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戦後ファシズム史(連載第14回)

2016-01-08 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐2:「コンドル作戦」体制
 
冷戦期の南米では、1960年代から70年代にかけて、次々と親米反共の軍事独裁政権が成立していくが、やがてこれらの体制は「共産主義の撲滅」を大義名分に連携して左派に対する殺戮作戦を展開し始める。
 「コンドル作戦」と命名されたこの共同作戦は、主としてチリ、アルゼンチン、ブラジル、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイの六か国を中心に断行された。そこでこれら「コンドル作戦」に参加した体制を「コンドル作戦」体制(以下、「コンドル体制」と略す)と呼ぶことにする。
 その中でも、パラグアイのストロエスネル体制については先行してすでに論じたが、それはこの体制が他のコンドル体制とは趣を異にし、軍部のみならず既成政党も利用した不真正ファシズムの特徴を備えていたためである。パラグアイを例外として、その余のコンドル体制はすべて軍部が支配する軍国的な擬似ファシズムの形態を採っていた。
 その多くは軍部による集団指導体制であったため、単独の独裁者が一貫して支配した例は少ないが、73年から90年まで続いたチリのピノチェト独裁体制はその例外であるので、次回個別に取り上げることにする。
 コンドル体制は、1954年という冷戦初期に成立していたストロエスネル体制を除けば、59年のキューバ社会主義革命とその直後のキューバ危機を背景に、米国が地政学的な「裏庭」とみなす中南米へのキューバ革命のドミノ的波及を防止するという目的から、米国を黒幕として実行された反共工作の結果として出現した。
 その際、クーデターとその後の軍事政権の中心となった軍人の多くは、米国が1946年に南方軍内に設立した「アメリカ陸軍米州学院」(現西半球安全保障協力研究所)で特殊訓練を受けたエリート将官らであった。
 この「学院」は中南米において反共軍事作戦の技術を訓練することを目的としたまさに反共教育機関であり、そこでは被疑者への拷問のような不法な人権侵害手段も教育されていたとされる。修了生らはそれらの技術を国に持ち帰り、軍事クーデターや軍事政権下での反共弾圧作戦に応用していったのである。最大推定で計8万人の犠牲者を出したともされるコンドル作戦は国境を越えたその集大成と言えるものであった。
 コンドル体制に含まれるすべての体制についてここで詳述する余裕はないが、中でもとりわけ苛烈な結果をもたらしたのは、76年の軍事クーデターで成立したアルゼンチンの軍事政権である。
 アルゼンチンでは、第一部で論じたように、旧ファシズム体制の指導者ペロンが高齢で返り咲くも急死、後継の妻イサベルも政権運営に失敗する中、76年に軍部がクーデターで全権を掌握する。当時のアルゼンチンでは左傾化したペロン主義武装組織などによる破壊活動が横行していたのは事実であり、76年クーデターもこうした騒乱状態の回復を名分としていた。
 しかし、軍事政権はそうした治安回復の目的を越えて、「国家再編プロセス」なるイデオロギーを掲げ、左派に対するあらゆる不法手段を駆使した殲滅作戦を展開した。その犠牲者数は未だに確定していないが、最大推計で3万人ともされ、一連のコンドル体制の中でもおそらく最大級の犠牲者を出したと見られる。
 英国との領有権紛争であるフォークランド戦争に敗れて退陣に追い込まれた83年まで、六代の軍人大統領をまたいで続いた軍事政権下での「国家再編プロセス」は、後に「汚い戦争」と命名され、アルゼンチン現代史上の汚点とみなされている。
 コンドル体制は、80年代の冷戦晩期に入ると、82年のボリビアを皮切りに順次退陣・民政移管がなされ、90年のチリを最後に終焉する。その共通的な背景として、経済政策での失敗と国際的な人権批判の高まりがあった。
 しかし、コンドル体制下での反人道犯罪に対する司法処理はおおむね21世紀に持ち越された。とりわけ、アルゼンチンの「汚い戦争」に関しては民政移管後の文民政権により一部指導者の裁判が行なわれたものの事実上の免責法である終結法が制定されたことで、全容解明は法的に不可能になったが、軍政時代に行方不明となった青年たちの母親グループなどが真相解明を求めて運動を続けた。
 その結果、03年に終結法が廃止され、改めて関係者の責任追及が可能となった結果、76年クーデター当時の指導者で81年まで軍政大統領を務めたホルヘ・ヴィデラ元将軍に対する審理も改めて行なわれ、2010年に終身刑判決が確定した。
 他方で、64年から85年まで20年以上続いたブラジル軍事政権下の反人道犯罪については軍政下で制定された免責法のために全く審理がなされていないなど、コンドル体制下での反人道犯罪に対する司法処理の熱意には国による温度差が大きく、なお全容解明には至っていない。


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