。これは革命政権が前政権の主であるバティスタやその他の高官を処刑せず海外亡命を認めたことで、かえって国内での反革命勢力の対抗的な結集を阻止し得たためと考えられる。
 このように、ゲリラ活動から革命を成功させたキューバ革命はラテンアメリカでは伝説的な範例となり、周辺諸国にも波及していく。79年にはキューバと同様戦前から長く親米独裁体制が続いていた中米ニカラグアで、ゲリラ組織サンディニスタ国民解放戦線が革命に成功した。しかし、直後からアメリカに支援された旧政権残党との間で10年に及ぶ内戦に陥った。和平後、サンディニスタ国民解放戦線はいったん政権を喪失するも、穏健な議会主義路線に転じて有力政党となり、民主的選挙で大統領を輩出するなどキューバとは異なる道を歩んでいる。
 他方、南米ではキューバ革命型の革命成功例が見られず、ソ連化の進むキューバを去ったゲバラも新天地ボリビアの革命運動に参加するが、政府軍の掃討作戦で捕らえられ、即時処刑された。そうした中、ブルジョワ寡頭支配の傾向が顕著なコロンビアで結成されたコロンビア革命軍はマルクス‐レーニン主義を掲げ、64年の結成以降、反政府ゲリラ活動を続けている。
 ただ、この組織は90年代に入ると、資金獲得の手段として麻薬組織との関係を深め、また身代金目的誘拐などの犯罪にも及び、革命組織というより犯罪組織としての傾向を強める逸脱が顕著になった。これに対し、2000年代以降、アメリカに支援された政府による掃討作戦が強化され、最高幹部が次々と殺害されるに至り、組織は弱体化し、革命の可能性は潰えている。

4:チリの左派連合
 ユーロコミュニズムの影響が強いチリ共産党は独自の展開を示してきた。チリでは戦前戦後にかけての人民戦線系政権が親米化する中で、共産党は一時非合法化・排除されたが、再合法化後も、社民主義の社会党と共闘する方針を崩さず、選挙協力体制を続けた。
 そうした中で、1970年の大統領選ではより広範な諸派を加えた人民連合を結成して、史上初めて社会党のサルバドール・アジェンデを当選させた。アジェンデは共産党員ではなかったが、マルクス主義を標榜しており、世界で初めて民主的な選挙で選ばれたマルクス主義の国家元首と目された。
 アジェンデ政権は国内反共主義者やその背後にあるアメリカの強い不信と警戒の中、急進的な農地改革や米国系銅山会社の国営化などを着々と進めていった。外交的にもキューバやソ連との友好関係を深めた。
 しかし、社会サービス分野への傾斜投資による政府支出の膨張や、アメリカによる事実上の経済制裁としての銅の国際価格操作、賃金の大幅引き上げによるインフレの進行など、外圧と経済失政の複合作用に、ブルジョワ層のサボタージュやアメリカが仕掛けたトラック業界のストライキなどが加わり、チリ経済は急速に悪化・混乱する。
 反政府デモも全土に広がり、不穏な情勢の中、内戦の危機が迫り、保守派は軍の介入を求めるに至った。こうした反共派の要望に答え、73年に就任したアウグスト・ピノチェト陸軍司令官に指導された軍部は、同年9月、クーデターを断行してアジェンデ政権を転覆した。アジェンデ大統領は軍による銃撃の中、自殺に追い込まれた。
 こうして成立したピノチェト軍事独裁政権は徹底した親米反共政策に転じ、同時期に成立した周辺諸国の軍事政権と協力して社会主義者・共産主義者と目される活動家らを大量検挙もしくは秘密裡に殺害する苛烈な弾圧作戦を展開しつつ、新自由主義的な経済政策を強権的に執行し、南米における新自由主義政策のモデルとなった。
 この間、チリ共産党は一時議会主義路線を放棄し、軍事政権に対する武装闘争を展開、86年にはピノチェト大統領暗殺未遂事件を起こした。90年の民政移管後、チリ共産党は議会主義路線に復帰し、2013年大統領選挙では再び社会党などと連合して勝利し、社会党主導のバチェレ政権(第二次)に参加している。


コメント    この記事についてブログを書く
« 世界共産党史(連載第14回) | トップ | リベラリストとの対話―「自由... »

コメントを投稿