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「女」の世界歴史(連載第5回)

2016-01-13 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(1)古代文明圏と女権

③ヌビアの女王たち
 今日のエジプト南部からスーダン北部にかけてのヌビア地方に、かつて古代エジプトと並行する形でクシュと呼ばれた黒人系の王国が存在した。ヌビアはエジプト新王国時代にエジプトの植民地にされるが、独立後は逆にエジプトに侵攻・占領し、エジプト第25王朝を築くほど強勢化した。
 この王国は何度か首都を替えているが、ヌビア系エジプト王朝がアッシュールバニパル率いるアッシリアの侵攻により崩壊し、ヌビア勢力が本拠に撤収した後、しばらくして今日のスーダンの首都ハルツーム北東部付近のメロエに遷都が行なわれる。
 このメロエ朝は一連のヌビア王国最後のもので、紀元前3世紀から古代エジプトより長い紀元後3世紀頃まで続くが、興味深いことに、この時代に複数の単独女王を輩出している。この統治女王たちは現地の言葉でカンダケと呼ばれていた。
 その初例は、紀元前2世紀代に出たシャナクダケトである。これ以前には数百年遡る最初の王朝の最後に一人の女王の名が記録されているだけで女王は忌避されていたと見られるのに、突然女王が出現した経緯や彼女の詳しい事績も明らかでないが、残されたレリーフにはシャナクダケトが戦士の姿で描かれていることからすると、女性戦士としての功績から女王に登位した可能性もある。
 メロエ朝で記録に残るカンダケはシャナクダケトを含め、10人近くを数えるが、事績が明確な人物は限られる。その中で、紀元前1世紀代に出たアマニレナス女王は紀元前27年から22年にかけてのローマ帝国との交戦に関してストラボンの歴史書でも言及されている。彼女はプトレマイオス朝の滅亡によりすでにローマのものとなっていたエジプトに侵攻して緒戦で勝利を収めるが、間もなく女王が没すると、メロエ軍はローマ軍の反転攻勢により押し戻され、最終的にはローマのアウグストゥスと比較的有利な条件で講和する。
 次いで紀元後1世紀代初頭に出たアマニトレ女王はメロエ朝全盛期を演出したと見られ、この時代にはエジプトの影響を受けたピラミッドが数多く築造されている。彼女はまた新約聖書・使徒言行録中でエチオピア人の改宗に関連して言及される「エチオピア女王」を指すとも考えられている。
 メロエ朝では終末期になるにつれ、女王の登位頻度が高くなり、紀元4世紀の最後の王もラヒデアマニという女王であった。このようにクシュ王国の最終王朝が多くの女王を輩出した理由は不明だが、カンダケの権威が極めて高かったことはたしかである。
 このような現象は隣接するエジプトとは異質である。クシュ王国は一時エジプトを支配して以来、エジプト文明の強い影響を蒙り、それはピラミッド建設や宗教にも現われているが、元来は異なる民族文化圏に属しており、ヌビア独自の社会構制が古代国家としては異例の女王支配を発現させたのであろう。


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