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戦後ファシズム史(連載第16回)

2016-01-22 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐4:ギリシャの反共軍政
 ギリシャにおける反共擬似ファシズムは、戦前と戦後の二度出現している。一度目は1936年から41年にかけてのメタクサスの独裁時代である。この体制は、35年に王政復古したばかりで政情不安の中、共産党の伸張を懸念した国王ゲオルギオス2世が職業軍人出身の老政治家イオアニス・メタクサスに暫定政権を委ねたことに始まる。
 共産党が呼びかけたゼネストを阻止するために非常事態宣言が発令された36年8月4日にちなんで「8月4日体制」とも呼ばれるメタクサス独裁体制は表面上イタリアのファシズムを真似ていたが、本質上は王制の枠内にある非常事態政権であり、その点では同時代の日本に近い擬似ファシズムであった。
 しかも、第二次世界大戦では中立を保ち、ドイツやイタリアのファシスト政権とは距離を置いたため、両国からは睨まれ、侵略の危険にさらされた。41年にメタクサスが死去すると、この危険は現実のものとなり、ギリシャはバルカン半島支配を狙うナチスドイツの侵攻を受け、ドイツ軍に占領された後、ドイツ・イタリア・ブルガリアの枢軸諸国による三分割統治下に置かれる。
 戦後独立を回復したギリシャでは、レジスタンスの主力を担った共産党と反共保守勢力との内戦に陥るが、その裏で米国が反共勢力を支援しており、ギリシャは戦後冷戦体制の始まりを画する舞台ともなった。
 共産勢力の敗北によって内戦が終結した後、ギリシャ経済は「ギリシャの奇跡」とも評された順調な成長を見せるが、国王パウルス1世と後継の息子コンスタンティノス2世はしばしば不適切に政治に介入し、政局の混乱を招いていた。その混乱は65年にコンスタンティノス2世と時のゲオルギオス・パパンドレウ首相の対立で頂点に達した。パパンドレウは60年代に躍進したギリシャのリベラル政党・中道同盟の指導者であったが、その左派的改革政治は国王や保守層・軍部と衝突していた。
 しかしパパンドレウは大衆的な支持が強く、67年に予定されていた総選挙では中道同盟が第一党に就く見込みだったが、単独過半数には達せず、明確に左派の統一民主左翼と連立する可能性が高いと見られていた。
 そうした中、反共右派の牙城でもあった軍部が動く。総選挙の二週間前のタイミングを狙って、おおむね大佐級の中堅軍人らがクーデターを起こし、全権を掌握した。当初は文民を傀儡首相に立てたが、67年末に実権回復を狙ったコンスタンティノス2世が逆クーデターの企てに失敗し、国外に脱出した後、クーデターの実質的な黒幕であるゲオルギオス・パパドプロス大佐が首相に就任し、軍事独裁制の性格を露にした。
 彼はCIAの訓練を受けた後、ギリシャ中央諜報局に勤務し、米CIAとの連絡担当官を務めたこともある情報将校の出身であり、その背後には米国の影がちらつく。クーデターそのものに米国が直接関与した証拠はないが、米政府はクーデターの翌年に軍事政権を承認している。
 この軍事政権の性格は同年代の中南米に林立していた反共軍事政権と同様、共産主義の脅威を名分にあらゆる不法手段で左派を弾圧するというものであり、戦前のメタクサス体制と類似していたが、その反人道性においてはそれを上回っていた。パパドプロスはファシズム体制にならって個人崇拝の導入も図ったが、典型的に軍人気質のパパドプロスは不人気で、ある程度の大衆的支持もあったメタクサスとは対照的に、大衆的基盤を確立することは最期までできなかった。
 経済政策面では自由市場経済を掲げ、ギリシャの主要産業である観光を軸に、海外投資の誘致と工業化を目指し、当初は堅調な経済成長を見せたが、オイルショックを転機にインフレに陥る点でも、中南米の同類体制と同様であった。
 73年、パパドプロスは仕切り直しのため、事実上亡命していたコンスタンティノス2世を廃し、共和制移行を宣言、自ら大統領に就任して形式上民政移管を主導しようとするが、これに反発したクーデター同志の憲兵司令官ディミトリオス・イオアニディスがクーデターを起こし、パパドプロスは拘束され、あえなく失権した。
 イオアニディスは当時軍事政権の弾圧司令塔でもあった憲兵隊を握る最強硬派であり、彼が操る新たな軍事政権の抑圧性はいっそう高まった。対外的にも強硬策に出て、74年にはかねてよりギリシャ系住民とトルコ系住民の間で対立のあったキプロスでギリシャ系民兵組織を扇動してクーデターを起こさせ、傀儡政権を樹立した。
 これに対して、トルコ系住民の保護を名分としてトルコがキプロスへ侵攻したことをめぐり、軍事政権内部で対立が起き、元来傍流に置かれていた海軍と空軍は出撃を拒否、軍事政権は事実上内部崩壊した。この後、74年中に国民投票による王制回復否決を経て、正式に共和制での民政移管が実現する。
 中南米とは異なり、ギリシャの民政下ではパパドプロスやイオアニディスをはじめとする軍事政権首脳らは直ちに起訴された。これは彼らの軍事政権が陸軍中堅クラスを主体としており、全軍規模のものではなかったことにもよる。ナチスの「ニュルンベルク裁判」にもなぞらえられたこの一連の歴史的な裁判の結果、パパドプロスらには死刑判決が下った(後に終身刑に減刑)。
 このように迅速な司法処理がなされたことで、その後のギリシャでは軍の非政治化と議会制の回復が確定し、同種の軍事政権が再現される可能性は潰えている。しかし、現時点でもギリシャ系(キプロス共和国)とトルコ系(北キプロス・トルコ共和国)で南北に分断されたキプロスの状況は、ギリシャ軍政期の負の遺産である。


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