ザ・コミュニスト

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戦後70年―戦争の変質

2015-08-06 | 時評

毎年、広島原爆投下の日の今日8月6日から、長崎原爆投下の日の9日を通って終戦の15日までは恒例の平和週間となる。今年は戦後70年の節目ということで、例年よりも平和関連行事が盛んのようである。しかし、年を追うごとに「戦争記憶の風化」という指摘が増えてきている。平和の恒例行事化も、実は風化の現れなのである。

記憶の風化が生じる最も大きな要因は戦争の直接体験者が毎年確実に物故していっていることによるもので、これは避け難いことであるが、もう一つはこの70年間で戦争の性格が大きく変わったことがある。

20世紀の二つの世界大戦のように、国家が国力を総動員して交戦する総力戦・世界戦に代えて、国家が兵力を集約して一定の地域で交戦する―交戦相手には民間武装勢力も含まれる―限定戦・局地戦が主流となった。

目下、今年最大の政治的争点となっている集団的安保法制についても、批判者から「戦争法案」と指称されるときの「戦争」として70年前の世界戦争のようなものを想起すると的外れになるだろう。

このように戦争の性質が大きく変わったとしても、戦争の本質=人命喪失・環境破壊は不変である。ところが、そうした本質認識もしづらくなっている。戦場では遠隔操作の無人機が爆撃をする時代である。徴兵もほぼ過去のものとなり、戦場へ出るのは専門的訓練を受けた志願兵であり、一般大衆はコーヒーを飲みながら空爆をテレビ観戦していればよい。

このような「スペクタクル」の戦争では、実戦と戦争ゲームの境目もあいまいになり、戦争のハードルは下がりがちとなる。反戦という価値観自体が風化の危機にある。

とはいえ、総力戦・世界戦は過去のものとなり、核廃絶は進展せずとも、核兵器は「抑止」という名の牽制の手段となり、実用は想定されなくなりつつある。このことは、総力戦・世界戦の記憶が今日まで何とか継承されてきたことの中間的な成果と言ってよいだろう。さらに進んで、およそ戦争の全般的な禁止は未来の課題である。

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