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年頭雑感2016

2016-01-01 | 年頭雑感

昨年の漢字は「安」であった。これが選ばれたのは、「安保法制」をめぐる攻防が昨年最大級のイベントだったからのようであるが、たまたま「安保法制」を主導した時の首相の苗字の頭文字とも一致しているので、掛け字のようでもある。

「安」の本来的な意味は安らかということだが、昨年の「安」は決してそのような本義で選ばれたのではなさそうである。むしろ「安」のあり方をめぐって、国内的にも先鋭な対立が生じたことの反映だろう。そういう微妙な選字のせいか、報道もほとんどなされなかったように見える。意図的な報道自粛だとすれば、そこまで報道の自由の減弱が進行していることになる。

それはともかく、「安」をめぐる対立は真の「安」と見せかけの「安」との間で生じている。真の「安」は文字どおり、安らかで泰平であることだが、見せかけの「安」は軍事的な手段で確保される無事のことである。

難民数が過去最高を記録した昨年、世界の漢字を選ぶとすれば、おそらく「難」になるはずであるが、これも後者の見せかけの「安」が生み出した「難」である。

こうした「難」の高まりをめぐっても、二つの「安」の対立は生じ得る。一つはこれを人道問題ととらえ、難民保護の強化を訴える立場であるが、それは見せかけの「安」を脅かすと認識されるので、反対論も盛り上がり、反難民を高調する勢力を勢いづかせるだろう。そこから新たなファシズムが欧米でも派生してくる可能性は十分にある。

本来、人は難民として外国で保護されるのではなく、自分が生まれ育った場所で平穏に生涯を過ごすのが一番の「安」であるが、そのためには真の「安」を脅かす見せかけの「安」を一掃すべきところ、各国の支配層は見せかけの「安」に拠っている。

見せかけの「安」の究極的な狙いは、グローバル資本主義の集大成的な構築という点にある。昨年の「難」も、大きく見れば、そのような晩期資本主義の構造が生み出した生活破壊であり、その大元を再考しない限り、「難」を真の「安」に変えることはできない。しかし残念ながら、今年も世界はそのことに気がつこうとしないだろう。

かくして、毎年の「年頭雑感」が実質上同一の内容に帰するのはさびしい限りだが、それが現実である。「新年」の実感は年々薄れ、前年からさらに後退が進む「更年」としてしか認識できないこの頃である。

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