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晩期資本論(連載第58回)

2015-08-11 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(2)

貨幣は、自分が貨幣としてもっている使用価値のほかに、一つの追加使用価値、すなわちそれが資本として機能するという使用価値を受け取るのである。ここで貨幣の使用価値とは、まさに、それが資本に転化して生みだす利潤のことである。このような可能的資本としての、利潤を生みだすための手段としての属性において、貨幣は商品に、といっても一つの独特な種類の商品となるのである。あるいは、結局同じことであるが、資本が資本として商品となるのである。

 貨幣の面から見れば、資本主義とは物品の交換手段である貨幣が利潤を増殖的に生みだす資本に転化することに特徴があった。そうすると、資本主義における貨幣はそれ自体が資本に転化する一つの商品となり、そうした商品としての貨幣を専業的に取り扱うのが銀行を含む貨幣取引業である。

・・・利子とは、利潤のうち機能資本が自分のポケットに入れないで資本の所有者に支払ってしまわなければならない部分を表わす特殊な名称、特殊な項目にほかならないのである。

 マルクスが挙げている簡単な設例で言えば、年平均利潤20パーセントで、100ポンドの貨幣を所有する資本家Aが資本家Bにその100ポンドを一年間貸し付けたとして、Bが5ポンドを利子としてAに支払う場合、この利子5ポンドは20ポンドの利潤を生みだす資本=商品の使用価値の代価として利潤の一部をAに支払う計算になる。この場合、資本家Aはまさに貨幣を融通する金融資本して機能している。これが利子生み資本の最も原初的な形態である。
 実際のところ、金貸し業者は資本主義が勃興する以前から商品経済内に出現していたが、資本主義における金融は単なる金貸しではなく、商品としての資本を融通する特殊な資本であるということになる。

自分の貨幣を利子生み資本として増殖しようとする貨幣所有者は、それを第三者に譲り渡し、それを流通に投じ、それを 資本として 商品とする。それは、それを譲り渡す人にとって資本であるだけでなく、はじめから資本として、剰余価値、利潤を創造するという使用価値をもつ価値として、第三者に引き渡される。すなわち、運動のなかで自分を維持し、機能を終わったあとでその最初の支出者の手に、ここでは貨幣所有者の手に還ってくる価値として、引き渡されるのである。

 この「還流」ということが、利子生み資本を特徴づける性質である。そして、資本が商品であるということは、それが貸し手のみならず、借り手にとっても資本であること―他人資本―であることを意味している。

貸し手も借り手も、両方とも同じ貨幣額を資本として支出する。しかし、ただ後者の手のなかだけでそれは資本として機能する。利潤は、同じ貨幣額が二人の人にとって二重に資本として存在することによっては、二倍にならない。その貨幣額が両方の人にとって資本として機能することができるのは、利潤の分割によるよりほかはない。貸し手のものになる部分は、利子と呼ばれる。

 先に「利子とは、利潤のうち機能資本が自分のポケットに入れないで資本の所有者に支払ってしまわなければならない部分を表わす特殊な名称、特殊な項目」と説かれていたこととつながる記述である。ここでは「利潤の分割」という規定がポイントとなる。

・・・利子と本来の利潤とへの利潤の分割が商品の市場価格とまったく同様に需要供給によって、つまり競争によって規制されるかぎりでも、資本は商品として現われる。しかし、ここでは相違も類似と同様にはっきりと現われている。

 利潤の分割の割合を示す指標が利子率であるが、この利子率も一般商品の市場価格のように需給関係によって決定される。しかし、一般商品との相違もある。すなわち―

利子の場合には、競争が法則からの偏差を規定するのではなく、競争によって強制される法則よりほかには分割の法則は存在しないのである。なぜならば、・・・・・・・・・利子率の「自然的な」率というものは存在しないからである。利子率の自然的な率というのは、むしろ、自由な競争によって確定された率のことである。

 一般商品では、需要と供給が一致すれば、商品の市場価格は原理的な、つまりは「自然的な」生産価格に一致する。この法則は、マルクスによれば労働力商品の価格としての労賃にも当てはまる。
 ところが、利子率に関してはこうした法則が妥当せず、それはひとえに競争の結果として確定する。「競争がただ単に偏差や変動を規定するだけではない場合、つまり、競争の互いに作用し合う諸力が均衡すればおよそあらゆる規定がなくなってしまう場合には、規定されるべきものが、それ自体として無法則なもの、任意なものなのである」。こうした恣意的な利子率の変動に関する考察は次回に回される。


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