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晩期資本論(連載第61回)

2015-08-26 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(5)

資本主義的生産の基礎の上では、資本家は生産過程をも流通過程をも指揮する。生産的労働の搾取は、彼が自分でやるにせよ、彼の名で他人にやらせるにせよ、努力を必要とする。だから、彼にとって彼の企業者利得は、利子に対立して、資本所有にはかかわりのないものとして、むしろ非所有者としての―労働者としての―彼の機能の結果として、現われるのである。

 このように、企業者利得が資本家自身の「労賃」として立ち現われる場合、労働の監督に対する賃金という意味で、「監督賃金」と呼ばれる。

・・・・・・(監督賃金は)普通の賃金労働者の賃金よりも高い賃金である。なぜ高いかといえば、(1)その労働が複雑労働だからであり、(2)彼は自分自身に労賃を支払うのだからである。

 たしかに監督賃金は通常の労賃より高額だが、その理由は(1)複雑労働だからというよりも、(2)自分自身に支払うお手盛りだからという理由のほうが大きいだろう。複雑労働というだけならば、通常の賃金労働にも複雑労働は存在するからである。

彼(資本家)が剰余価値をつくりだすのは、彼が資本家として労働するからではなく、彼の資本家としての属性から離れて見ても彼もまた労働するからである。だから、剰余価値のこの部分は、もはやけっして剰余価値ではなく、その反対物であり、遂行された労働の等価である。

 より抽象化すれば、「資本の疎外された性格、労働にたいする資本の対立が、現実の搾取過程のかなたに、すなわち利子生み資本のなかに移されるので、この搾取過程そのものも単なる労働過程として現われるのであって、そこでは機能資本家もただ労働者がするのとは別の労働をするだけである」。要するに、「企業者利得には資本の経済的機能が属するが、しかしこの機能の特定な、資本主義的な機能は捨象されている」。

資本主義的生産それ自身は、指揮の労働がまったく資本所有から分離して街頭をさまようまでにした。だから、この指揮労働が資本家によって行われる必要はなくなった。

 すなわち経営管理者制度への移行である。この場合、「管理賃金は、商業的管理者にとっても産業的管理者にとっても、企業者利得からまったく分離されて現われるのであって、労働者の協同組合工場でも資本家的株式企業でもそうである。企業者利得からの管理賃金の分離は、他の場合には偶然的に現われるが、ここでは恒常的である」。なかでも「一般に株式企業―信用制度とともに発展する―は、機能としてのこの管理労働を、自己資本であろうと借入資本であろうと資本の所有からはますます分離して行く傾向がある」。その結果―

・・・単なる資本所有者である貨幣資本家に機能資本家が相対し、信用の発展につれてこの貨幣資本そのものが社会的な性格をもつようになり、銀行に集中されて、もはやその直接の所有者からではなく銀行から貸し出されるようになることによって、また、他方では、借入れによってであろうとその他の方法によってであろうとどんな権原によっても資本の所有者でない単なる管理者が、機能資本家そのものに属するすべての実質的な機能を行なうことによって、残るのはただ機能者だけになり、資本家はよけいな人物として生産過程から消えてしまうのである。

 現代資本主義において、上場公開企業の多くはこうした機能者のみの企業である。そこには、もはや言葉の真の意味での「資本家」は存在せず、経営管理者がすべてを統括している。一方で、貨幣資本を代表する銀行は最大の債権者として、貸出し先企業の経営にも関与している。

資本主義的生産の基礎の上では、株式企業において、管理賃金についての新たな欺瞞が発展する。というのは、現実の管理者の横にも上にも何人かの管理・監督役員が現われて、彼らの場合には管理や監督は実際に、株主からまきあげて自分のものにするための単なる口実になるからである。

 現代的な株式企業では、大企業ほど多数の役員を擁しているが、かれらに支払われる管理賃金が、上で述べられたように企業者利得から完全に分離されているかどうかは疑問である。特にアメリカ企業ではしばしば最高経営責任者をはじめとする役員報酬の突出した金額が問題とされる。マルクスも、多数の会社の役員を兼任して儲けている銀行家や商人の存在に関する1845年のロンドン実業界のゴシップ記事を引用して、次のように指摘する。

このような会社の重役が毎週の会議に出席して受け取る報酬は、少なくとも1ギニー(21マルク)である。破産裁判所の審理が示しているところでは、通例この監督賃金は、これらの名目上の重役たちが実際に行なう監督に反比例しているのである。

 資本主義が先行的に発達した英国では、19世紀半ばの段階でこうした不当高額報酬を受け取る重役たちが存在していた。このような役員報酬はまさにお手盛り的に、企業者利得から配分されていると見る余地もある。
 長く重役を労働者からの内部抜擢制によってきた日本的企業経営では監督(管理)賃金の企業者利得からの分離傾向は大きかったと言えるが、グローバルスタンダードの名の下に、アメリカ型企業組織の導入が進んだ近年は、日本でも兼任役員や役員報酬の高額化が見られる。

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