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晩期資本論(連載第60回)

2015-08-25 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(4)

・・・資本家が貨幣資本家と産業資本家とに分かれるということだけが、利潤の一部分を利子に転化させ、およそ利子なる範疇をつくりだすのである。そして、ただこの二種類の資本家のあいだの競争だけが利子率をつくりだすのである。

 前回も見たように、資本家階級内部での貨幣資本家vs.産業資本家の階級内対立構造が、利子と利子率決定の根源となる。

・・・・・・資本本来の独自の生産物は剰余価値であり、より詳しく規定すれば利潤である。ところが、借りた資本で事業をする資本家にとっては、資本の生産物は利潤ではなく、利潤・マイナス・利子であり、利子を支払ったあとに彼の手に残る利潤部分である。・・・・・・・・彼が総利潤のうちから貸し手に支払わなければならない利子に対して、利潤のうちまだ残っていて彼のものになる部分は、必然的に産業利得または商業利得という形態をとる。または、この両方を包括するドイツ的表現で言えば、企業者利得という姿をとる。

 利潤・マイナス・利子を企業者利得と呼ぶわけは、「この利得は、ただ彼(借入資本で事業をする資本家)が再生産過程でこの資本を用いて行なう操作や機能だけから、したがって、特に、彼が企業者として産業や商業で行なう機能から発生する」ことによる。

・・・・利子は資本自体の果実、生産過程を無視しての資本所有の果実であり、企業者利得は、過程進行中の、生産過程で働いている資本の果実であり、したがって資本の充用者が再生産過程で演じる能動的な役割の果実であるということ―このような質的な分割は、けっして一方では貨幣資本家の、他方では産業資本家の、単に主観的な見方ではない。それは客観的な事実にもとづいている。

 このように、マルクスは利子と企業者利得との関係構造を「総利潤の質的分割」という視座でとらえる。「そして、このように、総利潤の二つの部分がまるでそれぞれ二つの本質的に違った源泉から生じたかのように互いに骨化され独立させられるということは、いまや総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるえない」。

自分の資本で事業をする資本家も、借り入れた資本で事業をする資本家と同じように、自分の総利潤を、資本所有者としての自分、自分自身への資本の貸し手としての自分に帰属する利子と、能動的な機能資本家としての自分に帰属する企業者利得とに分割する。

 出資者が拠出した自己資本で事業を展開する場合にも、利子に当たる利益配当と企業者利得との分割を観念することは可能であり、この場合、「彼の資本そのものが、それがもたらす利潤の諸範疇との関連において、資本所有、すなわち生産過程のにあってそれ自体として利子をもたらす資本と、生産過程のにあって過程を進行しながら企業者利得をもたらす資本とに分裂するのである」。これにより、所有と経営の分裂(分離)構造が生じる。
 とはいえ、借入金の利子と利益配当は性質の異なるものであって、「質的な分割としてのこの分割にとっては、資本家が現実に他の資本家と分け合わなければならないかどうかは、どうでもよいことになる。」というのは、行き過ぎた一般化であろう。自己資本による事業展開の場合は、所有と経営の分裂が起こるかぎりにおいて、利潤の内的な分割が生じるに過ぎない。一方、内部留保等を活用したいわゆる自己金融による場合は利子の支払いは不要であり、利子と企業者利得の分割は起こらない。

・・・・彼(個別資本家)は、自分の資本で事業をする場合でも、自分の平均利潤のうち平均利子に等しい部分を、生産過程を無視して、自分の資本そのものの果実とみなすのであり、また、利子として独立させられたこの部分に対立させて、総利潤のうち利子を越える超過分を単なる企業者利得とみなすのである。

 仮に個別資本家がこのような意識で動いているとすれば、先の自己金融の場合にも質的分割は生じていることになるが、実際のところ、このような意識は個別資本家、特に経営者にはないであろう。またこうした主観的説明は、先に質的分割を「客観的事実」と規定したところとも整合しない。


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