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戦後ファシズム史(連載第15回)

2016-01-21 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐3:チリのピノチェト体制
 前回包括的に扱った南米における「コンドル作戦」体制に属する反共擬似ファシズム政権のほとんどは軍部が全権を掌握する集団的独裁型であったが、チリでは一人の軍事独裁者アウグスト・ピノチェトが17年にわたり統治した点で、趣きを異にしていた。その限りで、この体制は本来のファシズムに接近することになった。
 ピノチェト政権が成立した経緯については、かつて共産党の歴史を扱った『世界共産党史』の中でも簡潔に述べたことがあるので繰り返さないが(拙稿参照)、選挙で正当に選ばれた政権をクーデターで転覆し、しかも現職大統領を自害に追い込んだ非民主性と冷酷性においては、コンドル体制の中でも際立っていた。 
 現代史的には、このクーデターに米国がどの程度関与していたのかが論議されている。現在までに明らかにされている情報による限り、米国は直接にクーデターを教唆してはいないものの、CIAは事前に計画を知りつつ黙認し、米政府はクーデター後の軍事政権を支持したという間接的ないし側面的関与があったと見られている。
 ともあれ、クーデター成功後、陸海空軍にチリ特有の警察軍を加えた全軍合同の軍事政権が成立し、そのトップに座ったのが陸軍司令官ピノチェトであった。彼はアジェンデ前大統領によって任命されていながら、クーデターに出てその信任を裏切ったのだった。
 ピノチェト政権は発足直後、共産主義者の根絶を掲げ、左派に対する収容、拷問、殺戮などあらゆる不法な手段による徹底した弾圧を断行した。マルクスやフロイトの書籍に対する焚書のようなナチスばりの思想統制も繰り出された。
 弾圧の中心に立ったのはチリのゲシュタポの異名を持つ74年設立の秘密警察・国家諜報局で、同局は軍人を含む反軍政派要人の暗殺など国際的な破壊工作も実行し、国境を越えたコンドル作戦においても司令塔的役割を果たしていた。
 しかし、ピノチェト政権がより注目されたのは経済政策の面であった。コンドル作戦体制の多くは反共の観点から自由市場経済を志向する傾向が強かったが、ピノチェト政権は特に明瞭にこの方向を目指した。
 そのため、政権はミルトン・フリードマンに代表されるシカゴ学派の経済イデオロギーを採用し、今日で言う新自由主義経済政策を実験的に導入したのである。このような政策転換は当初こそ、前任のアジェンデ左派政権時代の経済失政から脱却する効果を示したため、フリードマンらによって「チリの奇跡」と称賛・宣伝された。
 こうした経済政策での「成功」が一面的に強調されることによって、ピノチェト体制の反人道性が覆い隠され、先進国ではいち早く同様の新自由主義政策を実行する英国のサッチャー首相のようにピノチェトを「改革者」として崇拝するような風潮すら生じた。このことも、他の同種コンドル体制よりピノチェト政権が延命される要因となっただろう。
 しかし、ピノチェト政権が長期化するにつれ、貧富格差の拡大などマイナス面も顕在化してくる。そのうえ、事後評価によればこの間の経済成長率もせいぜい平均3パーセント台にとどまり、80年代になるとマイナス成長に陥るとともにハイパーインフレの発現、失業率の増大など経済破綻の様相も呈し始めた。最終的には、ピノチェト政権自身がシカゴ学派を離脱してしまうのである。
 程度の差はあれ、こうした新自由主義政策の挫折と対外債務の累積はコンドル体制全般の命取りとなり、80年代以降、各国で漸次軍部の政権放棄・民政移管へとつながるが、80年代末の新自由主義経済政策の軌道修正で経済再生の兆しが見えたことに自信を強めたピノチェトは政権に執着し、88年には自身の任期延長を問う国民投票を実施するも、結果は反対多数で、やむなく90年をもって退任した。
 こうしてピノチェト独裁は終焉したが、ピノチェトは民政移管後も陸軍司令官兼終身上院議員として軍・政界に居残り、睨みを利かせていた。これには自身の政権下での人権侵害に対する責任追及を阻止する狙いもあったであろう。
 国際的には、スペインの人権法に基づく国外起訴がなされ、98年にはスペイン司法当局の要請で病気療養のため英国滞在中のピノチェトがいったん拘束されたが、英国は本人の健康状態を理由に身柄引渡しを拒否し、帰国を認めた。
 ピノチェトに対する国内での起訴は2004年になってようやくなされたが、すでに90歳に近い高齢であり、最終的には健康状態を理由に公訴棄却となり、審理を受けないままピノチェトは06年に死去した。これにより、チリではアルゼンチンとは対照的に、コンドル体制時代の大量人権侵害の真相究明と執権者処罰はなされずに終わった。
 ピノチェト体制は最期まで軍事政権の形態を変えなかったが、擬似ファシズムが限りなくファシズムに接近し、かつ戦前型のファシズムが採用した経済統制的な志向とは反対に、新自由主義的経済政策を追求した点で、記憶に残る体制であった。このような傾向性は、現在あるいは未来のファシズム体制にとっても有力な先例となる。


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