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「女」の世界歴史(連載第4回)

2016-01-12 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(1)古代文明圏と女権

②古代エジプトの女王たち
 古代エジプトは、メソポタミアと近接しており、文化的にも共有する点があったが、メソポタミアに比べれば女権に対していくぶん開かれていたように見える。とはいえ、最終王朝となるギリシャ系のプトレマイオス朝を除けば、純エジプト王朝時代の女性ファラオは極めて例外的であった。
 確証のある最初の女性ファラオは中王国時代に属する第12王朝最後のセベクネフェルである。彼女は先代ファラオのアメンエムハト4世の妃からファラオに即位したと見られるが、その事績はほとんど明らかでなく、おそらく男子が絶えたための中継ぎ的な治世だったと見られる。
 次の女性ファラオは新王国時代第18王朝のハトシェプストまで待たねばならなかった。彼女は先代ファラオのトトメス2世の異母姉にして妃でもあったが、夫の没後、義理の息子トトメス3世が年少のため、共治女王として実権を握ったと見られている。その意味では後見的な登位のはずであったが、彼女には政治的野心があったと見え、戦争によらない平和外交と交易を重視する独自の政策転換を主導した。
 こうした点で、彼女は純エジプト王朝時代に統治女王として長く政権を保った唯一の存在であった。それだけに周囲を取り巻く男性陣の反発も強かったと見られ、公的な場では男装していたとされる。そして没後はその事績を抹消されるという報復的処遇を受けた。これを主導したのが母王から自立した息子のトトメス3世だったかどうかは別として、女性ファラオへの反発の強さを象徴している。
 ハトシェプストの後、続く第19王朝でも、セティ2世の正妃タウセルトがファラオに即位した。彼女は夫の没後、跡を継いだ幼帝の下で宰相とともに後見役として権勢を持ったが、ハトシェプストとは対照的に、治世二年にして内乱の中で死亡し、第19王朝最後のファラオとなった。純エジプト王朝時代は、彼女を最後に統治女王を輩出していない。
 ただ、エジプト王朝ではファラオの正妃は「大妃」の称号を持ち、とりわけハトシェプストが属した第18王朝に始まる新王国時代は「大妃」が政治的な実力も持った例外的な時代であった。宗教改革で知られるアクエンアテンの大妃ネフェルティティもそうした一人である。
 純エジプト王朝が終焉し、ギリシャ系王朝であるプトレマイオス朝になると、国王とその妃でもある女王の共同統治が原則化される。その理由は明確でないが、外来の異民族王朝であるがゆえに、夫婦共治によって王権の基盤を強化する必要に迫られたためと考えられる。この場合、近親婚のエジプト的慣習が純エジプト時代以上に強化され、女王は国王の姉妹、叔母、姪など血縁者であることがほとんどであった。
 プトレマイオス朝の歴代女王たちは積極的に施政にも関わり、クレオパトラ2世のように夫の国王に対してクーデターを起こすなど政治的謀略を企てることもあり、時に独自の政治行動も示すまさしく統治女王であったため、プトレマイオス朝は政情不安が常態化していた。
 プトレマイオス朝最後にして古代エジプト王朝全体の最後のファラオでもあったクレオパトラ7世も、そうした女王の一人であった。クレオパトラも当初は近親婚した二人の弟と相次いで共治したが、彼女が違っていたのはカエサル、アントニウスという異国ローマの英雄たちと自由に交際し、その間に子をもうけたことだった。
 ある意味で、クレオパトラは自身の恋愛感情に忠実に生きようとする「自立」した女性だったとも言えるが、そのことで、ローマも共和制から帝政に移行する重大な変動期にあった複雑な国際情勢の荒波に飲まれ、自身と王国双方の命取りとなったのであった。

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