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「女」の世界歴史(連載第3回)

2016-01-11 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅰ部 長い閉塞の時代

第一章 古代国家と女性

[総説]:国家と男性権力
 「女」の世界歴史における長い閉塞の時代の始まりとなる古代国家の時代、女性たちの地位はすでに後退していたが、必ずしも完全に排除されていたわけではなかった。数は限られるものの、古代国家にも女王が現われているし、王ではないものの政治的な実力を備えた女性も存在していた。その意味では、古代国家の時代には「男尊女卑」という観念は必ずしも一般的ではなかったと言える。
 こうした例外的な女王/女性権力者はたいてい男性権力に空白や無能・幼少などの事情が生じた時の中継ぎや後見の役割を負って登場するケースがほとんどではあるが、女性権力者が否定されていたわけではなかった点において、古代国家形成前の先史時代において女性の地位が高かったことの残影と見る余地もあるだろう。
 とはいえ、古代国家における権力は圧倒的に男性のものであり、女性はよくてサブの役割にすぎなかったことも否定できない。言い換えれば、例外的に女権は認められたが、ここで言う「女権」とは力の謂いであって、当然にも近代的な性の利を意味してはいなかった。
 もっとも、女権の許容度にも文明による相違が見られ、女権にかなり開かれた文明圏から逆に極めて忌避的だった文明圏まで濃淡が見られる。第一章では、そうした文明圏による濃淡差を考慮しながら、古代国家における「女」の姿をとらえていく。

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(1)古代文明圏と女権
 先史時代から連続する紀元前の古代文明圏の中で、女性の活動が比較的史料上確認しやすいのは、メソポタミア文明圏とエジプト文明圏であるので、ここでは特にこの二つに焦点を当てることにする。

①古代メソポタミアの女権
 今日の中東地域の中心部をカバーする古代メソポタミア文明圏では女権は極めて忌避されており、女王の存在はほとんど記録されていない。しかし、古代メソポタミア文明の先駆者であるシュメール人の社会では、元来男女対等の長老会議によって統治されたという説もある。
 ところが時代が進むにつれ、男性優位が強固に確立されていく。その理由は不明だが、多数の都市国家が林立抗争するようになるにつれ、戦士となる男性の発言力と権力が増強されていったことが考えられる。後にいくつもの帝国が興亡し、征服戦争が多発するようになれば、なおさらのことである。
 そういう女権忌避風潮の中で、シュメール王名表に記されたクババ(ク・バウ)女王は稀有の存在である。彼女はシュメール都市国家キシュ第三王朝の創設者かつ同王朝唯一の君主でもあった単独女王である。彼女は経歴も異色で、元は酒場の女将だったとされ、ジェンダーのみならず階級上昇という観点からも注目される。
 ただ、100年間も在位したとされる彼女の存在と事績は伝説的であり、史実性の確認は困難だが、メソポタミア地方では神格化され、彼女を祀る神殿がメソポタミアに拡散する。特に、北メソポタミアからアナトリアにかけての諸王朝では篤く信仰された。
 クババの後、息子のプズル・シンがキシュ第四王朝を開き、その息子でクババの孫に当たるウル・ザババがその家臣サルゴンに簒奪され、アッカド帝国に取って代わられたとされる。とすると、キシュ第三及び第四王朝は「女系王朝」という稀有の存在だったことになる。
 クババよりは史実性が確認できる古代メソポタミア文明圏の女性権力者としては、時代下って新アッシリア王国時代全盛期の王センナケリブの妃ナキア(側室)がいる。側室の一人にすぎないナキアが権力を掌握し得たのは、熾烈な王位継承抗争に際して息子のエサルハドンを王太子に立てることに成功したためであった。
 王位に就いたエサルハドンは海外遠征に多忙で、しばしば国を留守にしたため、王母ナキアはそうした間の国王代理者を務めて、国政に関与したとされる。その他、神殿築造などもこなし、実質的には共治女王のような地位にあったと見られている。そうした権力関係は、エサルハドン王の背後に寄り添うように描かれたレリーフにも残されている。
 エサルハドンの息子でナキアの孫に当たるのが、著名なアッシュールバニパル王である。アッシュールバニパルを後継者に指名するに当たっても、ナキアの関与があったと言われるほどの政治的な実力を備えた例外女性権力者であった。


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